ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

嘱託殺人の判決に思う

2023-12-21 10:52:09 | 日記
きのうのことである。朝日新聞にこんな記事がのっていた。


難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者(当時51)の依頼で薬物を投与して殺害したなどとして、嘱託殺人などの罪に問われた山本直樹被告(46)=医師免許取り消し=に対し、京都地裁は19日、懲役2年6カ月(求刑懲役6年)の実刑判決を言い渡した。
川上宏裁判長は、山本被告の知人で医師の大久保愉一(よしかず)被告(45)=同罪などで起訴=との共謀を認定。『高度の倫理性が求められる医師でありながら、わずか15分ほどの間に主治医や親族にも秘密裏に殺害に及んだことは強い非難に値する』と述べた。

(朝日新聞12月20日)


この記事を読んで、私が疑問に思ったのは、「嘱託殺人罪」と「高度の倫理性」との関係である。
裁判長は「高度の倫理性が求められる医師でありながら」と述べたというが、倫理の根本は「黄金律」にあると私は思っている。Wikipedia には次のような説明がある。


黄金律( Golden Rule)は、多くの宗教、道徳や哲学で見出される『他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ』という内容の倫理学的言明である。


問題の山本医師は、ただの「殺人」を行ったのではない。彼の行為は「苦しんで助けを求めている人がいたら、その人を助ける」、「患者の依頼に応えて、できる範囲で助力する」という、黄金律の精神から出た行為であり、したがって倫理的な行為だった。


筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者であるA子さんの依頼は、「私を楽にしてほしい」という切実な訴えだったが、(日に日に全身が動かなくなっていく難病に罹った)彼女を「楽にする」手立ては、安楽死以外になかったのだ。


山本医師は、救いを求めるA子さんの切実な訴えに応えるべく、彼女に対して安楽死の措置を施した。山本医師の行為は、とてつもなく深い絶望の淵に立たされた困窮者を救おうとする「人助け」の行為であり、人道的な行為以外の何ものでもない。


A子さんの依頼に応えてA子さんに安楽死を施せば、今の日本では自分が殺人罪に問われることを、山本医師はむろん知っていたに違いない。にもかかわらず、自分への配慮よりもA子さんの救済を優先した山本医師の行為は、自己犠牲の精神から隣人愛を実践した博愛の行為として、むしろ称賛されるべきなのだ。


「なにも殺さなくたって良いじゃないか。殺人以外にも、彼女を救う手立てはほかにもあったはずだ」と言いたてる人がいるかもしれない。だがそんなことを言う人は、ALS患者がおかれた絶望をリアルに思い描く想像力が欠けた人か、その想像力を働かせる努力をしようとしない怠惰な愚か者だろう。


山本医師に有罪判決を下した京都地裁の裁判官が、そういう愚か者だったとは思いたくないのだけれど・・・。


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愛の重荷を背負って行けば

2023-12-20 10:52:08 | 日記
きのうのことである。久々にデイサに行き、久々に『ラ・ロシュフコー箴言集』を読んだ。久々の金塊探しだが、金言は見つからなかった。気になったのは、次のフレーズである。


「286 いったんほんとうに愛が冷めてしまったら、 二度とその人を愛することは不可能である。


ホントかな?と思ったのである。いったん愛が冷めても、その人の魅力を再発見して、新たに「惚れなおす」ということがあるのではないか。


「二度とその人を愛することは不可能」というこのフレーズは、案外、「人生の真理」などではなく、ラ・ロシュフコー自身の個人的な体験を綴っただけなのかもしれない。


彼は若かった頃、ある女性に惚れ、何度か拒絶されたあとで、やっと彼女をわが物にすることができたのだろう。だが、やっと手に入れたと思った瞬間、彼が味わったのは、「愛の成就」ではなかった。


彼が味わったのは、そういう至福感ではなく、「愛」が(砂上の楼閣のように)がらがらと崩れ落ちていく虚しさ・徒労感だったのではないか。


そうであるなら、彼はおそらく、彼女を「二度」ならず、ただの「一度」すら愛することができなかったに違いない。


私はなぜかふとアルベール・カミュの『シーシュポスの神話』の逸話を思い出した。私はこの本を半世紀以上も前の「アオハル」時代に読んだので、おぼろげなイメージしか残っていない。ネットをググって記憶を呼び起こそうとした。


神を欺いたことで、シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。
(Wikipedia より)


私のおぼろげな記憶の中核にあったのは、まさしくこの逸話だった。この逸話にラ・ロシュフコーの(私が妄想によって創り上げた)恋愛体験を重ね合わせれば、こうなる。


「彼は運命に従って(恋愛感情という)岩を運ぶのだが、(恋愛の成就という)山頂に運び終えたその瞬間に、岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。」


ふむふむ。これが案外、「人生の真理」なのかもしれない。


いったん愛が冷めてしまっても、何度でもその人を愛することはできる。だが、愛の成就は一度たりとも不可能である。


どうなのだろうなあ・・・。


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久々のデイサ

2023-12-19 10:22:03 | 日記
きょうはこれから久しぶりにデイサに行く。ホントに久しぶりだ。たった3回休んだけなのに、ずいぶん久しぶりに思える。
デイサで過ごす「社会的な」時間と、自室で過ごす「私的な」時間との、その落差が大きすぎるせいだろう。


デイサの「社会的な」時間は、自室に引きこもり、妄想に引き込まれがちな私を、多少ともマトモな世界に連れ戻してくれる。ありがたいことだ。


それほどありがたいデイサへの通所を、私はなぜ3度も休んでしまったのか。ーーひどい腱鞘炎のためである。


リースの更新のせいとかで、デイサの送迎のシステムが変わり、車イスから送迎車への移乗が必要になったことが、事の発端である。これまでは玄関先で車イスに座りさえすれば、そのまま車でデイサ施設に運んでくれていたのだが、新たに加わったこの「送迎車への移乗」という一手間が、今の私には(身体的にも心理的にも)大きな負担であり、苦痛なのである。


先々週だったか、その移乗の練習をPTさんと共に行ったのだが、たったそれだけのことで私の利き腕は悲鳴をあげ、情けないことに重いポットを持ち上げるなど、日常的な動作ができなくなるほど傷んでしまったのである。


年寄りの冷や水。脳出血の後遺症のため、12年前に身障者になった私は、ふつうの年寄り以上に慣れない動作に弱くなっている。たぶん異性との戯れなども、以ての外なのだろう(笑)。やれやれ。


ともあれ、私がおかれた窮状をケアマネさんに訴え、送迎のシステムを元に戻してもらうことができたので、久々のデイサ通いが可能になった。しばらく中断していた「ラ・ロシュフコー箴言集」の読書も、きょうは再開できることだろう。何かおもしろいブログのネタでも落ちているといいのだが・・・。

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ノーベル賞受賞者に聞く 大学研究の今後

2023-12-18 16:13:53 | 日記
きのうのことである。録画しておいたWBCの記録映画「憧れを超えた侍たち」を見終え、テレビをリアルタイムの画面に切り替えたら、ちょうどNHKのニュースが始まったところだった。アナウンサーがこんなことをしゃべっていた。


ノーベル賞の受賞者と、そのパロディーのイグ・ノーベル賞の受賞者が対談する催しが17日に都内で開かれ、知的好奇心の大切さなどについて意見を交わしました。


うむ、こいつはおもしろい。ブログのネタとして使えるのではないか・・・。そう思ったのは、しばらくたってからである。


テレビで流されたNHKのニュースは、そのままネットのNHK NEWS WEB で後追いすることができる。タブレットを取り出して確かめると、テレビで流れたのと同じこんな記事が出てきた。


この中で、2012年におしゃべりのうるさい人を黙らせる装置を発明して、イグ・ノーベル賞を受賞した津田塾大学教授の栗原一貴さんが『なぜ科学をするかというと知的好奇心以外には考えられませんが、劣等感も強烈な原動力になります。私はコミュニケーションが苦手なので研究するようになりました』と話していました。
( NHK NEWS WEB 12月17日配信)


ふむふむ、「おしゃべりのうるさい人を黙らせる装置」とは、何ともおもしろい発想である。「知的好奇心」が出発点になり、「劣等感」が原動力になったというが、私にはこれが解る気がした。


私がまだ現役だった20年ほど前、会議になると必ず立ち上がって異論をとなえ、長広舌の正論をぶつ、何ともはた迷惑な男がいた。正論だから反論するわけにいかない。毎回、10分も20分も、どこかで聞いたような平凡な話に付き合わなければならない自分の立場に、私は我ながらうんざりしたものだ。
「あいつを何とか黙らせる手立てはないものか」と思案してみたが、私は自分にその才能がないことに気づき、さらに落ち込んだのだった。
そのころ、この「おしゃべりのうるさい人を黙らせる装置」があったら、私はこの装置に飛びついたに違いない。


とはいえ私がブログのネタにしようと思ったのは、この珍妙な装置のことではない。ニュースは次のように続く。


これに対し、(ノーベル賞受賞者の)梶田さんは『研究の原動力は知的好奇心ですが、ポジティブさも重要です。ネガティブに考えるとだいたいうまくいきません』と、20年以上前に研究で大失敗した思い出を紹介しながら語りました。


私がブログのネタにしようと思ったのは、この(真正の)ノーベル賞受賞者・梶田さんの話の方だが、「研究の原動力は知的好奇心だが、ネガティブ思考は失敗の元だ」という話はどうでもよかった。私がネタにしようと思ったのは、次の一段である。


対談のあと梶田さんは『イグ・ノーベル賞の受賞者と共通点を強く感じました。知的好奇心に基づいた多様な研究ができる環境が重要だと思います』と話していました。


私の記憶では、梶田さんは「知的好奇心に基づいた多様な研究ができる環境が重要だ」と言った後に、「研究は、実際にやってみないと成功するか、失敗するか、わかりませんから」と述べたと思う。


私がネタにしたいと思ったのは、(ネットの記事では落とされている)この最後の発言だった。


私はなぜ梶田さんの「研究は、実際にやってみないと成功するか、失敗するか、わかりません」という発言を「ブログのネタにしよう」と思ったのか。
この発言を聞いたとき、「国立大学法人法改正案」に関する次の記事が私の脳裏をよぎったからである。


一部の大規模な国立大学に、運営方針の決定などを行う合議体の設置を義務づける国立大学法人法の改正案の議論が大詰めを迎えている。政府は13日の今国会会期末までの成立をめざすが、大学関係者からは『大学の自治が脅かされるのでは』などと怒りや懸念の声が上がる。
(中略)
今回の合議体設置の議論を主導したのは、政府の総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)だ。岸田文雄首相を議長に、財界や学術界の出身者14人からなる。

(朝日新聞12月12日)


この法案が通れば、今後、主要な国立大学には、大学の運営方針を決める「合議体」が設置されることになる。この「合議体」には財界の出身者が含まれるということだが、財界の出身者は当然のことのように、個々の研究について「採算が取れるかどうか」を問題にすることだろう。当然、「実際にやってみないと成功するか、失敗するか、わからない」ような(博打もどきの)研究は、研究費にありつけないことになる。


私が危ぶむのは、そのことである。そんなことになれば、(ノーベル賞受賞者の梶田さんが思い描くような)スケールの大きな(ノーベル賞級の)研究は、今後、国立大学ではできないことになるからである。
ただでさえ低迷気味の今の日本の科学技術の研究水準は、さらに落ち込み、目も当てられないことになるのではないか。やれやれ・・・。

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岸田政権 その終わりの始まりに思う

2023-12-17 12:09:08 | 日記
このところパー券・裏金問題に揺れる(政権与党の)自民党。そのあおりを受けてうろたえる岸田政権の、その瀕死の窮状がメディアの格好の餌食になっている。死を目前にした最後の悪あがきは、たしかに見ごたえがある。我々は今、岸田政権の「終わりの始まり」に立ちあっているのだといってよい。


夕餉の食卓で、パー券・裏金問題を報じるNHKのニュースを見ていると、妻がぼそりとつぶやいた。
「岸田さんって一体、何をやったのかしら」
「さあ、何だろうなあ」
岸田氏が首相になってから何をしたのか、あらためて考えてみても、この人が何をやったのか、とんと思い出せない。最近は寄る年波か、物覚えがとみに悪くなったが、どうもそのせいではなさそうだ。


「まあ、アメさんの尻馬にのって、軍拡路線に舵を切ったことぐらいじゃないか。安保3文書を改定して、反撃能力を自衛隊に持たせたとか」
「そうそう、そうだったわよねぇ。あれなんか、閣議決定だけで済ませちゃって、許せないわよ」
「うん。この人が何か良いことをしたかなんて、思い出せないものなあ。軍拡のために増税を企んで、そのためかこの人、『増税メガネ』なんて呼ばれているけど、こう支持率が低くては、増税どころではないだろうし。
今回のパー券・裏金問題が持ち上がらなかったとしても、これだけの支持率では、岸田政権は早晩、さじを投げるに決まっている」
「たしかに、そうだわよねえ」


岸田さんが何か良いことをしたとすれば、我々老夫婦に食卓談義の話題を提供して、(さしたる会話もなく)疎遠になりかけていた夫婦の仲を取り持ってくれたことではないか。メディアだってネタ切れに悩まずに済むから、御の字だろう。


まあ、そんなことぐらいかなあ・・・。

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