ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

孤人の憂うつ

2021-03-07 14:11:20 | 日記
昨夜放送された夜ドラ「ここ倫」は、これで第7回目である。すっかりお馴染みになった高柳先生の問いかけは、今回は
「『ひとりで』と『みんなで』あなたはどっちが好きですか?」
というものである。

この問いかけに対して、私、天邪鬼爺の答えは、はっきりしている。「私は『ひとりで』が好きです。『みんなで』は嫌いです、はい」

今回のドラマには、南香緒里という女生徒が主人公として登場する。彼女がクラスという「みんな」の中で覚える、どうしようもない違和感。これが今回のメインテーマだが、この違和感は、これまで私がしばしば感じてきた気持ちに実によく似ている。

まずは「ここ倫」のHP(NHK)から、今回の「エピソード」を紹介しておこう。

「体育祭を前に加熱するクラス全員参加のグループチャット。そんな団結心を白々しく感じる南香緒里(中田青渚)はあえて周囲と距離を置いている。香緒里は、同じ様な態度の逢沢いち子(茅島みずき)にシンパシーを感じていた。高柳(山田裕貴)の授業で個人主義という言葉を覚えたいち子は独断でグループチャットから抜けてクラスメイトからいじめを受けることに…。高柳はその問題について倫理の授業で対話することを提案する。」

グループチャットからいち早く抜けた、いち子。彼女が受けたいじめは、クラスの大多数からの「シカト」(無視)だった。結束力の強い集団は、異分子を排除したがるものだ。集団主義の本性が、ここには端的に現れている。

集団主義の対義語は個人主義であり、香緒里は、ここではこの個人主義の体現者として描かれている。高柳先生の問いかけは、(グループチャットで盛り上がる)クラスの集団主義と、(香緒里が体現する)個人主義と、そのどちらをあなたは好みますか、というものだった。これは、どちらが正しいか、という問題ではなく、単純な好き嫌いの問題であり、全面的にその人その人の感性に帰着する問題である。

たとえば旧ソ連の指導者が、あるいは中国共産党の指導者が「みんなで一致団結して事に当たるのは、素晴らしいことだ。結束を嫌い、そこから抜け出そうとする輩(やから)は悪人であり、許されることではない」と叫んでも、全体主義者のこの号令を受けつけない気質というものがある。繰り返すが、これは善悪や正邪の問題ではなく、あくまでも個々人の好悪の問題である。

「ひとり」が好きな人は、「みんな」から嫌われ、排除される運命にあるが、このような選好(preference)を持つ「孤人」の同類として、私は、そういう「孤人」(一匹狼)を排除しないような社会が築かれれば良いと願っている。同調圧力に左右される日本の社会は、「孤人」を尊重する社会とは言い難い。

私に興味深かったのは、ベンサムの功利主義思想を倫理の観点からどう受け止めたら良いかである。ベンサムは「最大多数の最大幸福」をめざすべきだと述べたが、この種の功利主義思想は、香緒里のような感性の持ち主にどう対処するのか。

「俺は多数者に埋没することを断固、拒否する」と主張する「孤人」は、ベンサムが考える「幸福」の射程には入ることができない。香緒里のような、そして私のような「孤人」は、集団的熱狂に溶け込むことができず、熱狂を離れて、ひとり孤独を甘受するしかない。

孤独はイコール不幸だ、とは、私は思わない。孤人(個人主義者)の幸福を、ベンサムの思想は結局、汲み取ることができないのではないか。それについては、高柳先生は何も語らなかった。今回の番組で、私が物足りなく思ったのは、その点である。
コメント
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