「ブリキの太鼓」 1979年 西ドイツ / フランス
監督 フォルカー・シュレンドルフ
出演 ダーヴィット・ベネント
マリオ・アドルフ
アンゲラ・ヴィンクラー
ハインツ・ベネント
ダニエル・オルブリフスキー
シャルル・アズナヴール
ストーリー
1899年のダンツィヒ。その郊外のカシュバイの荒野で芋を焼いていたアンナは、その場に逃げてきた放火魔コリャイチェクをそのスカートの中にかくまったのが因で女の子を生んだ。
第一次大戦が終り、成長したその娘アグネスはドイツ人のアルフレート・マツェラートと結婚するが、従兄のポーランド人ヤンと愛し合いオスカルを生む。
3歳になったオスカルは、その誕生日の日に母からブリキの太鼓をプレゼントされる。
この日、彼が見た大人たちの狂態を耐えられないものと感じたオスカルは、その日から1cmとも大きくなるのを拒むため自ら階段から落ち成長を止めた。
この時、太鼓を叩きながら奇声を発することで周囲のガラスを破壊する能力も得ていたことを知る。
毎週木曜日になると、アグネスはオスカルをつれて、ユダヤ人のおもちゃ屋マルクスの店に行く。
彼女はマルクスにオスカルをあずけて、ポーランド郵便局に勤めるヤンと逢いびきを重ねていたのだ。
彼が市立劇場の大窓のガラスを割った日、第三帝国を成立させ、ダンツィヒを狙うヒットラーの声が町中のラジオに響いた・・・。
寸評
摩訶不思議な映画だ。
戦争という異常な背景の中で繰り広げられる狂気の沙汰を描いたストーリーだが、時にグロテスクであり、時にエロチックであり、時に不条理な人間関係を描いていく。
そもそもオスカルの母アグネスが生まれるエピソードが突飛すぎる。
オスカルから見れば祖父に当たる男は放火の常習犯で、おまけに湖に飛び込んで行方不明になったがアメリカに渡り大富豪になっているらしいと言うのも滅茶苦茶と言えば無茶苦茶である。
さらに生まれたアグネスは成長してドイツ人のマツェラートと結婚するが、従兄のポーランド人ヤンの子供を産み彼と密会を重ねている。
三人は知らぬふりをしているのか何事もなかったように4人で仲良く暮らしている。
オスカルを加えた三角関係+1で生活しているのが不思議でならない。
ナチスドイツのポーランド侵攻が描かれ第二次世界大戦の火ぶたが切って落とされたことも描かれているが、ナチズムの狂気に犯された人々の苦悩を描いた映画ではない。
ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人が混在し、自分はどれにも属さないはダンツィヒ人であると主張する人もいる。
僕は東欧の国々の歴史に詳しくないが、ダンツィヒという街は立地も含めて極めて特殊な街だったのだろう。
オスカルという自ら成長を拒否した人間の物語ではあるが、大人の醜悪さと子供の残虐さを同時に描いている。
オスカルは大人たちの堕落した姿を見て自ら成長を止める。
大人たちはオスカルを特別可愛がるわけでもなく、基本的には放りっぱなしなのだが、かといって愛情を注いでいないかというとそうでもないという中で、オスカルは冷たい目線を世間に送り続ける。
マツェラートたちは海辺へ行き、そこで鰻を取っている人と出会う。
漁の方法は馬の頭を投げ入れておき、それを引き上げた時に頭の中に鰻が一杯入っていると言うもので、アグネスはそれを見て嘔吐を繰り返す。
アグネスでなくても顔をそむけたくなるような気味の悪いシーンである。
鰻が嫌いなアグネスは無理やり勧められて食べてから魚ばかりを食べるようになり、それが元で死んでしまうのだが、アグネスが魚にむしゃぶりつくシーンも気分が悪くなってきそうなシーンとなっている。
アグネスの死因がそうである必要性を僕は見いだせなかった。
そんなシーンが随所にみられ、ストーリーを追っていると首をひねりたくなるシーンが所々に見受けられる。
しかし、それがこの映画の雰囲気を形作っているのかもしれない。
父親のマツェラートはナチスに入党しドイツの侵攻に熱狂するのに反し、実の父親であるヤンはポーランド市民としてドイツと闘い処刑される。
オスカルは太鼓を世話してくれていたユダヤ人のおもちゃ屋の店主が自殺しても悲しむことはない。
その状況下でオスカルはサーカス団の小人と一緒になり軍服を着てドイツ軍を慰問する。
オスカルは砲弾をあびる中でも太鼓しか頭にない、いわば子供の身勝手さを見せる。
又、マツェラートとマリアの間に生まれた子供はオスカルの子供かもしれない。
おぞましい家族関係を感じさせながらオスカルは西側へ逃れていく。
成り行き任せの生き方なのか、あるいは激動の社会ではそうするしかないのかと思わせた。
監督 フォルカー・シュレンドルフ
出演 ダーヴィット・ベネント
マリオ・アドルフ
アンゲラ・ヴィンクラー
ハインツ・ベネント
ダニエル・オルブリフスキー
シャルル・アズナヴール
ストーリー
1899年のダンツィヒ。その郊外のカシュバイの荒野で芋を焼いていたアンナは、その場に逃げてきた放火魔コリャイチェクをそのスカートの中にかくまったのが因で女の子を生んだ。
第一次大戦が終り、成長したその娘アグネスはドイツ人のアルフレート・マツェラートと結婚するが、従兄のポーランド人ヤンと愛し合いオスカルを生む。
3歳になったオスカルは、その誕生日の日に母からブリキの太鼓をプレゼントされる。
この日、彼が見た大人たちの狂態を耐えられないものと感じたオスカルは、その日から1cmとも大きくなるのを拒むため自ら階段から落ち成長を止めた。
この時、太鼓を叩きながら奇声を発することで周囲のガラスを破壊する能力も得ていたことを知る。
毎週木曜日になると、アグネスはオスカルをつれて、ユダヤ人のおもちゃ屋マルクスの店に行く。
彼女はマルクスにオスカルをあずけて、ポーランド郵便局に勤めるヤンと逢いびきを重ねていたのだ。
彼が市立劇場の大窓のガラスを割った日、第三帝国を成立させ、ダンツィヒを狙うヒットラーの声が町中のラジオに響いた・・・。
寸評
摩訶不思議な映画だ。
戦争という異常な背景の中で繰り広げられる狂気の沙汰を描いたストーリーだが、時にグロテスクであり、時にエロチックであり、時に不条理な人間関係を描いていく。
そもそもオスカルの母アグネスが生まれるエピソードが突飛すぎる。
オスカルから見れば祖父に当たる男は放火の常習犯で、おまけに湖に飛び込んで行方不明になったがアメリカに渡り大富豪になっているらしいと言うのも滅茶苦茶と言えば無茶苦茶である。
さらに生まれたアグネスは成長してドイツ人のマツェラートと結婚するが、従兄のポーランド人ヤンの子供を産み彼と密会を重ねている。
三人は知らぬふりをしているのか何事もなかったように4人で仲良く暮らしている。
オスカルを加えた三角関係+1で生活しているのが不思議でならない。
ナチスドイツのポーランド侵攻が描かれ第二次世界大戦の火ぶたが切って落とされたことも描かれているが、ナチズムの狂気に犯された人々の苦悩を描いた映画ではない。
ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人が混在し、自分はどれにも属さないはダンツィヒ人であると主張する人もいる。
僕は東欧の国々の歴史に詳しくないが、ダンツィヒという街は立地も含めて極めて特殊な街だったのだろう。
オスカルという自ら成長を拒否した人間の物語ではあるが、大人の醜悪さと子供の残虐さを同時に描いている。
オスカルは大人たちの堕落した姿を見て自ら成長を止める。
大人たちはオスカルを特別可愛がるわけでもなく、基本的には放りっぱなしなのだが、かといって愛情を注いでいないかというとそうでもないという中で、オスカルは冷たい目線を世間に送り続ける。
マツェラートたちは海辺へ行き、そこで鰻を取っている人と出会う。
漁の方法は馬の頭を投げ入れておき、それを引き上げた時に頭の中に鰻が一杯入っていると言うもので、アグネスはそれを見て嘔吐を繰り返す。
アグネスでなくても顔をそむけたくなるような気味の悪いシーンである。
鰻が嫌いなアグネスは無理やり勧められて食べてから魚ばかりを食べるようになり、それが元で死んでしまうのだが、アグネスが魚にむしゃぶりつくシーンも気分が悪くなってきそうなシーンとなっている。
アグネスの死因がそうである必要性を僕は見いだせなかった。
そんなシーンが随所にみられ、ストーリーを追っていると首をひねりたくなるシーンが所々に見受けられる。
しかし、それがこの映画の雰囲気を形作っているのかもしれない。
父親のマツェラートはナチスに入党しドイツの侵攻に熱狂するのに反し、実の父親であるヤンはポーランド市民としてドイツと闘い処刑される。
オスカルは太鼓を世話してくれていたユダヤ人のおもちゃ屋の店主が自殺しても悲しむことはない。
その状況下でオスカルはサーカス団の小人と一緒になり軍服を着てドイツ軍を慰問する。
オスカルは砲弾をあびる中でも太鼓しか頭にない、いわば子供の身勝手さを見せる。
又、マツェラートとマリアの間に生まれた子供はオスカルの子供かもしれない。
おぞましい家族関係を感じさせながらオスカルは西側へ逃れていく。
成り行き任せの生き方なのか、あるいは激動の社会ではそうするしかないのかと思わせた。
映画「ブリキの太鼓」は1979年のカンヌ国際映画祭でフランシス・F・コッポラ監督の「地獄の黙示録」と並んでグランプリ(現在のパルムドール賞)を獲得し、また同年の第51回アカデミー賞の最優秀外国語映画賞も受賞している名作です。
原作はギュンター・グラスの大河小説で二十か国語に翻訳されていますが、あとがきの中でグラスは、この小説を執筆した意図について「一つの時代全体をその狭い小市民階級のさまざまな矛盾と不条理を含め、その超次元的な犯罪も含めて文学形式で表現すること」と語っていて、ヒットラーのナチスを支持したドイツ中下層の社会をまるで悪漢小説と見紛うばかりの偏執狂的な猥雑さで克明に描き、その事がヒットラー体制の的確な叙事詩的な表現になっているという素晴らしい小説です。
この映画の監督は、フォルカー・シュレンドルフで、彼は脚本にも参加していて、また原作者のギュンター・グラスは、台詞を担当しています。
原作の映画化にあたってはかなり集約され、祖母を最初と最後のシーンに据えて全体を"大地の不変"というイメージでまとめられている気がします。
そして映画は1927年から1945年の第二次世界大戦の敗戦に至るナチス・ドイツを縦断して描くドイツ現代史が描かれています。
この映画の主要な舞台は、ポーランドのダンツィヒ(現在のグダニスク)という町であり、アンジェイ・ワイダ監督のポーランド映画の名作「大理石の男」でも描かれていたひなびた港町で、この町は第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約により国際連盟の保護のもと自由都市となり、そのためヒットラー・ナチスの最初の侵略目標となりました。
まさにこの映画に出てくるポーランド郵便局襲撃事件は、第二次世界大戦の発火点になります。
そしてこの映画の主人公であり、尚且つ歴史の目撃者となるのが、大人の世界の醜さを知って三歳で自ら1cmだって大きくならない事を決意して、大人になる事を止めてしまったオスカルは、成長を拒否する事によって、ナチスの時代を"子供特有の洞察するような感性と視線で、社会や人間を観察していきます。
オスカルは成長が止まると同時に、不思議な超能力ともいうものが備わり、太鼓を叩いて叫び声を発すると居間の柱時計や街灯のガラスが粉々に割れたりします。
この奇声を発しながらブリキの太鼓を叩き続けるオスカルの姿は、ナチスによる支配下のポーランドの歴史そのものを象徴していて、フォルカー・シュレンドルフ監督は、原作者のギュンター・グラスの意図する二重構造の世界を見事に具現化していると思います。
超能力などの非日常的な要素を加味しながら、ポーランドの暗黒の時代を的確に表現した映像が、我々観る者の脳裏に強烈な印象を与えてくれます。
その暗いイメージは、特に海岸のシーンで象徴的に表現していて、不気味な映像美に満ち溢れています。
オスカルは、ドイツ人の父親を父として認めず、ポーランド人の実の父をも母を奪う男として受け入れません。
この二人の父親は、オスカルが原因となって不慮の死を遂げ、また気品と卑猥さが同居する母親も女の業を背負って狂死します。
この映画の中での忘れられない印象的なシーンとして、第二次世界大戦下、オスカルの法律上のドイツ人の父親は、ナチスの党員になり、パレードに参加します。
そのパレードの最中に威勢のいいマーチがファシズムを讃え、歌いあげる時、演壇の下に潜り込んだオスカルが太鼓を叩くと、マーチがワルツに変わってしまい、ナチスの党員たちまでが楽しそうにワルツを踊り始めるというシーンになります。
この意表をつく映像的表現には、まさに息を飲むような映画的陶酔を覚えます。
このダンツィヒは、歴史的には自由都市でしたが、ポーランドの領土になりドイツ人の支配を受け、その後、ソ連軍によって占領される事になります。
オスカルは戦後、成長を始めましたが、若い義母と一緒に、列車で去って行く彼を郊外から一人で見送る祖母の姿に、ポーランドという国が抱える拒絶と抵抗と絶望との暗い時代を暗示しているように感じられました。
尚、主人公のオスカルという子供が成長を止めたというのは、第二次世界大戦下、ナチス・ヒットラーの暗黒時代をドイツ国民が過ごした事の象徴であり、撮影当時12歳だったダーヴィット・ベネントのまさに小悪魔的な驚くべき演技によって、見事に表現していたように思います。
とにかくこの映画は、全編を通して奇想天外で挑発的であり、映画的陶酔を味わえる、まさに珠玉の名作だと思います。
海に囲まれた我が国と違って国境線を接しているヨーロッパの国々の歴史と思いを僕は映画でしか知り得ない。
しかしそれは甘いのだと思う。