ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

戦争を知らない、ということ

2023-12-31 12:04:26 | 日記
私は戦争を知らない。
1946年生まれの北山修は、かつて次のように歌った。


♫ 戦争が終わって僕らは生まれた
  戦争を知らずに僕らは育った
  おとなになって歩きはじめる
  平和の歌をくちずさみながら
  僕らの名前を覚えてほしい
  戦争を知らない子供たちさ ♫


1950年生まれの私は、まさしく「戦争を知らない子供たち」の末席にいる。


そんな私は、「戦争」というものの実態を少しでも知ろうとして、昨晩、映画『ラーゲリより愛を込めて』(二宮和也主演)を見た。


というのは、ホントではない。有り体に言えば、ウソである。


昨夜は午前3時頃、小用のためトイレに起きたら、眠気が吹き飛んでしまった。映画でも見ようとアマゾンの動画サイトを開くと、『ラーゲリより愛を込めて』がうまい具合に「プライム会員特典」(無料)になっていたのである。


この映画は、戦場の苛烈さを描いた作品ではない。第二次世界大戦の、その敗戦のどさくさに乗じた旧ソ連軍に捕らえられ、強制収容所(ラーゲリ)で捕虜として苦難の生活を強いられた80年前の日本人たちの物語である。


ラーゲリで過ごす捕虜としての生活と、戦場で敵と戦いながら過ごす兵士としての時間と、そのどちらがより辛いのか、私にはわからない。帰国(ダモイ)への希望の少なさということで言えば、どっちもどっちなのだろう。


この映画によってラーゲリでの生活の過酷さを突きつけられた私は、「戦争なんて御免だ、まっぴらだ」と、改めて思わされた。
「ムリだ!兵士として戦場に立つのも、戦争捕虜として虐待されるのも、自分にはとても堪えられない!」と。


私はこの映画を見るのを途中でやめた。見るのが心理的に辛かったからではない。まだ腱鞘炎が治りきらない右手で、スマホをかざすのがしんどくなってきたのである。


だから私はこの映画をまだ半分しか見ていないのだが、察するに、この映画は、希望の見えない「絶望」の状況下で、それでも希望をすてない主人公の不屈の魂を描こうとしているのだろう。この主人公にとっての「希望」とは、日本に帰国し、妻や子供たちと再会を果たすことにほかならない。


そのままベッドに横たわり、私は考えた。
自分にはそんな希望はあるのだろうか、と。
苦難をのりこえる原動力になるほどの、強い希望のイメージが、私には湧いてこなかった。


自分には特段の希望がない。その意味では、今の私は「絶望」の状況におかれているといってよかった。


だが待てよ。ぬくぬくと暮らす今の私が「絶望」の状況におかれている、などと言ったら、ラーゲリで捕虜生活を強いられたあの日本人たちは「きさま、何をほざいているのだ!」と怒りだすに違いない。


そう。彼らが80年前の当時、「希望」という言葉でイメージした故国での生活の、その水準以上にはるか満ち足りたぬくぬく生活を送っている今の私は、きっとすでに「希望」の光の下にでてしまっているのだ。


「希望」の光は、絶望の闇の中でこそ輝きを増す。闇がないために「希望」の光が見えない我々「戦争を知らない子供たち」ーー。そんな「子供たち」の、その老後の味気ない生活は、きっと幸せというべきなのだろう。

コメント
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