ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

スポーツ選手が感謝の言葉とは

2024-08-11 11:15:05 | 日記
このところテレビをつけると、どのチャンネルでもパリ・オリンピックやら甲子園の高校野球やら、スポーツの中継ばかり。そしてメダルをとった選手や、試合に勝った高校球児は、判で押したように「感謝、感謝」の大合唱。「僕が/私がここまで来れたのは、僕を/私を応援してくれた皆さんのお陰です。僕を/私を支えてくれたチームメイトや、ファンの皆さんに感謝します。ありがとうございました」。

本心からとは思えない、こんな選手たちの薄っぺらな「感謝の言葉」を聞くと、私は八百屋や魚屋の「毎度あり〜」のお礼のあいさつを連想する。

まあいいじゃないか。試合に勝ったからといって天狗にならず、謙虚な姿勢で他人への感謝を忘れない。この気持ちはけして悪いものではない。
そう言う人も多いことだろう。だが、私がこうした「感謝、感謝」の大合唱に不気味さを禁じ得ないのは、そこに 前近代的な地縁共同体(Gemeinschaft )の匂いを嗅いでしまうからである。

恩と感謝の絆で結びつく、昔ながらのねちねちした地縁共同体。そこでは、「我が校には、甲子園に出場するための予算がありません。皆様のご寄付をお願いしま〜す」という、お願いもどきの半強制的な押しつけが、何の疑問もなく、当然の「お務め」のように受け入れられ、だれもがこの「ご寄付」に応じざるを得ない。

ビジネスの互酬関係とほど遠い、利益を度外視した滅私的な人間関係。そんな泥臭い「人間らしさ」に支えられながらも、選手たちはそんな足元のことは度外視して、あっけらかんと「毎度あり〜」の言葉を繰り返す。屈託なく演じられる商売人もどきのお礼の儀礼。そこに漂う偽物の匂いが、私はたまらなく嫌なのだ。

私は、それぞれの人の自由が最大限尊重される、近代的な共同体( Gesellschft )の佇まいを好む。選手の若者たちだってねちっこい血縁共同体の呪縛から解き放たれれば、もっと自由に羽を伸ばし、のびのびとプレーを楽しむことができると思うのだが。

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