今年もいよいよ年の瀬。巷では「忘年会」の憂さ晴らしで盛り上がる人々がいる。一方で、この1年を振り返ろうとする人もいる。
近年、ますますボケ気味の私は、わざわざ「忘年」の催しをするまでもない。よい機会だから、この際、今年1年がどうだったかを振り返っておこう。
とはいえ、こまごました出来事はすでに記憶のかなたにある。要するに、思い出せないのだ。思い出せることといえば、デイサへの通所を(居心地が好いので)週2回に増やしたこと、それぐらいだろうか。
思い切り大雑把にいえば、今年もこれまで通りである。なんの変哲もないラセン階段をえっちらおっちら這い登って、一段上の踊り場にでた印象がある。
けれども、これもこれまで通り。そこから見る光景は相も変わらぬ日常のよく見慣れた光景だ。新しさは何もない。自分があのシーシュポスになったような、虚しさに似たある種の徒労感を覚えている。
「神を欺いたことで、シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。」
若かった頃なら、山頂に出ればなにか新しい世界が拓け、そこで自分はハッピーになれるのではないか、と思ったりもした。だが、自分の心性が変わらない以上、どんな世界が現れても、自分がいきなりハッピーになれるはずがない。
今年の大河ドラマは「どうする家康」だった。その家康の遺訓として次の言葉が残っている。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。」
家康は74歳で死亡したとされるが、何歳のとき彼はこの言葉を残したのか。この言葉が妙に心に沁みるこの頃である。
近年、ますますボケ気味の私は、わざわざ「忘年」の催しをするまでもない。よい機会だから、この際、今年1年がどうだったかを振り返っておこう。
とはいえ、こまごました出来事はすでに記憶のかなたにある。要するに、思い出せないのだ。思い出せることといえば、デイサへの通所を(居心地が好いので)週2回に増やしたこと、それぐらいだろうか。
思い切り大雑把にいえば、今年もこれまで通りである。なんの変哲もないラセン階段をえっちらおっちら這い登って、一段上の踊り場にでた印象がある。
けれども、これもこれまで通り。そこから見る光景は相も変わらぬ日常のよく見慣れた光景だ。新しさは何もない。自分があのシーシュポスになったような、虚しさに似たある種の徒労感を覚えている。
「神を欺いたことで、シーシュポスは神々の怒りを買ってしまい、大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた。彼は神々の言い付け通りに岩を運ぶのだが、山頂に運び終えたその瞬間に岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。」
若かった頃なら、山頂に出ればなにか新しい世界が拓け、そこで自分はハッピーになれるのではないか、と思ったりもした。だが、自分の心性が変わらない以上、どんな世界が現れても、自分がいきなりハッピーになれるはずがない。
今年の大河ドラマは「どうする家康」だった。その家康の遺訓として次の言葉が残っている。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。」
家康は74歳で死亡したとされるが、何歳のとき彼はこの言葉を残したのか。この言葉が妙に心に沁みるこの頃である。