ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

イスラエルとハマス その戦いは今後

2023-12-26 10:27:26 | 日記
中東の「かの地」では、いまだ戦火がやまない。その「かの地」から、2つの情報が届いた。いずれもクリスマスの昨夜、夕餉の食卓で聞いたNHKのニュースである。


(1)「パレスチナ暫定自治区のベツレヘムには、キリスト生誕の地に建つとされる『聖誕教会』があり、25日、恒例のクリスマスのミサが行われました。
ミサのなかでピッツァバッラ総大司教は『ことしのクリスマスには喜びと平和はない。2万人以上が犠牲になり、多くの人が避難生活を送るガザ地区に思いをはせている。政治的なことに立ち入りたくはないが、言わねばならない。停戦について話すだけでなく暴力の応酬を完全に止めなければいけない。暴力は暴力を生み出すだけだ』と説きました。

(NHK NEWS WEB 12月25日配信)


(2)「ガザ地区への地上侵攻を続けるイスラエルのネタニヤフ首相は、24日の閣議で『ハマスとの戦いは長期戦になるが最後まで戦い続ける』と述べて強硬な姿勢を示し、引き続きガザ地区への激しい攻撃を続ける構えです。ガザ地区の保健当局は24日、過去24時間だけでガザ地区では166人が死亡し、これまでに2万424人が死亡したと発表しました。
(同前)


相反する主張だが、これら2つの言説のうち、いずれが歴史の検証に耐えるかは、明らかである。
「暴力は暴力を生み出すだけだ」。これは今現在も続くこの地の現状そのものであり、今後も抵抗の暴力が止むことはないだろう。ネタニヤフ首相は「最後まで戦い続ける」と息巻くが、この戦いが「最後」を迎えることはおそらくないに違いない。


イスラエルは、また、この国を支援するアメリカは、なぜこうも強気なのか。それは、日米戦争の戦勝国・アメリカが敗戦国・日本を完全支配し、日本のゲリラ勢力を根絶した、80年近く前の成功体験がそうさせるからである。


イスラエルは、(80年近く前のアメリカ軍と同様)ハマスを武力制圧すれば、以後はこの武装組織を完全に根絶することができると思っている。だが、イスラム教の武装組織・ハマスと、天皇の赤子たる旧日本軍との違いを見逃すことはできない。


旧日本軍の兵士たちは、いったん天皇が敗戦の詔書をラジオで発表すると、悲嘆にひざまずきこそすれ、なお武力をもって米軍に抵抗しようと企てる者はほとんどいなかった。米軍に抵抗しようと企てる部隊は、天皇によって「賊軍」とみなされるからである。


戦いに敗けたとはいえ、敗戦直後の日本国内では、天皇の権威はまだまだ絶大であり、この天皇の権威が旧日本軍を制圧していた。だからこそ進駐軍に対する旧日本軍のゲリラ活動(=反乱)は顕在化しなかったのである。


問題は、この天皇に代わるラスボス的人物がイスラム教の武装組織・ハマスの中にいるかどうかである。存在/不在の違いを考えず、80年近く前の米軍の成功を再現できると思ったら、それは大きな誤りである。


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蛙化現象と恋愛の真理

2023-12-25 15:52:25 | 日記
蛙化現象
この言葉をご存知だろうか。
私はこの言葉を4日前にはじめて知った。
「皆さ〜ん、こんな言葉、知ってますか〜?」
先週木曜日のことだった。デイサのスタッフが始まりの挨拶でそう問いかけた。
かかげられた大きめの用紙には、「新しい学校のリーダーズ」、「アレ(A.R.E.)、「アーバンベア」、「憧れるのをやめましょう」など、今年の流行語がいくつも書きだされていた。
「蛙化現象」、この言葉だけは、私がはじめて目にする言葉だった。好奇心に駆られ、私は自宅に帰るとすぐこの言葉をググってみた。


片想いのうちは大好きで夢中になっていたのに、彼から興味を持たれたり、振り向かれたりすると途端に気持ちが冷めたり嫌いになってしまう心理的現象」だという。
「蛙化現象」という名前は、グリム童話の「カエルの王様」から来ているとあった。童話では、「王女に出会ったカエルが(王女のアクションをきっかけに)王子に変わる」という(蛙→王子の)経過をたどるが、現代の流行語では、これが逆になり、「王子のように魅力的に見えた彼氏が、ふとしたきっかけで魅力をなくし、ただのぼんくらになってしまう」という(王子→蛙の)経過をたどることになる。


「蛙化現象」という心理現象の意味を知った私は、この現象に大いなる興味を懐いた。なぜか。私は以前のブログで、次のように書いたことを思い出したのである。


「彼(ラ・ロシュフコー)は若かった頃、ある女性に惚れ、何度か拒絶されたあとで、やっと彼女をわが物にすることができたのだろう。だが、やっと手に入れたと思った瞬間、彼が味わったのは、『愛の成就』ではなかった。
彼が味わったのは、そういう至福感ではなく、『愛』が(砂上の楼閣のように)がらがらと崩れ落ちていく虚しさ・徒労感だったのではないか。」
(《愛の重荷を背負って行けば》12月20日)


ここに書かれているのは、まさしくラ・ロシュフコーが味わった「蛙化現象」の心理体験にほかならない。私はここに(カミュが描いた)「シーシュポスの神話」に通底するものを見、また次のようにも書いた。


「彼は運命に従って(恋愛感情という)岩を運ぶのだが、(恋愛の成就という)山頂に運び終えたその瞬間に、岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。」
(同前)


これを「恋愛の真理」あるいは「人生の真理」の表出と見るとすれば、(「蛙化現象」が流行した)今年2023年は、多くの若者が「恋愛の真理」もしくは「人生の真理」を見出した(思想史上、記念すべき)年と言えるだろう。

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属性と個人の微妙な関係

2023-12-24 14:48:36 | 日記
人は様々な属性を持ち、それに応じてそれなりの役割を期待される。会社員だったり、老親の一人息子だったり、息子のパパだったり、妻の配偶者だったりして、それに応じて老親の介護を強いられたり、息子の野球教室の送り迎えだったり、妻の買い物の荷物持ちだったり、ーーそういった何らかの役割を果たすように期待される。


「会社員(**株式会社社員)」という属性を持つ人であれば、「**株式会社の業績を上げる」という役割を担わされる。これはギブ・アンド・テイクの関係であり、会社への貢献度次第で大きな報酬をもらえたり、もらえなかったりする。「妻への貢献度」によっては、理想的な夫として尊敬されたり、逆であれば、ダメな夫として三下り半を突きつけられることもある。


さて、「自見英子(はなこ)」なる人の場合はどうだろうか。この人は「自民党・二階派所属の国会議員」と「万博担当大臣」という属性を持っていたが、このほど二階派を離脱し、「自民党所属の国会議員」と「万博担当大臣」という属性を持つ代議士になった。二階派を離脱した理由は、この派閥がパー券・裏金問題で司直の取り調べを受ける問題集団になったからである。


同じ問題から、岸田首相は自らの内閣に塁が及ぶことを恐れ、問題集団・安倍派の4閣僚を切り捨てた。同じ理屈で、このまま自分が問題集団・志帥会(二階派)に所属したままなら、自分も「万博担当大臣」の首を切られるに違いない。ーー自見代議士はそう考えて、二階派を離脱したのだろう。


同様の判断をしたのは、小泉龍司代議士である。小泉代議士も「志帥会(二階派)所属」という属性を持つ代議士である。しかも彼は「現・法相」という属性も持っているのだ。
「志帥会(二階派)所属」という属性を持つ限り、彼は司直によって追及される側に立っている。だが「現・法相」という属性を持つ限り、彼は不正を追及する司直の側に立たざるを得ないのだ。
彼が「現・法相」という属性を捨てない限り、「こいつは『法相』として、自分の派閥の不正を見逃すよう、指示するのではないか」という疑念は拭えない。彼は「派閥を離れるか、法相の職を辞すか」の岐路に立たされたのである。


自見代議士にしても、小泉代議士にしても、「派閥を離れる」というこの二人の判断は、みごとに功を奏した。岸田首相はこの二人の首を切らなかったからである。
「安倍派の所属議員の首を切って、二階派に所属していたこの二人の首を切らないのは、おかしいのではないか?」との記者の質問に答えて、岸田首相は次のように述べたという。


「所属する政策集団(派閥)がどこかではなく、1人1人の意向や事情を勘案して判断した。」


岸田首相のこの答えは、相変わらず的はずれだと言うべきだろう。「では、安倍派の4閣僚の首を切ったのは、『所属する政策集団(派閥)がどこか』を問題にしたからではなかったのか。二階派の場合だけ派閥を問題にしなかったのは、なぜか」という問いには、彼はまったく答えていないからである。


私が突っ込みたいのは、だが、ここではない。「派閥という属性を切り捨てた人を、派閥にどっぷり浸かった人と同列には判断できない」と答えれば、それまでである。


私が問題にしたいのは、むしろ自見氏と小泉氏が、いとも簡単に派閥との縁を切ったことである。


冒頭に書いたように、人は様々な属性を持ち、それに応じてそれなりの役割を期待される。そして期待に応えたその度合いによって、それなりの報酬を与えられる。
自見氏、小泉氏がそれぞれ与えられた「万博担当大臣」、「法相」というポストは、(不正が発覚する前の)派閥(二階派)が両者に与えた報酬だと言えるだろう。にもかかわらず両者は、その報酬だけを受け取って、派閥が期待した役割を果たさず、不正が発覚すると、「そんな不正、私には関係ありません」と、頬かぶりを決め込んだのである。ギブだけを受け取って、派閥の不正に幾分なりともコミットした責任を取ろうとしない、その厚顔無恥には唖然とするばかりである。


自見氏にしても、小泉氏にしても、(総理ではなく、派閥からギブされた)国務大臣の職を辞する潔さを見せるべきではなかったか。そう思う天邪鬼爺である。

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武器輸出のなんちゃって万歳

2023-12-23 11:38:08 | 日記
今は昔、「なんちゃっておじさん」という人物がいたことをご存知だろうか。昭和52年ごろの話である。東京の電車内に出没したという多数の目撃証言がある。


この「なんちゃって」という言葉、今ではあまり聞かれなくなったが、元は「ほんの冗談でした」という意味の俗語である。 また「本物・本当ではない、模造(した)、偽物(の)」という意味の俗語でもある。


つまり、「XはYである」と主張しながら、大真面目にこれを言い張るのではなく、「な〜んてね、ほんの冗談のつもりだから、気にしないでよ。あまりムキになりなさんな」という含みを持たせているのだ。カッコよくいえば、真理の主張を相対化する殺し文句とでもといえるだろう。なんちゃって。


話はぐるりと変わるが、きのう夕餉の食卓で、次のニュースを聞いた。


政府は22日、持ち回りでNSC=国家安全保障会議の閣僚会合を開き、防衛装備品の輸出ルールを定めた『防衛装備移転三原則』の運用指針を改正しました。
それによりますと、外国企業から技術を導入し国内で製造する『ライセンス生産』の装備品の輸出について、これまではアメリカに対し部品のみ認めていましたが、完成品も含めてライセンス元の国への輸出を可能とします。
これを受けて地上配備型の迎撃ミサイル『PAC3』をライセンス元のアメリカに輸出することも決めました。
2014年に防衛装備移転三原則が策定されて以降、自衛隊法上の武器にあたる完成品の輸出は初めてとなります。

(NHK NEWS WEB 12月22日配信)


いや〜、大したものだ。技術のライセンスがアメリカにあるとはいえ、その技術を用いて製造した兵器を、まるごとライセンス元のアメリカに輸出できるまでになったとは、日本もなかなか捨てたものではない。


考えてもみよう。先の大戦でアメリカに敗けた日本は、航空機など兵器の製造につながる重工業分野を解体・弱体化され、戦争ができない国(=平和国家)になることを強いられた。しかし、これでやっと迎撃ミサイルなどの先端兵器を製造し、これをアメリカに輸出するまでに「成長」を遂げたのだ。


何だって!兵器を製造販売するなんて、「死の商人」になり下がること、これは平和国家にはあるまじきことだ!そう息巻く人も多いだろうが、まあ、そうムキにならず、頭を冷やして、ここはひとつこのことのメリット(=経済効果)を考えてみようではないか。


これまで日本は高額なイージスシステムなど、アメリカ製の兵器を買わされる一方で、そのために大きな経済的負担を強いられてきた。しかし、これからはそうした経済構造が変わるかもしれないのだ。


日本が国内の軍需企業から高い税金を取り立てるとか、軍需企業を国営化するとか、何らかのうまい手立てを考えれば、日本は歳入の増加によって経済的に潤うようになり、国民が高い税金に苦しむこともなくなるに違いない。


国の歳入が黒字に転じれば、日本は他国から「ワグネル」のような軍事のプロ集団を(いわば傭兵として)雇うこともできなくはない。そうすれば、日本人が危険な戦地に立つことだってなくなるだろう。

ーーほら、いいこと尽くめではないか。


「防衛装備移転三原則」の運用指針の改正、万歳!


なんちゃって。

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恋愛の形而上学

2023-12-22 17:05:39 | 日記
きのうのことではない。アレはもしかすると、金塊だったのかもしれない・・・。
けさになって、私はそう思いなおした。「アレ」とは、きのうデイサで読んだ『ラ・ロシュフコー箴言集』の中の一節である。


385 大いに愛している時も、 愛情がほとんどなくなった時も、 ほとんど同じくらいに 人はなかなか満足しないものである。


きのうデイサで読んだときは、さして気にならなかったこの一節が、けさになると、なぜか急に気になりはじめたのである。


おとといの本ブログで、私は『箴言集』の次の一節を俎上にのせた。


286 いったんほんとうに愛が冷めてしまったら、 二度とその人を愛することは不可能である。


この一節(286)は、きのう読んだ一節(385)と深い関係があるのではないか。そう思えたのである。


[286]も[385]も、同じ一人の女性(A子さん)をめぐって書かれた文章である、と仮定してみよう。


ラ・ロシュフコーはある時(p)、A子さんに出会い、A子さんを愛するようになったのだが、別のある時(q)になると、何らかの原因で、その愛が冷めてしまった。ーーラ・ロシュフコーは、実際にそういう体験をしたのだろう。


問題は、ラ・ロシュフコーにそういう心変わりをもたらした原因は何か、である。ありがちなのは、意見の違いからA子さんとケンカになり、怒り狂ったA子さんの思わぬ(鬼のような)一面を見て、男が興ざめして(愛が冷めて)しまった、というようなケースである。
このケースなら、A子さんへの愛が冷めた時のラ・ロシュフコーは、A子さんの態度に不満をいだきこそすれ、満足するはずがない。


このケースでむしろ問題になるのは、ケンカ別れをする前のラ・ロシュフコーが、ーーつまり、まだA子さんを愛している時(p)のラ・ロシュフコーがーー「満足しない」と([385]で)言明されている理由である。A子さんを愛しているのに、ラ・ロシュフコーはなぜこの状況に「満足しない」のか。「満足する」のが普通だと思われるが、ラ・ロシュフコーはなぜ「満足しない」と書くのだろうか。


この問いに対しても、ありがちなケースを想定することは可能である。
ラ・ロシュフコーはA子さんを愛しているのだが、A子さんが彼の愛情を拒んでいるケースである。
ラ・ロシュフコーはA子さんに自分の愛情を受け入れてもらいたいと強く願っている。しかしこの願いがA子さんに聞き入れてもらえない。
ーーこの状況なら、ラ・ロシュフコーがこれに「満足しない」のは当然である。


では、これとは逆に、(A子さんに自分の愛情を受け入れてもらいたいと思う)ラ・ロシュフコーの願いが、A子さんに受け入れられたとすれば、どうか。この状況なら、ラ・ロシュフコーだってこれに「満足する」のではないか。


さにあらず。この状況こそ、おととい本ブログで私がとりあげた状況にほかならない。私は次のように書いた。


「何度か拒絶されたあとで、(ラ・ロシュフコーは)やっと彼女(A子さん)をわが物にすることができたのだろう。だが、やっと手に入れたと思った瞬間、彼が味わったのは、『愛の成就』ではなかった。
彼が味わったのは、そういう至福感ではなく、『愛』が(砂上の楼閣のように)がらがらと崩れ落ちていく虚しさ・徒労感だったのではないか。」


ラ・ロシュフコーが味わったと思われるこうした心理体験を、私はカミュの「シーシュポスの神話」になぞらえて、次のように書いた。


彼は運命に従って(恋愛感情という)岩を運ぶのだが、(恋愛の成就という)山頂に運び終えたその瞬間に、岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。


これを仮に「恋愛の形而上学」と呼ぶとすれば、箴言[385]は[286]と同様、ラ・ロシュフコーが「恋愛の形而上学」を書く過程でたどった試行錯誤を書き留めた道標のようなものではないか。そう思うのである。


ーーあ、『シーシュポスの神話』に触れたついでに、ひとつ申し添えたい。おととい本ブログで私がこの本を持ち出したのは、当日、デイサ・スタッフのおばさんとの会話の中で、私がこの本のことを話題にしたからだった。


「カミュの『異邦人』を読みました」とおばさんが言うので、私は「それなら、次は『シーシュポスの神話』がお勧めですよ。『ペスト』なんかより、ずっとおもしろいですから」と答えたのだった。


特に深い考えもなく、「強く記憶に残っている本」ということで、私はこの本の名前をあげたのだが、そのことで私は謝らなければならない。よくよく思い起こすと、この本は決しておもしろい本ではないからだ。


何しろこの本は「自殺」をテーマにした本なのである。カミュは次のように書いている。


真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。


「人生が生きるに値するか否か」なんて、おばさんとはいえまだまだ若く、毎日を楽しそうに生きているあなたには、興味のない問題ですよね。こんな暗〜い本を「推し」にあげるジジイの私なんかにも。




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