ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

恋愛の形而上学

2023-12-22 17:05:39 | 日記
きのうのことではない。アレはもしかすると、金塊だったのかもしれない・・・。
けさになって、私はそう思いなおした。「アレ」とは、きのうデイサで読んだ『ラ・ロシュフコー箴言集』の中の一節である。


385 大いに愛している時も、 愛情がほとんどなくなった時も、 ほとんど同じくらいに 人はなかなか満足しないものである。


きのうデイサで読んだときは、さして気にならなかったこの一節が、けさになると、なぜか急に気になりはじめたのである。


おとといの本ブログで、私は『箴言集』の次の一節を俎上にのせた。


286 いったんほんとうに愛が冷めてしまったら、 二度とその人を愛することは不可能である。


この一節(286)は、きのう読んだ一節(385)と深い関係があるのではないか。そう思えたのである。


[286]も[385]も、同じ一人の女性(A子さん)をめぐって書かれた文章である、と仮定してみよう。


ラ・ロシュフコーはある時(p)、A子さんに出会い、A子さんを愛するようになったのだが、別のある時(q)になると、何らかの原因で、その愛が冷めてしまった。ーーラ・ロシュフコーは、実際にそういう体験をしたのだろう。


問題は、ラ・ロシュフコーにそういう心変わりをもたらした原因は何か、である。ありがちなのは、意見の違いからA子さんとケンカになり、怒り狂ったA子さんの思わぬ(鬼のような)一面を見て、男が興ざめして(愛が冷めて)しまった、というようなケースである。
このケースなら、A子さんへの愛が冷めた時のラ・ロシュフコーは、A子さんの態度に不満をいだきこそすれ、満足するはずがない。


このケースでむしろ問題になるのは、ケンカ別れをする前のラ・ロシュフコーが、ーーつまり、まだA子さんを愛している時(p)のラ・ロシュフコーがーー「満足しない」と([385]で)言明されている理由である。A子さんを愛しているのに、ラ・ロシュフコーはなぜこの状況に「満足しない」のか。「満足する」のが普通だと思われるが、ラ・ロシュフコーはなぜ「満足しない」と書くのだろうか。


この問いに対しても、ありがちなケースを想定することは可能である。
ラ・ロシュフコーはA子さんを愛しているのだが、A子さんが彼の愛情を拒んでいるケースである。
ラ・ロシュフコーはA子さんに自分の愛情を受け入れてもらいたいと強く願っている。しかしこの願いがA子さんに聞き入れてもらえない。
ーーこの状況なら、ラ・ロシュフコーがこれに「満足しない」のは当然である。


では、これとは逆に、(A子さんに自分の愛情を受け入れてもらいたいと思う)ラ・ロシュフコーの願いが、A子さんに受け入れられたとすれば、どうか。この状況なら、ラ・ロシュフコーだってこれに「満足する」のではないか。


さにあらず。この状況こそ、おととい本ブログで私がとりあげた状況にほかならない。私は次のように書いた。


「何度か拒絶されたあとで、(ラ・ロシュフコーは)やっと彼女(A子さん)をわが物にすることができたのだろう。だが、やっと手に入れたと思った瞬間、彼が味わったのは、『愛の成就』ではなかった。
彼が味わったのは、そういう至福感ではなく、『愛』が(砂上の楼閣のように)がらがらと崩れ落ちていく虚しさ・徒労感だったのではないか。」


ラ・ロシュフコーが味わったと思われるこうした心理体験を、私はカミュの「シーシュポスの神話」になぞらえて、次のように書いた。


彼は運命に従って(恋愛感情という)岩を運ぶのだが、(恋愛の成就という)山頂に運び終えたその瞬間に、岩は転がり落ちてしまう。同じ動作を何度繰り返しても、結局は同じ結果にしかならないのだった。


これを仮に「恋愛の形而上学」と呼ぶとすれば、箴言[385]は[286]と同様、ラ・ロシュフコーが「恋愛の形而上学」を書く過程でたどった試行錯誤を書き留めた道標のようなものではないか。そう思うのである。


ーーあ、『シーシュポスの神話』に触れたついでに、ひとつ申し添えたい。おととい本ブログで私がこの本を持ち出したのは、当日、デイサ・スタッフのおばさんとの会話の中で、私がこの本のことを話題にしたからだった。


「カミュの『異邦人』を読みました」とおばさんが言うので、私は「それなら、次は『シーシュポスの神話』がお勧めですよ。『ペスト』なんかより、ずっとおもしろいですから」と答えたのだった。


特に深い考えもなく、「強く記憶に残っている本」ということで、私はこの本の名前をあげたのだが、そのことで私は謝らなければならない。よくよく思い起こすと、この本は決しておもしろい本ではないからだ。


何しろこの本は「自殺」をテーマにした本なのである。カミュは次のように書いている。


真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。


「人生が生きるに値するか否か」なんて、おばさんとはいえまだまだ若く、毎日を楽しそうに生きているあなたには、興味のない問題ですよね。こんな暗〜い本を「推し」にあげるジジイの私なんかにも。




コメント
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