住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

修行とは

2008年06月26日 12時18分51秒 | 仏教に関する様々なお話
(仏教総合雑誌・大法輪6月号特集「知っておきたい仏教の常識」掲載)

さとりとは、この世の中の真理をさとることに他ならない。この世のありよう、因果法則、道理とも言えよう。それを知るためには教えを学びつつ、心を磨く実践修行が不可欠となる。

仏教の実践は、一般に戒・定・慧という三つの観点から説明される。

日常の生活姿勢を道徳的に規則正しく調え、身心について良い習慣を身につけるために戒があり、

そうした正しい生活のもとで身も心も調整されると心を統一する定が生じ、

そして最終的な目的であるさとりの智慧をはじめ様々な慧を獲得していくのである。

この戒・定・慧に該当する伝統的な南方上座部の修行法をあげるならば、

戒には、衣食住に関わる清貧な生活により清浄な心をもたらす頭陀行(dhuta)があり、

定には、心を統一し禅定をもたらす瞑想法であるサマタ(samatha)が、

慧には、智慧を開発する瞑想法としてヴィパッサナー(vipassana)がある。

頭陀行は、南伝大蔵経『清浄道論』によれば、粗末な袈裟だけを着し、托鉢による一日一座の食を摂り、樹下を住まいとして瞑想に励むなど十三種の行じ方が教えられている。

それにより煩悩を払い衣食住における欲を捨てて仏道に邁進する基礎とするのである。

サマタは、同論には、瞑想の対象(業(ごつ)処(しよ))として四十種の対象が記され、四十業処と言われる。

地面に大皿ほどの円を描き「地、地」と唱え心に念じて地面などの対象と一体となる観念をする十遍処や、

死体の腐乱の様子を観察する十不浄、

仏の徳を念じる仏随念や呼吸を観察する入出息念などの十随念、

さらに慈悲喜捨を念じる四梵住など、

それぞれの対象に心を集中し瞑想することにより、自我の意識がなくなり禅定をもたらすのである。

ヴィパッサナーは、同『長部経典・大念處経』に、四念処として詳述されている。

①呼吸や身体の動き行いについて、

②様々な感覚について、

③心に生じる考えや思いについて、

④自己の内外に生じる現象について、

間断なく観察し、不浄・苦・無常・無我とそれぞれを随観しつつ、智慧を開発する。

これら戒・定・慧は相互に関係し、一体不離となって仏道修行を完成に導くのである。

なお、大乗仏教においても様々な修行が説かれるが、いずれもここに紹介した修行法を継承したものと考えられよう。

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日本のお坊さんはどうして結婚しているのか

2008年06月23日 06時56分21秒 | 仏教に関する様々なお話
(仏教総合雑誌大法輪6月号特集「知っておきたい仏教の常識」掲載)

日本仏教は、そのはじめから国家仏教であり、僧侶はもとから国の庇護と規制の下に置かれた。

七五七年、『僧尼令』二十七条が制定され、僧尼の出家には官の許可を要した。試経という試験に合格すると剃髪し、受戒(四分律二五〇戒)が行われた。律蔵に規定された通り「交淫、盗み、殺人、悟りを得たと詐称する事」が重く禁ぜられ、犯すと還俗しなければならなかったのである。

この時代にもまったく破戒僧がいなかった訳ではないだろう。しかし、官僧として大戒二五〇戒を受持する制約があった。

しかし、後に天台宗では、大乗梵網経にある十重四十八軽戒をもって僧侶の受戒と見なす大乗戒壇を比叡山に建立した。これにより大戒を受持せずとも官僧として遇されることとなった。

このことが、後生の僧侶に厳正な戒律に対する意識低下を助長することになったのである。

鎌倉時代以降、官僧を脱して自由に活動する僧侶が増えて一層戒律が軽視された。

僧兵が現れて不殺生戒を犯し、「末代には妻もたぬ上人年をおうて稀にこそ聞こえし」(沙石集)と記されるように、隠れて妻帯することも特別なことではなかったであろう。だからこそ、慚愧の念をもって公然と妻帯する僧侶も現れてくる。

江戸時代には、寺院僧侶は厳しく統制された。その一方で、幕府の官僚として人民の管理統制を担い、僧侶は堕落傲慢にふけり、社会の反発を招いた。

そして、それがために明治新政府の神道国教化政策により、一八七二年(明治五)
「僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべきこと」と太政官布告があり、それまで僧尼令で定められた肉食妻帯の禁が解かれる。

これは国家が妻帯を認めたということではなく、国家が仏教との関わりを解く一環であったに過ぎない。しかし、これを国の意向と受け取り、妻帯に踏み切る僧侶が多く現れたのである。

僧侶の妻帯問題は、明治後期まで仏教界にとって誠に重大な問題であった。各宗宗議会で公認すべきか否かで議論紛糾したが、結局自然の成り行きに順じる方向で収束し、現在に至っているのである。

今日では、このことに何の痛痒も感じない僧侶を生む時代となっている。まさに破戒ではなく無戒の時代なのだと言えよう。

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お坊さんの袈裟と剃髪の意味

2008年06月19日 08時00分35秒 | 仏教に関する様々なお話
(大法輪誌6月号特集「知っておきたい仏教の常識」掲載)

お釈迦様の時代の仏教に近いとされるスリランカ、タイなどの南方上座仏教における出家の儀礼から袈裟と剃髪の意味を考えてみたい。

今日上座仏教では、仏教僧になるためには、まず十戒を授かり沙弥(しやみ)という見習い僧になる儀礼を受け、その後、具足戒(二百二十七戒)を受けて正式な僧侶(比丘(びく)と言われる)となる。

まず、沙弥になるためには、三衣という三種類の袈裟と鉢を用意して剃髪しなければならない。そして、それまでの世俗の世界から僧院という神聖な修行環境に身を投じるのであるから、在家時代の僧院生活には不要な所持物を放棄する必要がある。

世俗の衣服類も勿論僧院に持ち込むことは出来ない。そのため沙弥出家の儀礼において、出家が許された段階で俗服を脱ぎ袈裟を着するのである。

その地方の気候環境によって保温のために内衣を着ることも許されるが、本来は袈裟だけが正式な僧侶の着物ということになる。

袈裟は、もともと拾い集めたボロ布を縫い合わせて作り、それは糞掃衣(ふんぞうえ)とも言われる。施しによって新しい布で作る場合も、壊色(えじき)と言われる、くすんだ黄色から茶系の色に染め、つまり世間の人が好まぬ色に染めて、身なりを飾るという執着を絶つのである。

沙弥出家の儀礼においては、予め剃髪した頭に戒師はカミソリを当てる。これも仏道修行に精進するために、俗世間から抜け出し、それまでの垢を剃り落とすという意味がある。

剃髪し袈裟を着す姿は、我は出家者であるという意思表示をすることになり、それによって戒律を犯すような邪な行為や誘惑から身心を守るのである。

袈裟だけで生活するということは、どこへ出かけるにも着替える必要もなく、くすんだ黄色や茶色の袈裟は汚れが目立つこともない。

また、長髪であれば洗髪にも時間が掛かり、整髪も必要になる。しかし剃髪すれば、ただ定期的に伸びてきた髪を剃り上げるだけで済む。

ともに修行に専心するための簡便な生活スタイルであると言えよう。

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6/19改訂 いのちとは何か-つらい思いを抱えている人に

2008年06月17日 18時25分31秒 | 仏教に関する様々なお話
私たちはみんなこの身体を持った自分が私だと思っている。この顔、この身体、今のこの思いや記憶を持った自分が私だと思っている。だからこのいのちも自分のものだと思う。私私と思っている私とは何か。そんなに確かな自分などと言える存在があるのか。

生まれてこの方ずっとこの身体が成長し、たどってきた道のりを生きてきたこの私はとても確かなものだと思っている。人から何か言われたり、何かされたりしたら、この私がうれしくなったり、逆に苦しくなり。イヤなことならことさらに何でこの私がと思う。

つらいことが重なりイヤになって逃げられなくなって、つい自分を傷つけたり、いのちを絶ったりする人も多い。自分のいのちだから自分がどうにでもしていいと思うのかもしれない。いやそんなことも考えずに、ただつらい現実から逃れたい、思い知らせたいとも思うのかもしれない。

私たちのこのいのちとははたしていかなるものなのか。昔は、いのちは授かりものだったのではなかったか。赤ちゃんは授かるもの、けっして親が作るものじゃない。天の神様か仏様か知らないがとにかく私たち人間の考えの及ばないところから授かった尊いものだった。

それが今では、いのちの尊さと叫ばれながら逆に軽く考えられてもいるように思える。なぜなのだろうか。尊い尊いと言いながら、その実いのちとはいかなるものかと説明されることが皆無だからではないか。近代科学では命を説明することは出来まい。単なる部品の構成では説明できない。

仏教では本来輪廻を説く。近代になって仏教者はなぜか近代科学思想に染まり、この輪廻転生を説かなくなった。誠に愚かしいことだと思う。輪廻からの解脱無くして仏教は存在し得ない。そもそものお釈迦様の出家の動機さえも無に帰してしまう。お釈迦様の悟りすらその意味を問うことになるであろう。

輪廻は世界の仏教徒の共通認識であり、日本でも当然のこととして受け入れられてきた。鎌倉時代、なぜあれだけ熱病的に浄土教が普及したのか。それは、武士の世にあって、来世に地獄に堕ちたくない、出来れば極楽浄土という天界に行きたいとの願いからであったろう。だから平安時代には既に輪廻思想は日本人に普通に受け入れられていたと考えられる。

私たちはみんな生まれてきたときから環境も体質も顔も違う。持って生まれた才能、好き嫌い。ものの好みも一人として同じ人はいないはずだ。なぜ違うのかと言えば、それは前世が違うから。何回も何万回も生まれ変わってきた、その間に蓄えてきた業がみんな違うからだと説明できる。

同じお母さんに生まれても兄弟で、ものの見方、考え方、好みは違うだろう。一卵性双生児であったとしても、身体は似ていても、その心や才能までは同じではない。やはり違うものをもって生まれ、違う人生での役割、その生涯でなすべきテーマとでもいうものは違う。

池川明さんという産婦人科医が、日本でも前世の記憶のある子供から聞き取りをして生まれ変わりの研究をされている。『子供は親を選んで生まれてくる』(日本教文社刊)という本を出されているが、それによれば、私たちはみんな自分で気に入ったお母さんを天の上の方から見て選び、自分に相応しい人生を歩むことの出来るお母さんのお腹に入って生まれてくるのだと書かれている。

仏教では、前回の生で死ぬ瞬間にどんな心で亡くなったか、その瞬間の心のエネルギーに相応しいところに生まれ変わると考えられている。その心に相応しいお母さんのお腹に宿り、その心にかなった人生を歩むべく私たちは人生をスタートさせる。

だからこの人生とは今生のこの私のものではなく、何度も何度も生まれ変わりしてきた心がいかに成長を遂げるか、そのために私たちが自分と思っているこの身体を借りて、今回の人生を歩んでいるということになるのだろう。だから私たちのいのちは、たかだか80年ばかりの、ずっーと繋がってきてその先もある心の連続の営みのそのごく一部であるに過ぎない。

ときに私たちにはとてつもない試練がやってくる。それも突然に。そんなはずではなかったといえるような事態に陥り、にっちもさっちもいかない。何でこんな事になってしまったのか。よくなるはずだったのになぜ、と思えることもあるだろう。周りの人たちからいじめに遭いつらい時間を過ごし耐えきれない思いをしている人もあるだろう。

またはかなり危険な病気になり、よく診察も受けないうちからもうダメだ、何でこの私がこんな病気になってしまったのか。この先どうしたらいいのかと思い眠れぬ晩を過ごすこともあるかもしれない。または、突然の事故で身近な人を失い、茫然自失このことをどう説明していいのかも分からないということもあるだろう。

そんなとき仏教はこう語りかける。今のあなたばかりが悪いのではない。これまでの沢山の過去世の報いとして今あなたのなされた何でもないと思える行為が縁となりその災難が訪れているのであろう、だから静かに受け入れましょうと。つらいけれども、その試練を受け入れ乗り越えることによって、あなたのこの人生で学ぶべき大きな課題をクリアすることが出来るのだから。

安易にそこから逃げてしまうことは何の解決にもならない。また同じようなことを繰り返すことにもなりかねない。自殺も、同じこと。それはけっしてそれで終わることなく、いのちは自分のものと思っているかもしれないが、いのちを大切にしなかった殺生の悪業が加算されて、さらに来世は難しい苦しい生が待っているであろう。

このいのちは自分のものではない。始まりも終わりもないいのちをこの身体が一時期預かっているに過ぎない。ということは、そんなに一人思い悩む必要もないということでもある。私私と思っている私は、心の連続に過ぎない。見るもの聞くもの、感じたものに反応し、頭の中に思い描いている心の連鎖を私と思っているだけだ。この身体のせいで私だと思っているに過ぎない。

私たちは、この身体という衣を脱ぎ捨てて、来世に赴いて行ってしまう心の連続を私と勘違いしているということになる。だから、私と思っているものは私たちの錯覚に過ぎないと仏教では考える。いま悩み苦しんでいるのは心であって、あなたではない。あなたは心の痛みをただ傍観するだけでいいのだ。

さらに、私たちが何回も何万回も生まれ変わりしてきたということは、過去生で何かしらみんな関係し、特に今生で縁のあったような人は前世でも何かしら関係をもち、親族であったかもしれないし、伴侶だったのかもしれない。様々な因縁をもって、ことに触れて関係するものたちとはきっと血を分けた兄弟だったのかもしれない。そんな風に考える。

だから、道行く人も、生きものたちもみんな前世では何かしら血縁があったであろう、お母さんであったかもしれないしお父さんであったかもしれない、みんながそれぞれに関係し共存しあっていると言える。そう考えると、みんなが自分と繋がりがあり大切なものたちであることに気づく。そこに深遠なる慈悲の心が生まれる。

だから私たちはだれもみんな一人で存在しているわけではない。それぞれに他と関わりをもち、ともにあることによって生きている。みんながいるから自分がある。孤独感に苛まれている人には他とともにあるからこそ今こうして生きているということに思いをいたして欲しい。あなた一人ではない、みんなそれぞれに大変な人生を生きているのだから。


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法事は何のためにするのか?

2008年06月15日 17時13分14秒 | 仏教に関する様々なお話
今日の法事での法話をそのまま再現してみよう。

今日は○○居士の十三回忌ということでお集まりいただき、お経を唱えさせていただきました。このあたりの田舎ではそんなことはないのですが、都会ではお葬式も法事もだんだんと簡略化しまして、法事をしない、さらにはお葬式もしないで直接火葬して埋葬してしまうなんていう家もあると聞いております。

もちろん仏教では、死はごく自然なものととらえています。忌み嫌うものではない。ですが、一方ではペットのお葬式だとか法事をする家もある時代に、かたや何もせずに火葬にする。ペットの方が人様よりも大切にされるおかしな時代と言えましょうか。本当に、こんな事でよいのでしょうか。

昔、知り合いの家で亡くなった人があり、すぐ火葬するので火葬場でお棺を入れるときに、少しお経を唱えてくれと言われて呼ばれたことがあります。その時は、そうは言っても、そんなに簡単なことではない、せめて病院の霊安室で拝ませて下さいと言って、そうさせてもらったこともあります。

だんだんと息子さん娘さんが都会に出られて、そちらの風潮をご覧になれば、このあたりでもそういうことがあるかもしれません。是非、若い世代の人たちにも、仏壇やお寺、お墓や先祖さんを大切にする心を伝えていって欲しいと思います。

私たちはみんな自分が死ぬなんて事を考えません。ですから、普段の生活をしていたら、そんなものはどうでもよいと思うかもしれません。自分はいつまでも健康な若い自分だと思っています。ですが、般若心経にあるように、私たちは五蘊という存在に過ぎません。五蘊とは、色受想行識、色が身体で、受想行識が心ということです。

心と体が一つになって私たちは生まれ、生きています。般若心経では、五蘊は空だというのですから、身体も空、心も空。空とは、無我ということです。無我とは何かと言えば、縁起するということです。これがあるからこれがある。それがまた次のものを生じさせていくという永遠と因果の関係にあるということです。つまり、何者もそのものだけで存在していない。他の物があり存在している。それが無我であり、空ということです。

私たちは一人では生きていけませんね。誕生ということも、お父さんお母さんがいて生まれてくるのですし、何も出来ない赤ちゃんは両親の手を借りて成長し、大きくなっても周りの人たち、動物や植物がいて、そのお陰でそれらの営みのお陰で生活しています。

だれもが、つまり様々な他のものと共存して存在している。もちつもたれつ。そして、それは固定したものではなく、周りが変われば自分も変わり、常に変化しつつある、無常なる存在だともいえます。

この世は誰にも無常ですから、いずれは誰もが老い病になり死を迎えることは逃れようもありません。みんな刻一刻と生まれた瞬間から老いが始まり、死に向かって生きています。身体はだから老いて病気にもなり、ついには終焉を迎える。

それで、身体の寿命が終えますと、それまでひとつだった心は身体と別れ、その時の心のエネルギーが次の世界に赴いて母体を得て一つの生命体として生まれる。それが、輪廻というもので、私たち衆生は六道に輪廻する、つまり地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六つの世界に生まれ変わる。

今日のご法事の○○居士は、12年前にお亡くなりになり、来世にお生まれになっている。○○居士という仏教徒の名前をいただかれて、来世でも仏教の教えを大切に生きて下さっていることと思います。

今日の法事はその先に向かって、前世の家族である皆様が沢山のお供えをされ、お経を聞き、また一緒にお唱えして功徳を積み、その功徳を手向ける回向するためになされたのです。お世話になった感謝の気持ちと共に、来世にあっても、しっかり幸せにいて下さいと功徳を回向するのです。

ですが、皆さんの積まれ回向された功徳は回向すると無くなってしまうものではなく、自らの功徳を他へ振り替えをした善行の功徳として自分自身のためにもなる行為です。その功徳は皆さんが亡くなるときに、善いことをした、亡き人に功徳を回向した善行として、善い来世を迎える因となることでしょう。

こうして私たちが健康で明るくつつがなく過ごしていられるのも、本当は、私たちにも前世があり、前世の家族が一生懸命回向して下さっているお陰なのかもしれません。前世の家族に励まされ、より自分自身が良い来世を獲得するためにも、より善く生きることが大切なのだということになるのです。

どうか若い次の世代にもこうした心をお伝えいただき、今後とも宜しくお願いいたします。

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国東半島と観世音寺4

2008年06月13日 11時52分35秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
観世音寺参拝

太宰府天満宮から南西に2キロほどのところに観世音寺がある。「遠(とお)の朝廷(みかど)」太宰府の条坊内、太宰府政庁の東隣に位置していた。太宰府は、九州の行政の中心であり、中国や朝鮮など異国の敵に備えた拠点であるばかりか、平時には外国から訪れる外交使節が最初に訪れる迎賓館でもあった。したがって、都に劣らぬ相応しい設えが必要であり、その一つとして観世音寺もあったであろう。

そもそも観世音寺は、朝倉橘広宮にて斉明7年(661)に崩じた第37代斉明天皇の追善のために天智天皇が勅願した寺である。斉明天皇は、唐と新羅から攻められた朝鮮半島の百済軍救援の為、中大兄皇子(後の天智天皇)等と共に、筑前を訪れ朝倉橘広宮に行宮を営まれたが、疫病によって崩御された。斉明天皇は天智天皇の母君であった。

しかし、女帝没後50年近くなるのに、寺はなかなか完成せず、遂に和銅2年(709)、時の元明天皇から、太宰府に対して早く造営せよとのご沙汰があり、養老7年(723)僧満誓が、そして天平17年(745)11月には僧玄が筑紫に派遣され造営に当たり、翌天平18年6月、やっと落慶法要が行われ、発願から80年近くの歳月を要して完成した。

玄は、唐に留学した際に玄宗皇帝から重用され、紫衣の着用を赦されたほどの僧侶で、唐からもたらした経論五千余巻は興福寺に勅蔵されて後の仏教学発展に大きく寄与した。帰国後は聖武天皇に重んじられて國分寺の創建に関わり、政治に深く関わった。

同じ遣唐船で唐に行った吉備真備と政治的パートナーとなって、藤原氏と対立。藤原広嗣が彼らを批判して九州で反乱を起こした藤原広嗣の乱に発展し、広嗣は捕らえられ殺されるが、政情不安となり、それで玄は観世音寺に左遷されたのであった。そして、その落慶法要の最中に急死。広嗣の怨霊のために怪死したとも伝えられており、北西の隅に墓所がある。

そして、天平宝字5年(761)正式な僧侶の戒律を授ける戒壇院が観世音寺に設置され、管内すべての寺の僧尼を管理掌握する府の大寺としての地位を得た。戒壇とは、シーマーと言われる結界をした場所のことで、その特別に設えた神聖なる場で正式な僧侶になるために戒が授けられた。

仏教が伝来したのは538年と言われるが、鑑真和上来朝の天平勝宝6年(754)まで二世紀もの間正式な授戒が行なえず、和上のもとで東大寺大仏殿前に戒壇を築き聖武上皇はじめ400人あまりに戒を授けたのが始まりと言われる。翌年には大仏殿西側に常設の戒壇が設けられ、その6年後に筑紫観世音寺と下野(しもつけ・栃木県)薬師寺に戒壇が設置された。

今の九州と壱岐、対馬の僧尼は観世音寺、関東地方から東北にかけてが薬師寺、その他中央部は東大寺で行った。授戒は、毎年3月11日から8日間と決められ、試験を受けて合格すると得度し、さらに戒を受ける資格試験があり、その後授戒申請して東大寺は20人の僧侶が、他は15人が立ち会い審査して授戒したという。

『続日本記』によれば、方3町327メートル四方を境内にして、中央正面に講堂(現在の講堂の2.5倍の大きさ)、東に塔、西に東向きに金堂を配す観世音寺式伽藍であった。また延喜5年(905)の『観世音寺資財記録』によると、当時は、大門・中門・五重塔・金堂・講堂等の仏殿を始め、荘園を有した大寺院であったことが伺われる。

康平7年(1064)の大火など何度か火災に遭い、保安元年(1120)律令制の衰退により太宰府の権力が失墜したため東大寺末となり、逆に寺領の収益や日宋貿易などで東大寺の経済を支えたと言われている。その後火災や台風により寺勢が傾き、戦国期には秀吉に寺領を没収され衰退。

現在の伽藍は江戸時代に復興する。寛永8年(1631)現金堂(現本尊不動明王)が、元禄元年(1688)に現講堂(現本尊聖観音)が再建された。この間に多くの丈六仏・巨大仏像を観世音寺は各堂に奉安していたが、現在は昭和34年建設の宝蔵に収蔵されている。

また戒壇院は、元禄16年(1703)観世音寺から独立し、黒田藩家臣らの寄進によって再建された。当初戒壇院は、敷地が南北65メートル東西32メートルの規模と推定されている。現在の戒壇は本堂内に花崗岩の切石で正方形に造られており、中央に盧舎那仏座像(平安後期の作像高148㎝・胸の前で五指を立て説法印を結ぶ)を安置しているが、これは往古の戒壇を転用したものではないかと言われている。現在戒壇院は福岡聖福寺末の臨済宗。

現在観世音寺創建当時の唯一のものとして、鐘楼がある。日本最古の銘文「文武2年(698)」を刻す京都妙心寺の鐘と同じ型による梵鐘と言われ、総高159㎝。もとは講堂の東南の角にあった。日本最古の白鳳期の名鐘で国宝。菅原道真が、「都府楼はわずかに瓦の色を見る観世音寺はただ鐘の音を聴く」と詠んだ。

最期に宝蔵内の諸仏を紹介しておこう。17体すべて国の重文。もと講堂の本尊だった不空羂索観音立像は、像高517㎝、鎌倉時代1222年の作。不空羂索観音は、左手に羂索(漁のための網と綱)を持ち、煩悩生死の世界に仕掛けて漏らさず済度する大悲願の観音。

無病、身体細妙、衆人愛敬、財宝自然、無災害、無饑餓、無戦死、鬼神害受けず、煩悩消え、毎日が慈悲と喜捨に満つと利益が説かれている。(興福寺南円堂の本尊としても祀られている) 観世音寺のこの御像は、頭上に十一面をいただく珍しい像。頂上の仏面は平安前期の作とみられ、前代の一部かと思われる。

十一面観音立像。像高498㎝、平安時代1069年の作。除病と滅罪の観音。前面三面は菩薩面で寂静相、右三面が瞋怒相、左三面が利牙出現相、後ろ一面が笑怒相、頭上一面が如来相で、観音の表象である阿弥陀の化仏が付く。すべて化仏の場合もあり、正面を一面と数えることもある。他にもう一体像高303㎝の十一面観音も蔵する。

馬頭観音立像。像高503㎝、平安後期1120年代の作。もと石清水八幡宮の護国寺薬師堂に旧蔵されていたとされる。檜材寄木造り。四面八臂の珍しい姿。顔は忿怒相、馬頭の印を結び、法輪と数珠の他は斧や剣など武器を持つ。観音ではあるが明王の性格を併せ持つ。馬は馬の頭に化身する破壊と創造の神・ヴィシュヌ神から転化したことを表す。馬は水草を食い尽くすように衆生の無明煩悩を貪り食って救済する、忿怒相は、慈悲が最も深いことを表す。

聖観音座像。像高321㎝、平安時代1066年の作。もと講堂の本尊。阿弥陀如来座像。像高219㎝、平安後期の作。もとは金堂の本尊。四天王立像。像高236~224㎝、平安後期。金堂に阿弥陀如来と共に祀られていた。樟材一木造り。国家鎮護の守護神。他に地蔵菩薩二体。吉祥天立像。大黒天立像など。みな平安時代の作。

宝蔵にはこれら巨大な仏たちが所狭しと安置されている。一堂に会すると正に圧倒される迫力。不思議な仏の世界を体感できる。外国の使節をあっと唸らせるに足る威圧感。多くの仏弟子たちに畏敬の念を持たせるに足る大きな存在であったろう。

そして、その仏たちの目に映った観世音寺の長い歴史は、まさに栄枯盛衰。国家の安泰を願い、沢山の僧侶の歩みを見守り、また、人々の安寧を見つめ続けてきた巨大仏たちのまなざしを、雄大な時間の営みに思いを馳せつつ感じ取りたい。

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日本仏教にはどんな宗派があるか

2008年06月11日 08時21分52秒 | 仏教に関する様々なお話
(大法輪誌6月号特集「知っておきたい仏教の常識」掲載文です)

日本仏教は、三国伝来の仏教と言われるが、そのすべての宗派が漢訳された経律論に基づく大乗仏教である。

まず奈良時代に南都六宗(なんとろくしゆう)と呼ばれる学問集団が出来る。三論・法相(ほつそう)・成実(じようじつ)・倶舎(くしや)・華厳・律の各宗である。このうち法相・華厳・律の三宗が今に伝わる。

唯識思想が中国で法相宗の教学として大成され伝来し、それは興福寺薬師寺を中心に長く仏教の基礎学として尊重された。

東大寺を本山とする華厳宗は、漢訳の華厳経をもとに中国の華厳思想を研究し、国家統一の指導原理となる。

律宗は、大乗色の強い四分律に基づいた中国南山律宗の教えが主に伝えられ、仏教の規律管理を司るものであった。

平安時代には、天台・真言という専門の教義を信奉し実践する教団が誕生する。主に、国家鎮護や病気平癒など個人の安寧を祈祷する役割を担った。

天台宗は法華経を第一義として大成された中国天台宗の教義に基づき、真言宗はインドで七世紀に流行する密教を伝え、中国・日本を経て大成された教学を中心に体系づけられた。

天台宗は、法華経の教えに加え、密教、禅、戒の四宗合一の総合仏教を目指したため、鎌倉時代には天台宗から多くの宗派を生むことになる。

鎌倉時代、まず浄土宗、浄土真宗、時宗、融通念仏宗など浄土系の各宗が起こる。それらは中国で生まれた浄土教に基づき、より平易な思想が説かれた。

日蓮宗も同じく法華経を絶対視する独自の思想を宣布。

また、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗(江戸時代に伝来)などの禅宗は、中国思想に関わりをもつ中国禅を継承し日本で更なる展開を遂げた。

いずれも、時代とその対象に応じ、求められた教えをより簡潔に説くことで仏教が多様化し大衆化した。

明治時代には、欧州で盛んになった近代仏教学を現地に留学し学ぶ学僧が現れ、サンスクリット語やパーリ語の原典による仏教研究が進められた。しかし、それによって新たな宗派を生むことはなかったのである。

以上のように、日本仏教は中国の仏教が流入し、その時代に応じ、人々の心の歩みにかなう仏教として変遷し培われた教えなのだと言えよう。

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国東半島と観世音寺3

2008年06月10日 19時18分48秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
熊野磨崖仏参拝

冨貴寺から5キロほど南に真木大堂(旧伝乗寺)があり、そこから2キロほどのところに熊野磨崖仏がある。熊野磨崖仏は、今熊野山胎蔵寺内に位置する。もとの山号は天治山だったが、12世紀頃に当時の住持が熊野を訪れ熊野信仰に心酔し、磨崖仏を彫り今熊野山の山号にしたといわれる。現在は浄土宗。

ところで、大分県は、磨崖仏の宝庫と言われる。磨崖仏とは、自然の崖や岩肌から彫りだした仏像のこと。宇佐国東をはじめ、県中部の大分市、県南の臼杵・大野川流域を中心に、88カ所、約400体もの磨崖仏がある。

これほどまでにこの地に磨崖仏が集中しているのは、阿蘇山火山灰の堆積層である熔結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)という岩質に恵まれていたことが第一にあげられる。また、平安時代から天台系の山岳仏教文化圏であり、かつ、宇佐八幡宮や六郷満山寺院、豊後国衙勢や豊後大神一族などの後ろ盾もあった。

しかしこの度参拝する熊野磨崖仏や国東の半島の磨崖仏は、凝灰角礫岩という不均質な岩肌に刻まれている。熊野磨崖仏は、あたかも岩肌から現れ出でたかのように頭部に比べ、体部が岩に沈んだような彫り方をされており、木彫仏が木に仏が宿るとされて刻んだように、岩に仏が宿るという発想があったのではないかと言われる。

仁王像が出迎える胎蔵寺から鳥居をくぐると、鬼が一晩で築いたと言われている乱積の石段がある。約300m(約15分)急な坂道を登る。そこは、国東半島の付け根部分に位置している田原山(別名鋸山・のこぎりやま)、奇岩の山の登山口。

石段や一般登山道が続くが次第に岩場が多く現われ、アップダウンを繰り返す。足がすくわれるような狭い岩場が続く、山頂からは別府湾や鶴見岳、国東半島の山々が見える。だから熊野磨崖仏なのであろう。紀伊熊野の熊野古道は現在世界遺産にも登録されているが、そもそも熊野は、神々の棲む山域であり、また死者の向かう、黄泉の国でもあった。

人生に傷つき絶望したとき、人は遥か彼方の熊野三山を目指した。熊野古道は、俗塵にまみれ汚れた過去の自分をその黄泉の国に葬り、新しく蘇えらせてくれる「蘇生への路」であった。「熊野にお参りすれば死んだ人と必ず会える」とも言われたのは疲れ切った所で、しかも昼までも鬱蒼と茂る木立の暗い所で、この世ならざるものとの出会いがあるからである。

心臓が今にも破裂しそうな状態になるまで苦行を経験し、鬱蒼と茂る山中をくぐりぬけ、ようやくたどり着くのが熊野である。この世ならざる世界の経験。生と死の境界をさまようまでの経験をして自らを蘇生する。そうした熊野を思わせる鋸山を熊野信仰の場として設定して、そこの彫られた磨崖仏だから熊野磨崖仏と言われてきたのであろう。磨崖仏の上には熊野神社がある。

胎蔵寺の境内から山道を300mほど登ると、鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積み石段、九十九段にかかる。「昔、熊野からこの地に移られた権現様から、一夜でここに百段の石段を造ったら人間を食べて良いという許しを得た一匹の鬼が、九十九段を築きあと一段で仕上がるところで、慌てた権現様が鳴き真似をした鶏の声を聞いて夜明けと思って逃げ出した」という伝説がある。

石段を登った先には平地があり、目の前の岩壁に浮彫りされた磨崖仏が現れる。熊野磨崖仏は不動明王像と大日如来像の2体が彫られている。制作年代は奈良時代とも鎌倉時代とも言われており定かでない。

造形から不動明王像が古く、頭に大仏のような羅髪のある大日如来像は後に彫られたものであろうと推定されている。いずれにしても国東を代表する見事な磨崖仏で国重文と国史跡の二重指定を受けている。

大日如来と称される如来像は、高さ約8mの囲いをつくり、その中央に高さ約7mの巨大な像が刻まれている。像の頭部は両耳後まであるが、体部は下へ行くに従って浅く刻まれ、頭部背面には円光背(こうはい)をもち、大粒の螺髪(らほつ)を刻み、切れ長の目、小鼻の張った鼻、ちいさな強く結んだ口、角張った顎とともに力強い威厳ある像容を示している。

熊野磨崖仏に関する唯一の記録として、安貞2年(1228)の『六郷山諸勤行并諸堂役等目録』に「不動岩屋、本尊不動、五丈石身、深山真明如来自作」と記されているという。この記録により、少なくとも安貞2年には、大日不動の両磨崖仏および種子曼荼羅が存在し、また既に如来像の方が大日如来とされていたこともわかる。これにより、臼杵石仏に先行する平安中期ころの作とされ、県下の磨崖の中で最も古い。

不動明王像は、高さ約8m。左右下方には高さ約3mの矜羯羅(こんがら)制多迦(せいたか)童子像が刻まれていた。風蝕が激しく細部は明らかではない。不動明王は、弁髪を左肩に垂らし、幅広の鼻翼に顎の張った顔に、二牙を上下に出す。右手の利剣はきっ先鋭く顔右側面から頭頂にいたる。

体部から下半身の表現は判然としない。大日像に比べてやや浅彫りであり、彫法も素朴で、その下ぶくれの面貌にはユーモラスな笑みを浮かべているように見える。大日像より下った12世紀後半ころの彫造。

また、大日如来像の頭上には、横長の囲いが彫られ、3面の種子曼荼羅が刻まれる。両側の2面は向かって右が金剛界、左が胎蔵界の両界曼荼羅と考えられ、中央の1面は中心に不動明王の種子を刻むことから不動曼荼羅を表わすと言われる。この3面の曼荼羅については、金剛界が熊野三山のうちの金峯山、胎蔵界が熊野山、中央が両者を統一する大峰山を表わすという説がある。

また、胎蔵寺には、直径50cmほどの鋳造品で、円の中に弥陀三尊が刻まれている胎蔵寺懸仏(かけぼとけ)が収蔵されている。「六郷本山今熊野御正体也」と刻まれ、建武4年(1337)の銘がある。熊野神社の本地仏とされているようだ。だから、実は大日如来とされている磨崖仏は阿弥陀如来であるとの説もある。

山岳修行者を修験者と言う。山を聖域と見たて、その聖域の奥深くまで分け入って修行することによって、神秘的な力を得て、その力によって自他の救済を目指そうとする、山岳信仰の修行者たちである。山伏とも言う。修験道とは、「修行して験力を顕す道」であることから名づけられた。

修験道は、自然の中でも特に「山」を神聖視してきた日本人古来の山岳信仰に、インドの宗教である仏教や、中国の宗教である道教や儒教など、外来の宗教が結びつき、さらにそこに神道や陰陽道、民間信仰などまでが取り入れられ、次第に形成されてきた。

国東半島六郷満山では、天台宗に属する修験者たちによって、各寺院を本拠に、おのおの各地に刻まれた磨崖仏を経巡って修行する道の参詣地として、これらの磨崖仏が存在したのであろう。滝にあたり身を清め、所々の平地では護摩を焚き俗塵を払い、また磨崖仏では経を読誦して仏に祈念をこらしたのであろう。

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国東半島と観世音寺2

2008年06月09日 09時49分49秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
冨貴寺参拝

国東半島には、六郷満山の様々な要素を複合した信仰によって、今日も多くの寺院や磨崖仏が残されているが、その一つに、宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並び日本三阿弥陀堂の一つとされる冨貴寺大堂(おおどう)がある。

昔、冨貴寺のあたりの地に、高さ970丈もある榧(かや)の大木があったという。一丈は3メートルほどだから、2900メートルもの榧の木ということになる。その影は数キロにも及んだ。

仁聞菩薩が、この榧の木一本で冨貴寺大堂を造り、仏像を刻んだという。その余材で牛を刻み、それでもまだ余材があったので、刻んだ牛に乗せて熊野に運んだところ、途中で牛が動かなくなり、その地に建てたお堂が、真木大堂であると言い伝えられている。

蓮華山冨貴寺(蕗寺)は、六郷満山のなかで、満山を統括した西叡山高山寺の末寺の一つ。天台宗に属し、寺伝によれば、養老2年(718)八幡神の化身とも言われる仁聞菩薩開基とされる。

富貴寺の所在する豊後高田市大字蕗(ふき)は、古代末から中世には糸永名と呼ばれ、宇佐宮領田染荘(たしぶのしょう)に含まれ、富貴寺の創建にも宇佐八幡宮がかかわっていた。宇佐八幡宮の神職には、辛島家、大神家、宇佐家が創建当時からの祭祀を司っていた。

貞応2年(1223)、大宮司宇佐公仲(うさきみなか)が田染荘内の末久名と糸永名1町5反を蕗浦阿弥陀寺(富貴寺)に寄進したとき、同寺を「これ累代の祈願所にして、攘災招福の勤め、今に懈怠無し」と『大宮司宇佐公仲寄進状案』に記しているというから、冨貴寺は宇佐八幡宮宮司の祈願所として創建されたらしい。

大堂が建造される頃には、後に大宮司となる到津(いとうづ)家が祈願所として冨貴寺の檀那となっている。しかし、鎌倉後半期以後には新興武士層の勢力の及ぶところとなり、代々地頭職によって修理が行われ、南北朝期以後は直接的には宇佐八幡の保護からはなれ、六郷山内の一寺院として存在したようだ。

まず、冨貴寺への入り口には、山門の両端に地石ををつかった石像仁王像が祀られている。顔が平面的でレリーフの様な彫り方。国東半島の仁王像は、ほぼ全て同様な石像で、阿形の正面を向いた鼻の穴、吽形の緊張した顔と手、胸の筋肉。全部同じ特徴を持っている。

国宝・大堂は平安時代後期12世紀後半の数少ない阿弥陀堂建築であり、西国唯一の阿弥陀堂でもあり、九州最古の和様建築物。大堂は、本瓦の行基葺(ぎょうきぶき)の宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根は緩やかな反りを見せ、軒裏の垂木(たるき)が、この重厚な屋根を軽やかに支えている。行基葺きとは、本瓦葺きの丸瓦を上に重ねていく葺き方。正面三間、奥行四間のやや縦長の堂の周囲を幅広の縁が廻り、伸びのある屋根と釣合って堂全体を安定感のよい優美な姿にしている。

床板張りの堂内は、やや後方寄りに4本の丸柱で囲まれた部分を内陣とし、須弥壇が設けられ、本尊阿弥陀坐像が安置されている。低めの天井は 小組格天井(こぐみごうてんじょう)で、内陣のみは一段高く天井が貼られている。

内陣を後ろ寄りにした堂内は、礼拝者が仏前で礼拝し拝みやすい空間となっており、随所に描かれた壁画も含め阿弥陀浄土の世界をこの場に坐して観想するのに相応しい構造となっている。

富貴寺大堂にみるこの独創的な平面構成並びに外観は、構造的にも当時としては独創的なものであり、堂の柱間間隔の取り方や垂木懸(たるきがけ)に至るまで、建物の隅々まで計算されつくした制作者の卓抜した意匠力を見てとることができる。

大堂本尊阿弥陀如来坐像は、榧の寄木造り、二重円光を背負っている、重文。像高85.3㎝平安時代後期の作。ふっくらとした丸い顔面に切れ長の伏し目と小さめの口、なで肩で自然な体躯に、流れるような衣がゆったりと包んでいる。平安後期の定朝様の影響が表れていて、熟練した都の作風がうかがわれる。弥陀の定印を結ぶ。

また、本堂にも阿弥陀三尊像が安置される。阿弥陀如来坐像は高さ約88センチ観世音菩薩と勢至菩薩はともに立像で約108センチ。藤原時代末期の秀作で、現代は県指定有形文化財。いずれも榧材による寄木造の彫眼像で、その丸顔のふくよかな円満相、浅彫りの穏やかな衣文など、平安末期における和様彫刻の典型的作風を示している。

大堂の壁画は、天台教学、奈良仏教の影響を受けた六郷満山特有の信仰がうかがわれるものと言われ、これらは白土地に下絵を描き、岩絵の具や金銀泊で彩色し、墨や朱で輪郭線を書き起こす伝統技法により描かれた。

内陣須弥壇の仏像後ろの壁には阿弥陀浄土図が描かれ、楼閣や廻廊を四周に廻らした中に阿弥陀三尊と菩薩を中心に、その左右に楽器を演奏する音声菩薩、比丘(びく)群を配す。前方の舞台上では4体の舞踊菩薩が舞い踊る。一方画面下方の蓮池には島上に仏菩薩、池上に龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟2艘が浮かび数体の菩薩が乗る。

仏後壁画の華座段を中心に虚空段、楼閣段、舞楽段、宝池段からなる画面構成は、基本的には 当麻曼荼羅などの浄土変相図の類型ではあるが、寝殿造にも似た建物や池上に舟を浮かべる光景など平安貴族の日常生活を思わせる描写がみられ、現実的要素を取り込みながら和様化がより進んでいるものといえる。

内陣四天柱の各々を大きく上中下三段に分かち、合計70体以上にのぼる仏菩薩を配す。各段を区切る装飾に宝珠型火焔や羯磨を描き、尊像が三鈷や五鈷杵を持つなど密教様式の描画と考えられる。内陣にはその他、四天柱を結ぶ長押上の小壁4面に定印の阿弥陀坐像50体が並坐する図柄が描かれ、また同長押や鴨居は、繧繝(うんげん)模様の宝相華文で彩色される。

外陣四方の長押上の小壁には、東に薬師、南に釈迦、西に阿弥陀、北に弥勒の各四仏浄土図が描かれる。各浄土図は、主尊を中心に脇侍、供養・音声・舞踊菩薩および眷属、衆生がほぼ左右対象に配され、両端に各浄土を守護する形で明王が1体づつ描かれる。

また、境内には国東塔、石殿、板碑、笠塔婆、仁王像梵字石などが多数置かれている。笠塔婆(柱上の塔身上に笠石、宝珠を置く)も五基ある。鎌倉時代の僧侶広増によって建立され、最も古いのは仁治二年(1241)造、昭和40年県指定有形文化財。国東塔は国東地方に特有の形式で、天沼博士が命名された由緒あるもの。大小二基のうち、大は無銘、小は慶長八年(1603)と墨書の銘がある。

冨貴寺大堂は、中央須弥壇の阿弥陀如来を右回りに念仏を唱える常行念仏の道場ではなかったか。ちょうど大原三千院の往生極楽院がそうであったように。浄土図の壁画が取り囲む中で、念仏を唱え、弥陀の浄土を念じつつ、常時歩き行ずる行者がおられたのではないか。そこへ大宮司も参り、攘災招福と極楽往生を願った。

鎌倉新仏教としての浄土宗浄土真宗の念仏ではなく、平安後期には源信僧都の『往生要集』が読まれ、人々の生き死にに対する関心が呼び覚まされて、輪廻転生の観念が浸透した。地獄には行きたくない、極楽に往生したいとの願いがもたれ、そこに天台宗の厳しい念仏の教えが広まった。

そうした時代に冨貴寺大堂も創建され、当時は、細かい作法に則った弥陀浄土の観想と念仏三昧の厳正なる修行の道場であったのであろう。そこでの往生は決してたやすいものではなく、念仏とは生き方そのものの転換を意味していたのであった。

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国東半島と観世音寺1

2008年06月03日 09時32分38秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
今月24、25日に、朝日新聞愛読者企画「備後國分寺住職とゆく・日本の古寺巡りシリーズ番外編その2」で、国東半島の冨貴寺と熊野磨崖仏、そして太宰府の観世音寺に参詣する。国東半島は以前から一度は参詣したい霊場であった。参詣するに際して、さっそく国東半島の信仰の特徴から調べを進めていこう。

九州大分県の北東に位置する国東半島は、直径30キロほどの円形で、周防灘と伊予灘と別府湾とに、三方を海に囲まれた特異な地形をしている。中央には両子山721mがそびえ、古来瀬戸内海交通の目印になってきたという。

半島の突端には宇佐八幡がある。この宇佐八幡と国東は切っても切れない関係にあるので、まずは八幡神について少し述べておきたい。全国に神社は12万社あるが、八幡社はその三分の一を占める4万社もあり、宇佐八幡宮はその総本社である。八幡神はこれほど尊崇を集める神格ではあるけれども、その実体は謎めいていると言われている。

応神天皇を主神として神功皇后と比売神(ひめのかみ)をあわせた三神で八幡神とされる。しかし応神天皇と宇佐の地は関わりがなく、そもそもは半島からの外来神であるとも、海神(わたつみ)、鍛冶神に祖形があるとも、秦氏の氏神、畑の神、また仏教の伝来とも関係しそもそもが仏教の根本教説である八正道が神明に垂迹して、八幡は八正道の標幟であるとの説まである。

そして、神亀2年(725)、八幡神は「未来の悪世の衆生を救うために、薬師と弥勒を我が本尊とする」と託宣があり、現在地に八幡宮を造営し、同時に八幡が願主となり、勅命によって、日足(ひあし)に弥勒禅院を造り、南無江(なむえ)に、薬師勝恩寺を造ったと言われている。

そして、その13年後には両寺を宇佐八幡宮の境内に移し、弥勒寺と改め、金堂に薬師勝恩寺の薬師仏、講堂に弥勒禅院の弥勒仏を安置して、世にも稀な二寺合併寺が誕生した。これが、わが国最初の神仏習合の姿であった。

日向・大隅の隼人の鎮圧や新羅外交において朝廷に寄与するなど影響力を発揮。大仏建立時には託宣を下して、工事が殊の外順調に推移し、天平勝宝元年(749)、八幡神が手向山に勧請されて東大寺の鎮守となる。それによって全国の國分寺も鎮守として八幡神を勧請した。また神護景雲3年(769)、弓削の道鏡が天皇の位を取るか否かとの託宣によって、皇統が守られたことも有名である。

こうして中央にまで重大な影響力を持った八幡神は、天応元年(781)、光仁天皇から「護国霊験威力神通大菩薩」の位を得て、八幡大菩薩と通称されて伊勢神宮に次ぐ地位を与えられ仏教の守護神として、鎮護国家、庶民救済を担うものとなった。

そして、宇佐八幡宮弥勒寺はその後全盛期には何基もの塔がそびえ都の大寺に劣らぬ巨大寺院となっていた。そして石清水八幡宮、鶴岡八幡宮にそれぞれ八幡神は勧請されて、八幡神の尊格は肥大し、皇室、将軍家の守護神としての地位を確立し、全国各地の寺院にも分霊して、全国に広まる。

そうした八幡社の総本社として巨大な伽藍を持つ宇佐八幡には、当然のこと広大な経済基盤を要するわけで、宇佐八幡とその神宮寺であった弥勒寺は、九州一の荘園領主となり、国東半島は、ほぼ全域が宇佐八幡宮と弥勒寺の荘園であった。

半島の全域は峻険な山々がしめており、六つの郷からなっていたことから六郷満山と言われ、沢山の寺院、磨崖仏が配置されている。これらの寺院は養老2年(718)、仁聞菩薩が開基したと伝えられている。

仁聞とは奈良時代の弥勒寺の僧とも、八幡神の化身とも言われるが、当時の僧侶が神仏習合のもとで山岳修行に打ち込む中でその基点となる場をもってのちに発展させて寺院を造り、霊験を得てそこに磨崖仏を彫り上げていったのであろう。

これら六郷満山の寺院は、奈良時代から平安初期に宇佐八幡宮弥勒寺の境外寺院として成立し、後に天台宗を開く最澄が入唐の折に、乗船する前に宇佐八幡に参詣し、また帰朝の際にも参詣したことから、天台宗の僧が弥勒寺に参集した。

中世には学問寺として、真木大堂や智恩寺など本山本寺8か寺、冨貴寺など本山末寺が12か寺、修練場であった、両子寺など中山本寺10か寺、布教場としての末山本寺10か寺など、平安時代末には、65か寺も存在したという。

これら六郷満山と総称される各寺院は、宇佐八幡宮弥勒寺の境外寺として、天台宗に属しながらも、山岳修験、仏教、八幡信仰、などが混在した独自の豊かな文化を育んでいった。そうした豊かな文化を今日に伝えるものとして、六郷満山の伝統行事・修正鬼会(しゅじょうおにえ)がことに有名である。

かつては六郷満山の各寺院で行われていたが、現在では天念寺と成仏寺・岩戸寺(国東町)に残るのみとなっている。西満山に属している天念寺では毎年行われ、東満山の成仏寺と岩戸寺では隔年交代で行われる。五穀豊穣 国家安泰、無病息災、万民快楽を祈願する宗教行事で、養老年間元正(げんしょう)天皇の頃(西暦720年頃)に京都で行われたのが最初であるといわれている。

ここ国東の六郷満山ができたのも同じ時代なので、鬼会行事も1200~1300年前から伝わる行事であると考えられている。他の地域の鬼会行事の鬼は、桃太郎の鬼退治に代表されるように悪い鬼であり、「鬼を追い払う」行事だが、ここ国東の鬼は「鬼に姿を変えた御祖先様」であるとされ、良い鬼である。

そのため鬼の面には角が無い。「鬼に姿を変えた祖先を出迎える」という考え方のため、堂内を火のついた松明(たいまつ)を振り回す鬼は、見物客の背中や肩を叩き回るが、これが無病息災につながるとあって、人々は進んで鬼の前に出て行くのが特徴となっている。この考え方は平安時代以前の一般的な考え方であったようで、平安以前の習俗を今に伝える国東の修正鬼会は国指定重要無形民俗文化財に指定されている。

天念寺の修正鬼会は毎年旧正月の7日に行われる。19時頃にタイレシ(松明入れ衆)が天念寺前の長岩屋川で身を清め、鬼会が始まる。タイレシの若者達は着替えをして20時ころあらわれ、4mもある大松明に火が付けられる。そして講堂前で倒して、ゆすったり地面にぶつけたりして火の粉をちらす。

その後大松明を左右からぶつけ、大きく松明が燃え上がる。火祭りらしい光景にだんだんと気持ちが高揚してくる。まもなく僧侶が現れ講堂内で読経し、僧侶の法舞などが22時頃まで続く。22時ころに赤鬼があらわれ、松明を持って講堂内をあばれる。22時20分頃に黒鬼があらわれ、この鬼会行事のクライマックスを迎える。

堂内は松明の火の粉が飛び散り、煙が立ち込める。見物客が進んで鬼の前に行き、背中やお尻を松明で叩いてもらい、無病息災を祈願する。大衆も参加できる楽しい庶民的な行事であり、国東半島の信仰文化のダイナミックな豊かさ、混沌さ、複雑さを表しているとも言えよう。

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