ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

愛の重荷を背負って行けば

2023-12-20 10:52:08 | 日記
きのうのことである。久々にデイサに行き、久々に『ラ・ロシュフコー箴言集』を読んだ。久々の金塊探しだが、金言は見つからなかった。気になったのは、次のフレーズである。


「286 いったんほんとうに愛が冷めてしまったら、 二度とその人を愛することは不可能である。


ホントかな?と思ったのである。いったん愛が冷めても、その人の魅力を再発見して、新たに「惚れなおす」ということがあるのではないか。


「二度とその人を愛することは不可能」というこのフレーズは、案外、「人生の真理」などではなく、ラ・ロシュフコー自身の個人的な体験を綴っただけなのかもしれない。


彼は若かった頃、ある女性に惚れ、何度か拒絶されたあとで、やっと彼女をわが物にすることができたのだろう。だが、やっと手に入れたと思った瞬間、彼が味わったのは、「愛の成就」ではなかった。


彼が味わったのは、そういう至福感ではなく、「愛」が(砂上の楼閣のように)がらがらと崩れ落ちていく虚しさ・徒労感だったのではないか。


そうであるなら、彼はおそらく、彼女を「二度」ならず、ただの「一度」すら愛することができなかったに違いない。


私はなぜかふとアルベール・カミュの『シーシュポスの神話』の逸話を思い出した。私はこの本を半世紀以上も前の「アオハル」時代に読んだので、おぼろげなイメージしか残っていない。ネットをググって記憶を呼び起こそうとした。


神を欺いたことで、シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。
(Wikipedia より)


私のおぼろげな記憶の中核にあったのは、まさしくこの逸話だった。この逸話にラ・ロシュフコーの(私が妄想によって創り上げた)恋愛体験を重ね合わせれば、こうなる。


「彼は運命に従って(恋愛感情という)岩を運ぶのだが、(恋愛の成就という)山頂に運び終えたその瞬間に、岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。」


ふむふむ。これが案外、「人生の真理」なのかもしれない。


いったん愛が冷めてしまっても、何度でもその人を愛することはできる。だが、愛の成就は一度たりとも不可能である。


どうなのだろうなあ・・・。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする