きのうのことである。久々にデイサに行き、久々に『ラ・ロシュフコー箴言集』を読んだ。久々の金塊探しだが、金言は見つからなかった。気になったのは、次のフレーズである。
「286 いったんほんとうに愛が冷めてしまったら、 二度とその人を愛することは不可能である。」
ホントかな?と思ったのである。いったん愛が冷めても、その人の魅力を再発見して、新たに「惚れなおす」ということがあるのではないか。
「二度とその人を愛することは不可能」というこのフレーズは、案外、「人生の真理」などではなく、ラ・ロシュフコー自身の個人的な体験を綴っただけなのかもしれない。
彼は若かった頃、ある女性に惚れ、何度か拒絶されたあとで、やっと彼女をわが物にすることができたのだろう。だが、やっと手に入れたと思った瞬間、彼が味わったのは、「愛の成就」ではなかった。
彼が味わったのは、そういう至福感ではなく、「愛」が(砂上の楼閣のように)がらがらと崩れ落ちていく虚しさ・徒労感だったのではないか。
そうであるなら、彼はおそらく、彼女を「二度」ならず、ただの「一度」すら愛することができなかったに違いない。
私はなぜかふとアルベール・カミュの『シーシュポスの神話』の逸話を思い出した。私はこの本を半世紀以上も前の「アオハル」時代に読んだので、おぼろげなイメージしか残っていない。ネットをググって記憶を呼び起こそうとした。
「神を欺いたことで、シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。」
(Wikipedia より)
私のおぼろげな記憶の中核にあったのは、まさしくこの逸話だった。この逸話にラ・ロシュフコーの(私が妄想によって創り上げた)恋愛体験を重ね合わせれば、こうなる。
「彼は運命に従って(恋愛感情という)岩を運ぶのだが、(恋愛の成就という)山頂に運び終えたその瞬間に、岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。」
ふむふむ。これが案外、「人生の真理」なのかもしれない。
「いったん愛が冷めてしまっても、何度でもその人を愛することはできる。だが、愛の成就は一度たりとも不可能である。」
どうなのだろうなあ・・・。
「286 いったんほんとうに愛が冷めてしまったら、 二度とその人を愛することは不可能である。」
ホントかな?と思ったのである。いったん愛が冷めても、その人の魅力を再発見して、新たに「惚れなおす」ということがあるのではないか。
「二度とその人を愛することは不可能」というこのフレーズは、案外、「人生の真理」などではなく、ラ・ロシュフコー自身の個人的な体験を綴っただけなのかもしれない。
彼は若かった頃、ある女性に惚れ、何度か拒絶されたあとで、やっと彼女をわが物にすることができたのだろう。だが、やっと手に入れたと思った瞬間、彼が味わったのは、「愛の成就」ではなかった。
彼が味わったのは、そういう至福感ではなく、「愛」が(砂上の楼閣のように)がらがらと崩れ落ちていく虚しさ・徒労感だったのではないか。
そうであるなら、彼はおそらく、彼女を「二度」ならず、ただの「一度」すら愛することができなかったに違いない。
私はなぜかふとアルベール・カミュの『シーシュポスの神話』の逸話を思い出した。私はこの本を半世紀以上も前の「アオハル」時代に読んだので、おぼろげなイメージしか残っていない。ネットをググって記憶を呼び起こそうとした。
「神を欺いたことで、シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。」
(Wikipedia より)
私のおぼろげな記憶の中核にあったのは、まさしくこの逸話だった。この逸話にラ・ロシュフコーの(私が妄想によって創り上げた)恋愛体験を重ね合わせれば、こうなる。
「彼は運命に従って(恋愛感情という)岩を運ぶのだが、(恋愛の成就という)山頂に運び終えたその瞬間に、岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。」
ふむふむ。これが案外、「人生の真理」なのかもしれない。
「いったん愛が冷めてしまっても、何度でもその人を愛することはできる。だが、愛の成就は一度たりとも不可能である。」
どうなのだろうなあ・・・。