ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

「よく生きる」とは

2021-03-16 14:14:39 | 日記
私が大学生だった頃、ということは50年ほど前、つまり半世紀前のこと、――要するに遥かな昔々のことである。私は古代ギリシアの思想家・プラトンの対話篇をよく読んだ。対話篇の主人公は、倫理学の始祖とされるソクラテス。ソクラテスは対話の相手に、こんなことを語っている。

「ただ生きるのではなく、よく生きること、それが大事だ。」

ソクラテスの真骨頂をなすこの思想が具体的にどんな言葉で語られていたかは、もう憶えていない。なにしろ半世紀も前の、昔々のことである。

けれども大事なのは、表面上の片言隻句ではなく、この思想の中身そのものだろう。
「よく生きる」とは、一体どういうふうに生きることなのか。それは「ただ生きる」とは、どの点で、どんなふうに異なっているのか。

哲学・倫理学に関心を持ち、多少でも腕に覚えのある人なら、「『よく』生きるとは、『道徳的に』生きるということさ、そんなこと、常識じゃないか」と言うに違いない。

この考え方からすれば、(利害関係者である)NTTの社長から接待を受けた総務大臣が、飲食代金をNTT側に返金し、「私は接待を受けたのではない。NTTの社長と会食をして、社会情勢について意見交換をしただけだ」と言い逃れをするとき、彼は「よく」生きているのではないことになる。なぜか。

それは、「保身」という形の自己利益の追求が「道徳的」ではないからである。では、自己利益の追求はなぜ「不道徳的」であり、「よくない」ことなのか。自分の利益(自分のためになること)を追求するのは、むしろ各人にとって「よい」ことではないのか。

私が知りたいと思いながら、残念なことに思い出せないのは、(プラトンの描く)ソクラテスが、この問いにどう答えているかである。彼はたぶん、何も答えていなかったのではないか、と思う。プラトンの描くソクラテスは、答えに窮すると、奇妙な神話(ミュトス)を持ち出して、相手を煙に巻く奇妙な悪癖がある。この問いの場合も、ソクラテスは奇妙な神話語りによって、この場をはぐらかそうとしたのではなかったか。

でも、そんなことはどうでもよいことである。大事なのは、古代の思想家がどう述べたかではなく、現代を生きる我々が、この問題についてどう考えればよいかということだからである。

では、自己利益の追求はなぜ「よくない」ことなのか。というより、自己利益の追求はそもそも「よくない」ことなのかどうか――。

この種の問題をとことん考え抜くことが倫理なのだ、と(「ここ倫」の)高柳先生なら言うに違いない。残念ながら、今の私に欠けているのは、この〈倫理〉を生き抜く思考の情熱である。齢をとるのは悲しいことだ。
コメント
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