ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

中国の日本批判に物申す

2021-03-26 11:42:42 | 日記
平気で人権を踏みにじる国、中国。その中国のあるまじき人権蹂躙を阻止しようと、軍事的包囲網を築いて迫る日米英仏。その両勢力が衝突し、戦争の事態にまでエスカレートすれば、生存権という〈人権〉は間違いなく蹂躙される。なんとも皮肉な話ではないか。ーー本ブログで先日、私はそう書いた。

市井の老ブロガーに過ぎない私が書けば、当たり障りのない「おちょくり」のニュアンスを帯びるこの話も、当事者である人権蹂躙の大国・中国が(憲法に「人権尊重」の理念を掲げる)もう一つの当事者・日本を批判するネタとして使うとなれば、俄然そのニュアンスは変わってくる。

私の念頭にあるのは、以下のようなネット記事である。

「中国外務省の華春瑩報道局長は25日の記者会見で、日本政府が新疆ウイグル自治区の人権侵害に『深刻な懸念』を表明したことについて、『日本は慰安婦問題という人道上の犯罪で言葉を濁している。彼らは人権を尊重していると言えるのか』と反発した。その上で『デマに基づいた中国に対する中傷をやめるよう望む』と強調した。」
(JIJI.COM 3月25日配信)

中国外務省の華報道局長が強調するのは、「日本の侵略戦争で3500万人を超える中国人が死傷し、南京大虐殺で30万人以上が犠牲になった」とする中国側の見解である。日本は過去にこういう途轍もない人権侵害の行為を行っているではないか。にもかかわらず、そういう過去の行為を反省することもなく、靖国神社にA級戦犯を祀っている。そんな日本に、わが国を批判する資格があるのか、というわけである。

これは痛い。耳が痛い。日本が40年前の侵略戦争で何人の人命を奪ったか、いくつの「生存権」を侵害したか、という事実認識をのぞけば、反論の余地はない。

だが、そういう過去の事例に基づいて、「日本には中国の人権侵害を批判する資格がない」と主張することはできるだろうか。日本は戦前・戦中における国内での人権抑圧や、国外での人権侵害を深く省(かえり)み、生まれ変わるために、「人権尊重」の理念を基本とする新憲法を作った。「靖国神社にA級戦犯を祀っているのは、過去を反省していない証拠だ」というのは、また別の文脈で論じるべき話である。

人権侵害という過去の自らの行為を、繰り返してはならない大きな過ちとして認める日本が、今現在、人権侵害を行っている国・中国を批判し、これを糺そうとするのは、何らおかしなことではない。ただ、糺すための手段として、戦争という人権侵害の行為に訴えるのであれば、それはいただけないと思うのである。
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ミサイル発射 北の国と中国は

2021-03-25 11:16:26 | 日記
北朝鮮がまたミサイルをぶっ放した。ミサイルの発射は去年3月以来で、1年ぶりのことになる。今回は2発で、2発とも日本の領域には飛来せず、排他的経済水域(EEZ)にも落下しなかったという。

問題は、北がミサイルをぶっ放したその意図、ないし狙いである。発射には莫大な費用がかかるから、北が何の狙いもなしに、ただ「国威発揚」というだけでミサイルをぶっ放したとは、考えにくい。一説によれば、1発の発射には少なくとも100万ドル以上がかかり、ただでさえ苦しい懐事情の北にとって、これは大きな負担になる。

それではなぜ北朝鮮はこの時期にミサイルを2発もぶっ放したのか。「裏で糸を引いているのは、中国だな」。ミサイル発射の報に接したとき、私は咄嗟にそう感じた。そう感じたのは、私がここ数日、ブログで中国問題を取りあげているからである。

このところ中国は、日米豪印英仏加による中国包囲網が強化され、焦りを禁じ得なかったはずだ。そこで「俺んちの内政問題に首を突っ込んで、あれこれ騒ぎ立てると、家(うち)の若いもんを抑えられなくなりますぜ」と啖呵を切ったのだろう。こう啖呵を切るために、中国の親分は北の太っちょ若頭に連絡を取り、「そろそろアレをやってみないか。費用はこっちが面倒を見るから、心配はいらない」と焚き付けたのだろう。

テレビを見ていたら、「今回の北朝鮮によるミサイル発射は、中国とは関係ないでしょうね。北朝鮮は中国が望まないことはやりませんから」と言っている評論家がいた。この発言には「中国は、北朝鮮がミサイルを発射して周囲にーー自国にーー脅威を与えることは望まない」という見解が前提されている。しかし「中国は、北朝鮮がミサイルを発射して周囲にーー敵側の諸国にーー脅威を与えることを望んでいる」としたら、どうなのだろう。その可能性は大きいと思うのだが。
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中国と妖怪コロナ・ウイルス

2021-03-24 11:19:14 | 日記
中国による人権侵害のふるまいに対して、非難の矢を向けるのはアメリカだけではない。欧州連合(EU)やイギリス、カナダも、中国が新疆ウイグル自治区で重大な人権侵害を行っているとして、中国政府当局者に制裁措置の実施を通告した。

EUが中国に対して制裁を行うのは、EUの前身組織の時代を含めると1989年の天安門事件以来のことになる。経済関係を中心に、中国と親密な関係を築いてきたEUだが、2020年の香港の国家安全維持法制定に伴う民主化の後退などでEU首脳らが中国を批判する場面が目立ってきた。

EUが中国に制裁を行うのは、EUが〈人権〉の大義にこだわり、徹頭徹尾これを守ろうとするからにほかならない。そのためには、中国との経済的な結びつきを損なってもやむを得ない、との判断が、EU首脳を動かしたのだ。

人権か、経済かーー。その二者択一に迫られ、前者を選択したEUの首脳は、コロナ・ウイルスの猛威に対処すべく、人命か経済かの二者択一に迫られて、前者を選択した国々(そこには日本も含まれる)の首脳と立場を同じくしている。

つまり、中共政府の横暴を警戒するEU首脳の認識は、コロナ・ウイルスの蔓延を警戒する各国首脳の認識と、基本的には同じものなのである。EUだけでなく、アメリカや日本の首脳も、中共政府の横暴をコロナ・ウイルスと同質の脅威とみなしていると言ってもよい。

話は変わるが、日本では政府が緊急事態宣言を解除し、警戒の手を緩めた途端に、妖怪コロナが復活の兆しを見せはじめた。警戒の手を緩めるとたちまちリバウンドの嵐を見舞う点では、中共政府も妖怪コロナと変わらない。この点からしても、中国への制裁の手は当面、緩められないと言えそうだ。
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米中対立と人権問題

2021-03-23 11:33:45 | 日記
「てめえ、ガンをつけたな」
「なにぃ、ガンをつけたのはてめえのほうじゃねえか」
これはDQN同士のケンカの通例だが、国と国との関係もこれとあまり変わらない。
ただし、「ガン(眼)をつける」という売り言葉は、国家同士の場合は「人権を踏みにじる」という言葉になる。

「あんたの国は人権を蹂躙している。これは許されないことだ。」
「いや、あんたの国こそ人権を踏みにじっている。あんたの国には、そんなことを言う資格はない。」

先日、米アラスカ州で開かれた米中高官級会談は、そんな非難の応酬で幕を開けたという。米側は、新疆ウイグル自治区や香港、台湾での中国政府の弾圧姿勢を問題にしたが、これに対して中国側は、「ブラック・ライヴズ・マター」問題に象徴される、黒人抑圧問題を取りあげて対抗したのである。

こんなふうに切り返されれば、米側はぐうの音も出ない。中国と渡り合う際の武器として長らく重宝がられてきた「人権を!」の決まり文句も、今では形なしである。今となっては、だれもアメリカが「人権尊重の国」だなどとは思っていない。人権問題で中国からいちゃもんをつけられるようになっては、アメリカも面目丸つぶれである。

「人権」の概念がタテマエ上の外交の舞台で武器としての役割を果たさなくなれば、そこには露骨な力の競り合いというホンネの巨岩が姿を現す。アラスカ会談の3日後、日本の海上自衛隊は米海軍と仏海軍が中東海域で合同軍事訓練をしたと発表した。日米仏は中国の軍事的覇権拡大に対抗して、「自由で開かれたインド太平洋」を実現する目的で一致しており、合同軍事訓練を通じて連携姿勢を示す狙いがあるとみられる。

でもなあ・・・。軍事的な衝突となれば、確実に人命は失われる。生存権という「人権」は間違いなく蹂躙される。こうした「恥の上塗り」行為を、米側と中国の首脳は一体どう考えているのだろうか。
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F書店のこと

2021-03-22 12:16:11 | 日記
F書店から「創業30周年記念の集い」の案内状が届いた。人文・社会系の学術書を出版する「新評論」の編集者だったF氏が、この出版社を立ち上げてからもう30年が経つ。このことからも分かるように、F書店は比較的若い出版社で、人文・社会系の「まじめ」な本を出版してきた。ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン――社会的判断力批判』や、フェルナン・ブローデル『地中海 環境の役割』の翻訳書が話題になった。石牟礼道子『苦海浄土』や、鶴見和子『曼荼羅』なども出版している。

F書店から「創業30周年」記念パーティーの案内状が私に送られてきたのは、かれこれ20年ほど前、私がF書店から単行本を出してもらっているからである。当時「まじめ」な研究者だった私は、(「純文学」ならぬ)「純哲学」分野の「まじめ」な(つまり売れない)本ばかり書いていた。そのためか、どの出版社からもまともに相手にしてもらえなかったが、F書店の対応は違っていた。

指定された通りにF書店へ出向き、F社主との面談を終えると、「分かりました。出しましょう」と、二つ返事で承諾をいただいたのである。このとき私は、F社主の(出版人としての)心意気のようなものを感じ、以来、豪放磊落なこの人に恩義を感じるようになった。F社主と若い担当編集者、それに私の三人で新大久保界隈の小綺麗なバーに入り、夜遅くまで酒を酌み交わしたこともある。

そのような経緯があるから、創業30周年の記念パーティには出来ればぜひ出席したかったが、残念なことに私は目下、脳出血の後遺症で半身不随の身であり、車イスと介助の手が欠かせない。涙を呑んでやむなく欠席の返信をした。F社主には、今後も会社をもり立て、続々と良書を出版していただきたいと願っている。
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