おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

カッコーの巣の上で

2019-03-14 10:08:32 | 映画
「カッコーの巣の上で」 1975年 アメリカ


監督 ミロス・フォアマン
出演 ジャック・ニコルソン ルイーズ・フレッチャー
   マイケル・ベリーマン ブラッド・ドゥーリフ
   ウィル・サンプソン  クリストファー・ロイド
   ダニー・デヴィート  ポール・ベネディクト

ストーリー
1963年9月のある日、男が1人オレゴン州立精神病院の門をくぐった。
その男ランドル・P・マクマーフィは刑務所の強制労働を逃れるために気狂いを装っていた。
そのマクマーフィが初めてディスカッション療法に参加した。
病院は絶対権力をもって君臨する婦長ラチェッドの専制のもとに運営されていた。
インテリ患者ハーディンを始め、患者たちが生気のない無気力人間になっている事にマクマーフィは驚いた。
翌朝のディスカッション療法の席上、マクマーフィはワールド・シリーズの実況をテレビで見れるよう要求した。
ラチェッドは一蹴したが、病院の方針により評決は患者たちの投票に委ねられることになったが、要求は時間切れで冷たく拒絶された。
ある日、マクマーフィは患者たちをレクリエーションに連れていくバスを奪い、彼らを小さな港に連れていく。
彼の女友達キャンディも一緒だ。
船をたくみに借り出したマクマーフィらは一路外洋へと乗り出した。
それ以後も、マクマーフィは次々とラチェッドの専制的体制に反抗を続けた。
次のディスカッション療法のとき、タバコの配給のことから看護人と争った彼は、罰としてチェズウィクやチーフと共に電気ショック療法に送られる。
さすがに不安になったマクマーフィを勇気づけたのは、今まで誰とも口をきいたことがなく口が不自由だと思われていたチーフだった。
チーフがマクマーフィに対して初めて心の窓を開け始めた。
2人は秘かに脱出計画を練ったのだが・・・。


寸評
マクマーフィは警察のお世話になっているような男だからまともな人間ではないが、患者たちに生気がないし看護師長に支配されていることに疑問を持つ。
型破りな人間であるマクマーフィと患者たちのやり取りが面白い。
マクマーフィは患者たちをバカにしたような言葉で怒鳴りつけるが、その内容は患者たちを一人の人間として扱うものである。
無表情で患者たちを自分に従わせているラチェッドの対局にいる男と言える。
看護師長のラチェッドは自分は正しく絶対だと思っている厄介な女性である。
プライドも高いから、マクマーフィを他の施設に移そうとしたときでも、「自分たちの仕事を頼使徒に押し付けるだけで責任放棄だ」と移送に反対している。
彼女なりの論理で、それ自体はむしろ立派と言えるものだが、しかし彼女は自分は正しいと思っているので患者たちの意見を聞く耳を持たない。
患者たちは精神的な疾患を抱えており言動は普通ではないが、マクマーフィを含め彼らが述べる意見は至極まともなものである。
マクマーフィに言わせれば、ラチェッドは「常に勝とうとしている」という女性である。
なにせ自分は正しいと信じ切っているので相手に対して抑圧的で、患者たちを上から見下ろしている。
それは人と人との関係ではないと感じさせる。
映画は社会の矛盾であるとか、権力者への抵抗を声高に叫ぶものではないが、マクマーフィが抱くラチェッドへの反感を同レベルで観客に感じさせたラチェッド役のルイーズ・フレッチャーの演技と表情は称賛に値する。

窓は施錠され、患者たちに自由はない。
自由の素晴らしさを教えるのが、マクマーフィがバスを奪ってクルージングに出かける場面で、彼らが引き起こすドタバタに思わず顔がほころんでしまう。
大物を釣り上げて帰ってくる彼等の姿に拍手したくなる。
しかしそれはラチェッドにとっては屈辱的なことで、マクマーフィとラチェッドの関係は悪化の一途だ。
そしてあること通じてそれが最高潮に達する。
マクマーフィの怒りは彼でなくても沸き起こるだろう。
この時のジャック・ニコルソンとルイーズ・フレッチャーに僕は身震いした。
役者はスゴイ!
最後にチーフがとる行動は優しさによるものだと思うし、わずかな希望を感じさせるラストシーンとなっている。


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2 コメント

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Unknown (風早真希)
2023-02-03 10:09:07
今回紹介されている「カッコーの巣の上で」は、1970年代の洋画の中で、私のベスト10に入る作品ですので、この作品を観た感想を述べてみたいと思います。

強烈の一語に尽きる、演技派の怪優ジャック・ニコルソン。
喜怒哀楽、そのどれをとっても、本当に強烈なインパクトのある表情をするんですね。
あれだけの表情を生み出すには、あらゆる感情をストレートに受け入れ、発散できるだけの純粋な魂が必要だと思います。

彼がそのピュアな魂の持ち主である事は、自分の演技が面白ければ、一観客のように笑い転げながら、楽しむ事のできる人だという話からも納得できます。
彼の表情の中でも、特に強烈なのはその笑顔だ。まるで子供のような無邪気な笑顔の中に、時として無垢な冷酷さを漂わせ、言い知れぬ恐怖感をも与えるんですね。

彼は、アカデミー主演男優賞に輝いた「カッコーの巣の上で」のマクマーフィ役で、私に強烈な印象を残してくれました。

精神病院という管理社会の縮図の中で、人間としての自由も尊厳も失った患者達に、その素晴らしさを蘇らせていく姿は、彼の独壇場でした。
しかし、自由を象徴する個人のパワーは、管理社会から敵視され、抹殺されてしまいました。

この映画「カッコーの巣の上で」の原作は、ケン・ケイジーのベストセラー小説で、アメリカの反体制的な若者達に圧倒的な人気があると言われていました。

この映画の原題は、子守唄の「一羽は東に、一羽は西に、一羽はカッコーの巣の上を飛びました」というのからきているらしいのですが、カッコーには"狂気"の意味もあるんですね。

この「カッコーの巣」とは、精神病院ひいては、その象徴する非人間的、没精神的な現在の管理社会を意味しており、それに反抗して、自由な精神の翼でもって、独り飛ぼうとしたのが、ジャック・ニコルソンが熱演するマクマーフィであり、彼が落ちたその後を、その精神を受け継いで、代わって飛び立っていったのが、ウィル・サンプソン演じるインディアンのチーフであるというように、理解する事ができると思います。

尚、カッコーは、他の鳥の巣に卵を産むというから、「カッコーの巣」には、もっと深い意味が潜んでいるのかもしれません。

仮病を使って、刑務所から精神病院に逃れて来た、陽気な刑余者のマクマーフィが、科学的な治療の名のもとに、物的に取り扱われ、死んだも同然となっている患者達に、生命の火を吹きかけ、自由への意欲を再発見させるが、病院の管理システムへの反抗が危険視されて、精神病者としてロボトミーを受けて、植物人間になってしまうのだ。

魂を失った彼をそのまま生かすに忍びず、彼を殺して、故郷のカナダへと脱走するインディアンのチーフ。
「良きインディアンが、正しい白人を殺す」初めての映画でもあると思います。

このインディアンの父も、白人よりも優れていただけの理由で、周囲から圧迫され続け、遂にアル中となって、死んでしまったという苦しい過去が、偽の聾啞者として入院していた彼の背後にあるのだ。

冒頭、陽が昇ろうとする、薄暗い闇の中を走って来るマクマーフィを乗せた車と、最後に、逆光の朝靄の中を国境に向かって走り去るチーフの後ろ姿の二つのシーンは、重なり合い、結びつく。

この映画の主演女優は、優秀な婦長のラチェットを演じるルイーズ・フレッチャー。
病院のルールに忠実に奉仕する事が、患者のため最善であり、自ら正しい事をしていると確信している事が、結果的に悲劇を生む事になる。

しかし、彼女を冷酷非情なだけの悪役だと見てはいけないだろう。
また、そのように注意深く演出もされていると思う。
このTV出身の女優は、ジャック・ニコルソンを圧倒する演技力を示していて、アカデミー主演女優賞を受賞したのも納得の演技だと思います。

この映画の成功は、1969年に動乱後のチェコからアメリカへ亡命して来た、ミロス・フォアマン監督の確実な構成力と優れた演出力によるものだと思う。

彼は、この映画を撮るにあたって、次のように語っています。
「今日、社会は余りにも組織化されてしまっているから、その体制が資本主義であれ社会主義であれ、また君主制であれ民主制であれ、そのシステムを受け入れかねる個人をどうするかという、普遍的な問題がある。どんな社会でも、悲劇は我々が何の疑いもなく、盲目的にそのルールが法律になっているというだけで従っていることにある。自分たちが法律をつくるはずであるという事を忘れてしまっている」と。

チェコ出身の彼が「アメリカでは個人がシステムに抹殺されることに、非常に神経質だ」と言っている事は、今日的な意味があると思う。

この映画のほとんどがコメディ調で、"正気と狂気"の混乱を描いて笑わせるが、ラストの5分間で、我々観る者を感動で打ちのめしてしまいます。
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敬服 (館長)
2023-02-04 09:29:02
風早真希さんの鋭い洞察力に毎回感心しています。
コメントを読むのが楽しみになってきました。
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