「もう赤くならないだろう」と、
秋口に収穫した青いトマトを、ようやく全部食べつくした。
気温の降下と共に、成長をやめた樹からとった、
大量の青いトマトを。
そのまま程よい大きさに切って、ソテーにしたり、スープに入れたり。
キッチンに山積みされた待機組は、日を追うごとに徐々に赤くなって.....
長いあいだ、干からびることなく、腐ることもなかった未熟なトマトは、
なんだかんだと食卓の上で大活躍した。
.......と。
最後のひとつ。
小さくて、いいかげん水分の蒸発でシワっぽくなっていたトマトを手にとって、
私はあることを思い出した。
あれは、もうどれぐらい前になるだろう。
TVで見たドキュメンタリーで、
ベルリンの壁崩壊後のロシア人の暮らしがどう変化したのかという
特集をやっていたのだが......
その中に登場したひとりのおばあちゃんが、
「とても生活が苦しくなってしまって、今はもう食べる物さえ手に入らない」と。
部屋の隅にある小さなカゴに入った、
干からびたジャガイモ1個を指して
「もうこれしかないの」と、
そう言っていたのが忘れられなくて。
あのおばあちゃんはあれからどうなったのだろうと......
お歳からしたらもう亡くなられているかもしれないけれど、
そうだとしたら、せめて最後には、
寒さをしのげて、空腹でなければよかったなと。
なんだか小さなトマトを手に、切なく、
祈るような気持ちになったのだ。
ずっと、ずっと気になっていたから。
......満たされている自分が、罪深い気がして。
そういえば、数日前に見たドキュメントでは、
日本にもまだまだ色んな事情で字が読めない人がいるのだと、
そんなことも目にした。
家庭の事情やそのほかの理由で小学校へも行けず、
字が読めないことのコンプレックスでさらに世間から遠ざかり、
孤独に生きるしかない人もいるのだと。
私たちは当たり前のように相手が字を読むことが出来ると、
そんな風に考えて色んな人と接しているが、
その『当たり前』がどれほど怖いことなのだろうと、
ふと、この識字のことひとつ取り上げても、胸が苦しくなってくる。
食事に出て、メニューを見て、
「もし私が学校へ行けずに字が読めなかったら......」
どれだけ周囲のすべてが怖くなるだろうかと、想像してみる。
ドキュメントの中では、その、
字の読み書きを知らなかった人々が、善意で作られた学校へ通い、
ひらがなや簡単な計算を覚え、
人の輪をも拡げていく様子が映し出されていたが.......
その中で、級友に誕生日を祝ってもらった女性の一言が忘れられない。
「生まれて初めて、人に誕生日というものを祝ってもらった」と。
私たちは一方で、無限の想像力を膨らませ、
しかし一方で、違う意味での想像力を欠落させていっているが......
夢のあることばかりが想像力ではないのなら。
『当たり前』として捉えていることが、
「もしかしたらそうではないのかもしれない」と。
そう、想像してみることを怠ってはいけないのじゃないか。
青く、干からび始めたトマトが、
私に言ったこと。