「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

モノが見えていたからこそ、敵にもやさしかった信長!

2010年10月20日 | 信長論考!
おはようございます!

えー、秋です。

体重も増える秋です。まあ、おいしいものがたくさんあるんでねー(苦笑)。

にしても、朝、明るくなるのが、遅くなりました。

もう、5時半とかだと、真っ暗なんだよねー。

6時越えないと、明るくなって、きません。ま、しゃーないんですけどねー。

というわけで、このところ、朝練は中止で、ま、それも体重増加につながるわけですが・・・(苦笑)。


さて、水曜日の信長論考ですが、いやあ、なんだか、信長について考えるのは、楽しいですね。

僕は、これまでにも、信長や、秀吉、家康を俎上にあげてきましたが、いつも、思うのが、

秀吉や、家康というのは、この信長のやり方や思想、あり形を参考に自分の人生をつくってきた

人間だと、思えるんですね。信長が徹底して、日本の平和のために、論考しぬき、それを素直に実行していった

姿を間近で、見ていたからこそ、その思考の根拠というか、考えの方向性を学ぶことができた、

それが、最終的に、日本統一、平和化への道につながったんだろうと思います。

信長の希望が、秀吉、家康に受け継がれたと思っているんですね。


それを考えると、秀吉が、なぜ、織田家の天下を簒奪したのかも、わかります。


秀吉は、信長の天下統一構想こそ、受け継がれるべきだと、考えていた。

そして、その価値を織田家の人間は理解していたんだと思います。

これまで、秀吉の権力の大きさが、織田家では、同僚だった武将達を抑えていたのだと、されていましたが、

「信長の跡を継ぎ、天下統一してくれるのなら」

という気持ちを、同僚だった武将達が、持っていたからこそ、それを知っていたからこそ、

秀吉は、ああいう形になったんだと、思いますね。そういう観点が今まで語られてこなかったと思うんです。

そういうあたりも、これから、明らかにしていきたいですね。


さて、前回、信長の前に、信行が反信長勢力として、現れたことを書きました。

そして、信長の元には、能力のある人間が集まり、信行の周りにはだめだめ君が集まったことを指摘しました。

そうなれば、当然、信長方は、勝ちますし、それを見越した、信広は、信行の元にはいかず、自分なりの戦略で、信長にそむきますが、

失敗し、以後、信長の忠実な部下になったことも書きました。使える人間は、使う人間ですから、信長がいかに人材を欲していたか、

人材の有用性を理解していたか、がわかる話ですね。


さて、とうとう時代は、永禄元年(1558年)に入ります。このとき信長25歳です。

前年、信行の謀反が8月に起こったわけですが、信長は、再度様子を見るために、信行を許し、信行側にて戦った柴田勝家、林秀貞を許しています。

もっとも、信長からすれば、反信長勢力を見極めたいという心づもりがあったと思います。それは多分、信行の能力を見切っていたからだと思います。

信行が謀反を起こしたところで、一度、信長に負けを喫しているし、普通に信行の能力を信長が見たとき、この人の能力を見分けるに秀でた若者は、

「こいつは、俺の敵にはならんな」

と、見切ってしまったんでしょう。だから、一度は、許し、敵の再結集を待ったのだと思います。

一度目で討ち取るのは、兄として、将として、外聞も悪い。だが、一度許せば、二度目は、当然死を賜える。さらに敵側は、一度目に失敗していますから、

焦っていて、足並みも乱れている。そこをつけば、容易に倒せると、信長は、踏んでいたんじゃないでしょうか。非常に謀略の才に富んでいる。

というより、論考者信長は、それくらい、容易にモノを見ることができた、と考えるのが、自然でしょうね。


信長は、まず、3月7日、今川義元の武将、松平家次の守る尾張品濃城を攻めますが、敗北しています。

これは、尾張統一策のひとつとして見ていいでしょう。まあ、失敗したんですね。


5月に、岩倉城主、織田信安が、子の信賢に追放されています。そして、美濃の斎藤義龍と結んで、反信長姿勢をとるわけです。

これは、前年、信広がとった手とまるきり同じです。


それに対して7月12日、信長は、犬山城主、織田信清と共に、この信賢を攻めて、平原の合戦で、撃破します。

まあ、徐々に敵をあぶり出し、戦う時は、味方勢力と連合し、数的優位を常にとり、各個に撃破する。

勝つ戦いを推し進めているのが、信長なんですね。

よく合戦というのは、すでに、その合戦に出る前に勝敗が、決まっているのが上策と言われますが、

信長の戦い方は、すべてこれですね。有力勢力との連携が、常にある。

それに対して、反信長側は、斉藤家との連携を図るも、結局、孤立し、各個撃破されている。

典型的なダメパターンなんですよね。

このあたり、勝ちパターンを一度確信したら、常にそれを愚直なまでに、適応する信長のすごみが、見えている感じですね。


さて、11月2日、とうとう、あの信行が、岩倉城主織田信賢と密かに結ぶわけです。まあ、反信長勢力なんだから、

結ぶ方が得策なんですけど、これを柴田勝家が、信長に密告するわけです。


さて、この勝家の密告について、考えてみたいんですけど、なぜ、勝家は信行を売ったのか。


前年、彼は信長にではなく、信行について、戦ったわけです。そして、信長の戦のうまさ、実力を知ったのでしょう。

それに対する信行のだめだめぶりも、肌で感じたはずです。そのときに、勝家は、死も覚悟していたはずです。主君への謀反ですからね。

そこまでして、かけた信行のだめさ加減、信長の英雄的行動、これを見たから、勝家は、信長支持に変わったんだと思います。

それに一度命を助けられた恩も信長にある。信行には、あわや殺されかけたわけですから、考えが変わるのも、実は当然だったりするわけです。


この結果を考えると、信長は、信行側にいる、「使える人間」が、欲しかったということになります。

自分の考えている

「日本平定計画」

には、人材が多量に必要だ、ということは、信長には、わかっていたのでしょう。使えない人間は、いらない。

使える人間は、自分の元にたぐりよせ、一度、謀反したくらいでは、軽々に殺さず、日本平定計画の執行者になってもらう。

つまり、すべては、この日本平定計画があったからこその発想なんですね。

日本平定計画に使えるのか、使えないのか。そして、じゃまになるのか。

使えなければ、いらない。撃破しようが、殺そうがかまわない。

信長の頭の中の、意思決定システムとして、これが、機能していたことが、だだわかりになります。


そのシステムは勝家を有用な人間として、選びだしていたのです。だから、謀反の過去がありながら、登用の決定がすでに信長の中にあったのでしょう。

それを勝家も敏感に感じ取っていたのかもしれませんね。


そして、その情報を得た信長は、またもや、謀略にて、兵を損耗しない形で、病気と称し、信行を誘殺しています。


なぜ、信行は、誘殺されたのでしょう。


まず、ここまで、反信長勢力の戦い方を見ていると、その最大の勢力は、今や、信行を中心とした勢力であり、それに信賢が、連携しているに

過ぎない、ということがわかります。だから、扇の要である、信行を取り除けば、あとは、信賢くらいなんですよね。

さらに、信行の元には、織田家の実力のある家臣がいる。それをごっそり手にいれるには、信行だけを取り除けばいいわけですから、

そういう材料から考えれば、自然と、信行だけを殺す→誘殺という結論が導きだされるんですね。


これ、そういう諸状況がわかっていれば、信行がもし、一角の武将であれば、のこのこ殺されにいかないでしょう。


つまり、このことからも、信行がだめだめ君だったことが、証明されてしまうんですね。


というわけで、信行配下の武将も、吸収した信長は、さらに勢力を拡大したわけです。

そして、尾張の反信長勢力の織田は、岩倉城に籠る信賢勢だけになったわけです。


信秀が死んだのが、天文二十一年(1552年)のことですから、永禄元年(1558年)のこの時までの6年余で、尾張統一間近まで、持ってきているんですから、

信長のすごさがわかります。なにしろ、この時点で、まだ、25歳ですからね。

大学一年生くらいから、組織のトップに君臨し、殺るか殺られるかの世界で、血のつながった古狸達を、謀略にかけ、次々と敵をあぶり出しては、

味方勢力と連携し、これを各個撃破。そして、敵側についた人間でも、使える人間は、使うやりかた。

これ、後年、秀吉が用いた方法ですが、既にこの時点の信長に現れているんですね。これ、後年、松永久秀を、殺さずに使ったやり方と一緒で、

信長は、敵にやさしい部分があることが、指摘できるんですよ。


こう、信長といえば、敵は全滅させなければ、気が済まないみたいな、描き方をされることが多いですけど、

こうやって、事実を見ていくと、決してそうじゃないことがわかるんですね。


あれは、一向宗に用いた根切りの戦法が、信長の通常の性格を現したもの、と、勘違いされているからですね。


信長は、人材を大切にした、そして、それを欲しがった。


だから、一度敵になった人間でも、人材であれば、味方にした、日本平定計画のための、人材としたんです。

大望があったからこそ、簡単に、判断ができたわけですね。


さて、そうやって、永禄元年は、終わるわけですが、永禄二年(1559年)信長、26歳の年、信長は、上洛するわけです。

日記「言継卿記」には、

「尾州より織田上総介上洛云々、五百ばかりと云々、異形者多しと云々」

とあるそうで、異形者多しとは、その信長の人材好きが現れていると見るのが自然ですね。

いろいろな人材が信長の周りにいた、ということでしょう。


そして、このとき、信長は、将軍足利義輝への謁見が目的だったそうです。

「まあ、尾張もほぼ統一したし、じゃあ、将軍からお墨付きでも、もらっておこうか。これ、使えるし!」

というところでしょうか。


非常に正統な段階を踏んでいる、と感じられますね。


非常に正統な武家のルールを尊守しているわけで、破壊者としての信長は、まだ、見られないんですね。


そして、この時、信長に対して、斎藤義龍が狙撃者を送ったという有名なエピソードがありますが、これは、失敗に終わったそうです。

まあ、お供衆を80人も連れているというし、まあ、現実的には、無理だったんでしょう。

ま、将軍謁見のあと、京、奈良、堺の見物に行ったとしていますから、鉄砲を装備している信長軍ですから、

堺の豪商あたりとのコンタクトもあったんでしょうね。そして、堺では、いろいろな文物に触れたんだと思います。

そして、西洋の文明の存在と、それらの素晴らしさを素直に吸収した・・・んだと思いますね。


異国の文明に触れた時、ひとには、二つのパターンがあると思うんです。


そうですね。例えば食べ物を例にとりましょうか。

すごいやつ・・・そうですね、タイの一部では、タガメを食べます。天ぷらで食ったり、生でも食べるんじゃなかったかな。

これ、どうです?

「こんなの、ありえん」

と、最初から拒否するか、

「まず、食ってみてから・・・」

と、試し食いして、

「まずい」あるいは「これ、なかなか、いけるじゃん」

となるのか。


信長は、後者のパターンであったことが、明白です。

そして、西洋の文明には、日本より、進んだものが多々あり、信長の日本平定計画に使える!と思える文物が多々あったんだと思いますね。

だから、信長は、実用性ということで、西洋の文物を多く取り入れていたと考えられるわけです。


ただ、おしゃれだから・・・まあ、そういうこともあるかな・・・おしゃれも、戦国武将にとっては、大事な要素ですからね。

敵を威嚇したり、将として立派に見せたり、遊びじゃないんですね。

近年、よく欧米で、日本の戦国武将の甲冑展示会が模様されていますが、非常に、盛況なようです。

やっぱり、デザインの美、というのは、時を越えて、国を越えて、訴える力をもちますからね。

その中でも、信長のファッションは、実用的でありながら、美しさも兼ね備えている・・・彼には、よくモノがみえていた、という傍証になりますね。


さて、そんな楽しい堺から、帰国した信長は、尾張統一の総仕上げとして、最後まで残った反信長勢力、岩倉城を攻め、

三ヶ月の籠城の末、信賢が、城を明け渡したことで、落城。破却されました。


ここに、信長の、尾張統一が、成ったわけですねー。いやあ、信秀の死から、7年での尾張統一。すごいもんですねー。


ここまでの信長を見てくると、非常に、正統な手順の踏み方をしているように思えます。

敵をあぶりだすと、味方勢力と連携し、各個撃破。常に勝てる準備をしてから、戦うことを徹底しています。

さらにここぞ、というところでは、謀略を使い、味方兵及び敵兵の損耗さえ、回避している。

そして、敵すら、人材であれば、登用するおおらかさも見える。


信長は、日本平定計画のために、多くの人材を求めたが為、そういうあり方になっていたんですね。


それが、信長の元へ、人材を引き寄せることになった。それが、結果、日本平定計画の進行になったわけですから、

大目標をまずおいて、行動することの意味が、ここに、存分に表れていますね。


うん、おもしろいですね。信長は。


この頃の信長は、やる気に満ちていたと思いますね。

とにかく、論考し、事実をガンガン引き寄せている。そういうあり方は、やはり、いろいろ論考し、事実を引き寄せていった龍馬につながります。

論考しまくって、社会に、正当な手続きをすれば、望みの事実が引き寄せられる、ということは、この二人に教えてもらったことですからね。

そのあたりの論考者、信長の醍醐味が、ガンガンでた、今回になりました。

おもしろかったですね。


今日も長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう。


ではでは。

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