ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

アランの幸福論

2020-12-26 09:07:56 | 日記
前回に引き続き、幸福論を取りあげる。今回はアランの幸福論。以下は、S・I 准教授の『哲学における幸福論ーーヒルティ、アラン、ラッセルーー』からの抜粋である。

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われわれは幸福を「つくらねばならない」とアランは言う。幸福が向こうからやってくるのを「待つ」のではない。自分で「つくる」のである。それには「微笑のまね」をし、「ひとこと」感謝のことばを言えばよい。相手が感謝する値打ちのある人間だから感謝するのではない。どんなうすのろに対しても感謝するのである。
仮にもし自分が冷淡なうすのろであったとしても、自分という「馬の手綱をしっかり押さえて」礼儀正しく感謝をし、「自分が」上機嫌でいるなら、状況は変わる。周りの人たちも巻き込まれずに済む。これもまた「事実」である。
だとすれば自分は不幸にされたのではない。「自分が」不幸になったのである。そして自分が不幸になったせいで、自分が不幸な状況を現実に立ち上げているのだ。

もし幸福になりたいなら、まずは自らが「幸福になろうと欲し、それに身を入れることが必要である」。逆に、その練習に打ち込まず、「全力を尽くしてたたかう」こともせず、「幸福に通路をあけ、戸口を開いたままにしておくだけで、公平な見物人の立場にとどまっているならば、入ってくるのは悲しみであろう」。「エゴイストが悲しいのは、幸福を待っているからである」。

だからアランは言う。まるで「ダンスのようにして」、上機嫌の人を見習って「幸福」の仕草を覚えよ、と。「初めは奇妙なことに見えても」、あたかも幸福な人間であるかのように振る舞え、と。

「不幸の振る舞い」をリジェクトして「幸福である」という本来のデフォルトにわたしたちを置き直すことこそアランの「幸福の振る舞い」の学びに他ならない。

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ヒルティの幸福論が受動的な他力本願の思想の表明であったとすれば、アランの幸福論は能動的な自力の思想、ーー自己改革の思想だと言うことができる。ラッセルの幸福論はどんなだろうか。次回はラッセルの幸福論を取りあげる。
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ヒルティの幸福論

2020-12-25 11:19:14 | 日記
私がむかし勤めていたA大学の大学院B研究科C専攻では、教員と大学院生が合同で小さな研究会を組織し、その会報を年に一度の割合で刊行している。先日、その2020年版が送られてきた。いわゆる「研究紀要」の類である。研究紀要といえば、「読者は著者一人だけ」と言われるほど、それほど面白くないのが通り相場だが、一つだけ面白い論文があった。S・I 准教授が書いた『哲学における幸福論ーーヒルティ、アラン、ラッセルーー』と題する論文である。

幸福論。人はどうすれば幸福になれるのか。幸福について我々はどう考えればよいのか。現代のアカデミズムの世界では、こういうストレートな「素人っぽい」問いを掲げることは憚られるが、開き直って言えば、この問いは哲学・倫理学の中核に位置する正統的な問いにほかならない。この問いに真正面から向き合った3人の思想家、ヒルティ、アラン、ラッセルの幸福論を取りあげた点で、私はこの論文に興味をそそられた。

以下、私が面白いと思った箇所をそのまま引用する。私などが喋々するより、そのほうがずっと有意義だと思うからである。S・I 准教授には、この場を借りてお礼申し上げる。

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そもそも起きていることはすべて「自らの力の及ばないもの」、「外的運命」であり、自分の好悪に関わらず外からわれわれに与えられたものである。出来事に限ったことではない。われわれがここに生きているのもわれわれ自身の努力によるものではなく、われわれが呼吸をしているのも自らの意志によるものではない。自分の意志を超えたこの絶対的受動性をわれわれは既に生きているのだ。われわれにできるのは「与えられている」というこの受動性を生き切るか、あるいはその事実性に抗うかの二択である。そしてすべてが与えられたもの/自分を超えるなにものかによって自らに下されたものであるとするなら、われわれはそのなにものか/われわれを超えるものである超越者に自らを委ね、与えられる生を恵まれた生として生きるしかない。

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以上は、著者のS・I 准教授がヒルティの幸福論について言及した文章からの抜粋である。この部分は何やら親鸞の「他力」の思想を思わせ、我々ーー悩み多き凡俗である我々に、慰めと救いの手を差しのべている。ここで言われる「超越者」を「神」と言い換えれば、ヒルティの思想にはキリスト教的な抹香臭さが漂う。その一歩手前で「寸止め」をしているところがヒルティのヒルティたる所以(ゆえん)だろうか。
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官僚は何のために

2020-12-23 11:53:36 | 日記
サイト「日刊ゲンダイ」に掲載された記事《NHKは日本学術会議の問題は既に終わったと考えているのか》を読んだ。内閣府の官僚が書いた文書(これには「日本学術会議法第17条による推薦に基づく会員の任命を内閣総理大臣が行わないことの可否について」という長々しいタイトルが付けられている)が、何度も修正を施され、A4判で1000枚を越える膨大なものになっているという。これは「菅総理が、推薦された6人を任命しなかったことを正当化するための文書」であり、正当化のための「後付けの理由」をひねり出すために、何度も修正を施されたからだという。

ご苦労なことだ。内閣府の官僚は、自分に課せられたこうした仕事に辟易しているに違いない。

だが、それにしても、霞が関の官僚は一体何のために、こうした仕事をしているのだろうか。ガースー総理の暴挙をーーその軽挙妄動をーー、誰に対して正当化するために、つまり誰に納得してもらうために、こうしたアドホックな大量の修正文書を書いたのだろうか。

それを理解するには、ガースー総理がなぜそのような暴挙に出たかを押さえておく必要がある。記事によれば、この暴挙は「知識人を叩くことは庶民から喝采を受けるという計算」から出たものだった。「独裁国家が最初に民衆の支持を得るために叩くのは知識人だ。私たちは今、そうした道へ向かっている」と記事は書く。

内閣府の官僚がこうした意図に沿って問題の文書を書いたのだとしたら、「内閣総理大臣の任命権が全く形式的なものであると解することは適当ではない」とか、「内閣総理大臣は日本学術会議から推薦された候補者を任命しないことができると解することが適当である」などと、まだるっこい文言を書き連ねる必要はなかったはずだ。ガースー総理を擁護しようとする各種メディアが書くように、「日本学術会議は日本のためにならない。国家の予算を使いながら、反国家的な言動が目立つ問題の組織だ」などと書けば、それで済んだはずである。

ガースー総理の暴挙を正当化する数々の文書は、庶民に向けたものではないのではないか。そうではなく、一連の膨大な文書は、(カントの用語を使えば)「理性的世界市民」に向けて書かれたものではないのか。

そうだとしたら、日本の官僚は、(庶民を扇動して独裁国家への道を歩もうとする)ガースー政権とは最初から立場を異にしている。「理性的世界市民」を強く意識し、その立場にたつ官僚組織がある限り、わが日本もまだ捨てたものではなさそうだ。

それにしても、戒めるべきはむしろ己れ自身である。きのう私は、庶民に迎合しようと考えなかっただろうか。私はきのう本ブログで若手研究者の窮状を告発し、この窮状を作り出した政府の予算措置を批判した。その限りでは、私は「庶民」ではなく、研究者という「知識人」の側に身をおいている。そうしたスタンスで書いたきのうのブログ記事が受けなかったから、私はもっと「庶民」寄りのスタンスで今後のブログ記事を書くべきなのかな、と思案したりしたのである。

凡俗の私は悲しいことに、読者の反応が気にかかる。「いいね!」をポチしてくれる人がいれば嬉しいし、いなければガッカリする。きのう私のブログを読みに訪れてくれた一人にAさんがいる。このAさんは秀逸な文章の書き手で、Aさんの書くブログを私の方もほぼ毎日閲覧しているのだが、このAさんは結局、私のきのうの記事に「いいね!」をポチしてくれなかった。Aさんは大学院や研究の世界には無縁の人だから、きのうの私の記事内容はAさんの共感を得られなかったのだろう。そして私は思ったのである。Aさんの共感が得られるような、もっと「庶民」寄りのテーマを取り上げたほうが良いのかな、と。

だが、きょうの「日刊ゲンダイ」の記事を読んで、「庶民」の立場から距離をおくことの必要性に私は気づいた。「庶民」の立場か、それとも「知識人」の立場か、ーーその間で、私は揺れている。
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同情するならカネをくれ!

2020-12-22 13:41:09 | 日記
おととい日曜日のことになる。NHKスペシャル「パンデミック激動の世界」を見た。以下のような内容だった。

(1)コロナ・ワクチンの開発で、日本の研究はアメリカや中国に後れをとり、英仏などヨーロッパ諸国にも追い越されている。
(2)その原因として、日本の大学における貧弱な研究環境があげられる。
(3)日本の大学が優秀な人材を充分に確保できていないからだが、それは人件費が圧倒的に不足しているからである。
(4)日本の大学が予算を充分人件費に割けないのは、国からの運営費交付金が削られているからである。

(1)から(4)までの見解が一々どれほど確かなのか、突っ込みどころ満載だが、全体としてのこの番組の主張は、「日本の医学研究がコロナ禍で満足した成果を出せないのは、国が研究予算をケチっているからだ」というものだった。

この番組の趣旨からは若干離れるが、国の対策がお粗末で若手の研究者が育たない現状は、私自身が身をもって見聞している。私の場合は文系(人文社会系)だが、大学院の博士課程を修了しても若手が研究職にありつけない苛酷な現状があり、この現状は理科系の場合はもっとひどい。理系の若手研究者は、ドクター課程を修了した後、「ポスドク」と呼ばれる期限付きのポストに何とかありついて、その後、同様の期限付きポストを転々と渡り歩くことになる。彼らは安定した環境で、落ち着いて研究に専念することができない。その不安な気持ちは、私自身が40年ほど前、ほんのちょっと経験したことがある。

2、3ヶ月前のことだったか、ガースー首相が日本学術会議の人選にいちゃもんをつけて、「これは学問の自由を奪うものだ。けしからん」と騒がれたことがあった。「学問の自由」がない現実に日々辟易している若手研究者たちは、インテリ・ジャーナリズムや野党議員のこうした政府批判の言い種を聞いて、苦笑せざるを得なかっただろう。日本学術会議のメンバーはいわば勝ち組、自分たちはスタートラインにもつけない惨めな負け組なのだ。

「同情するならカネをくれ!」。これは25、6年前にヒットしたテレビドラマ「家なき子」で、ヒロインの安達祐実が口にしたセリフだが、このセリフを心の中で叫んだ若手研究者も少なくなかったはずだ。

NHKスペシャル「パンデミック激動の世界」は、若手研究者の苦しい現状に光を当て、彼らのクレームを代弁した点で、好感が持てた。もっとも元文部大臣・有馬朗人の生前の与太話は余計だったけれどね。
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しばれる夜の脱出記念日

2020-12-21 16:22:43 | 日記
きょうエアコンを取り付けてもらうべく、電気屋さんに来てもらった。訊けば、今までのエアコンは8畳用だという。それじゃあエアコンが効かないのも尤もだ。私の部屋は12.5畳ある。

え?そんなに広いの?と驚く人がいるかもしれないから、簡単に事情を説明しておこう。私が寝起きしているこの部屋は、もともとわが家を新築したとき、私が両親を引き取るために作った部屋だった。私は長男だから、ゆくゆくは年老いた両親を引き取って、老後の面倒を見なければと思ったのである。8畳の和室と、4.5畳のダイニングキッチン。この二部屋を両親にあてがい、それで二世帯居住をするつもりだった。

結果からいうと、両親は正月に泊まりにくる程度で、結局この部屋に住むことはなかった。元気だったこともあるが、まず父が衰え、母が「私も歳だから、(老いた夫を)一人では世話することができない」と言い出したので、親子して対応を協議した。そろそろわが家に引き取る時期かな、と思ったが、父は有料老人ホームに移ることを希望し、譲らなかった。その有料老人ホームの具体的な固有名を口に出したりもした。前々からこの老人ホームに移ろうと決めていたらしい。

私は父の意を体して、その老人ホームへ居住契約の交渉に行き、その最中に脳出血で倒れた。父はその老人ホームに移り住んで、1年も経たずに亡くなった。母はその老人ホームで今も(認知力以外は)元気に暮らしている。

さて、それからは事態の推移に合わせて、ごく自然に( let it be ; 成り行き任せで)事は進んだ。私は脳出血で倒れてからリハビリ病院に転院し、半年ほどで退院して自宅に戻ってきた。戻るに当たって、両親のために用意していた8畳の和室を(車椅子でも使えるように)フローリングの洋室に改築し、4.5畳のダイニングキッチンとの間をぶち抜いて、バリアフリーの居室にしたのである。手配は妻に任せた。

かくして私の居室は12.5畳の洋室になったのだが、エアコンだけは古いままだったので、キャバ不足になってしまったのである。

私がこの家を建ててから、かれこれ30年がたつ。上のような経緯のあれやこれやを思い返すと、「8畳の和室+4.5畳のダイニングキッチン」から「12.5畳の洋室」へと変貌したこの部屋は、ここ30年間のわが〈ファミリー・ヒストリー〉の生き証人のように思える。

昼過ぎから始まった新しいエアコンの取付工事は、2時間ほどで終わった。このエアコンは18畳用だから、キャパは充分である。

このエアコンの真価は、今夜になってわかるだろう。もう寒くてブルブル震えることはなさそうだ。そう思うと、今からワクワクする。

聞けば北陸と東北地方の日本海側では、きょうも相変わらずの大雪とか。とても信じられない気がする、暖かいきょうの午後である。
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