ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

夢の中から

2020-02-13 10:31:33 | 日記
最近は時々、おかしな夢を見る。アスファルトの上を、すたすた歩いている自分の夢である。歩けているのだ。え? おかしいな。そんなはずはない。私は左半身が麻痺していて、自由に出歩けないはずだ。・・・あ、これは夢なのか。そうだ、夢なのだ。

そう気づいて、おっかなびっくり片脚を前に出してみる。そして反対側の脚も。案の定、足もとがふらつく。でも、初めこそぎごちなかったものの、徐々に普通に歩けるようになり、そして長い距離をすたすた。すたすた。すたすた。おっ、歩けるじゃないか。歩けるようになったぞ!

そこで目が覚める。ああ、やっぱりこれは夢だったのだ。現実の世界には、寝返りも満足にうてない自分がいる。これが現実なのだと思う。打ち消したくても、打ち消せない厚い壁のような現実がある。

昨夜、テレビでNHKの「ためしてガッテン」を見た。「ぐらつきや転倒の原因は『小脳力』の衰えだから、転倒防止のために『小脳力』を鍛えるトレーニングを」という内容で、手軽なトレーニングの方法が紹介されていた。これは簡単なエクササイズだが、継続するのは難しそうだ。継続は力なりという。ものは試しで、あしたからでもチャレンジしてみようかと思う。

夢の話に戻る。歩けるようになっている自分の夢とともに、最近よく見るのは、現役の頃の自分の夢である。具体的な状況は伴わない(覚えていない?)が、ライバルの同僚への敵愾心やら、ジェラシーやら、蹴落とされまいとする焦りやら、嫌な感情の渦巻きの中で目が覚める。授業に向かいながら、何をしたらいいか判らず、何番の教室に行ったらいいかも判らずに、狼狽えている自分を夢に見ることもある。そんなときの自分は、当然のことのように歩けているし、歩けている自分を不思議に思うこともない。それ以上に、嫌な感情にとりつかれ、苦しい思いをしている。

歩けるけれど、嫌な感情にとりつかれている夢の中の自分と、リタイアして、そういう感情からは無縁になったけれど、自由に歩けないでいる現実の自分と。さて、おまえはどっちの自分を望むのだ、と問われたら、やっぱり、嫌な感情から解き放たれた、今現在の自分かなあ。感情の自由と、身体の不自由。それもまた悪くない。
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