さて、その時、僕と雑誌記者のレイカちゃん(31)は事務所の大部屋で、コーヒーを飲んでいました。
レイカちゃんは新聞を手にして、僕に尋ねてきます。
「この話、ひどくないですか?ベルギーのリェージュ劇場のロゴマークをデザインしたオリビエ・ドビ氏(52)は」
「「東京五輪のエンブレムのデザインは、自身がデザインした、リェージュ劇場のロゴマークを基にデザインされている」と断定し」
「ベルギーのオリンピック委員会とも協議し、7月31日中にもIOCに対して、東京オリンピックのエンブレムの使用差し止めを求める書簡を」
「提出する・・・この話、ゆるちょさんはどう思われます?」
と、レイカちゃん。
「ははは。頭の悪い人間はすぐに馬脚を表すと言ういい例だろうね。ちょっと笑ってしまったよ」
「まあ、いい、真面目に話すか・・・少しは楽しませて貰えそうだ」
と、僕は、コーヒーを少しだけ口に含んだ。
「一応、言っておくけど、僕は高校生の頃・・・「千葉大に行って、工業デザイナーになろうかな」と思った過去がある」
「実際、高校の美術の教師とも相談して・・・月刊アトリエと言う美術雑誌を買い、デザインのモチーフ集も買ったりした」
「・・・僕はそのモチーフ集を見てがっかりしたんだ。例えば季節のモチーフ集には、春、夏、秋、冬の季節をモチーフにした」
「様々なデザイン集が乗っていた。夏の海のモチーフだけでも、数百種類あって」
「「デザイナーとは、ここにあるモチーフ以上のデザインを考えつかなければいけないのか・・・」」
「「その発想力は僕には、ないな・・・」と考えて・・・すぐに挫折したんだけどね・・・」
と、僕。
「そんな過去があったんですか、ゆるちょさんに・・・」
と、レイカちゃん。
「ああ。当時、ちょっとくらい人より絵が上手いくらいじゃ、芸大に行っても埋もれてしまうだろうな・・・って思って」
「芸大進学を諦めた頃だったから・・・それに近い世界で生きられるんじゃないかって、安易な道を模索していたんだろうね」
と、僕。
「で、だ・・・当時、もちろん、アルファベットのモチーフのデザイン集も見てた・・・」
「まあ、もちろん、なんだけど、例えばTをモチーフにしたデザインだって、百以上あったし」
「その中には、オリビエ・ドビ氏がデザインした、リェージュ劇場のロゴマークにそっくりなモノもあった」
「もちろん、もう、昔の話だけどね・・・」
と、僕。
「つまり、ここで大切なのは、同じモチーフを基にしたデザインであれば、単純に似てくると言う、当たり前の現実を」
「指摘しておきたいんだ」
と、僕。
「じゃあ、もしかすると、オリビエ・ドビ氏も、その月刊アトリエのデザイン集をパクって、リェージュ劇場のコンペに」
「応募したって事も・・・」
と、レイカちゃん。
「ははは。僕はそう考えないよ。僕は、ほんの短い間だったけど、工業デザイナーと言う職業を目指した人間として」
「同じデザイナーの・・・第一線で活躍する人間を普通にリスペクトしているからね」
と、僕。
「それはレイカちゃんだってわかるんじゃない?レイカちゃんは同業他社の記者ともお酒を飲んだりするんだろ?」
「それは記者と言う職業についている自分へのプライドでもあり、その裏返しが同業他社の記者へのリスペクトにつながってる」
「からでしょ?」
と、僕。
「はい。そうですね。実際、尊敬出来る記者さんはこの業界にたくさんいますよ」
と、レイカちゃん。
「本来、同じ職業についている人間に関して言えば、自分にプライドがある限り、そういうリスペクトの気持ちが自然と」
「作られるもんさ・・・だが、どうだい。このオリビエ・ドビ氏は、この東京オリンピックのエンブレムの生みの親、佐野研二郎氏に対する」
「リスペクトは一切無い。だいたい・・・デザインの世界でしのぎを削って生きてくれば、同じモチーフを使えば、似たようなデザインが出来上がると言う」
「デザイン会のごく当然な事実は、理解しているだろう。なのに、オリビエドビ氏の今回の行為は、この事実を完全に無視している」
と、僕。
「確かに、そうですね」
と、レイカちゃん。
「同じモチーフを使ってデザインすれば、似通ったデザインになる・・・この当然の事実は、それは配色が似ていると指摘されたスペインのデザイン事務所の」
「ポーラ・アブドゥル氏も「似たのは偶然」と指摘している事でも、わかるはずだろう?」
と、僕。
「そうですね。それはわかりますね。このエンブレムは、東京の「T」、日本を意味する日の丸の紅くて丸い・・・日の丸そのもののモチーフから」
「構成されていますからね・・・」
と、レイカちゃん。
「リェージュ劇場はTHEATERのTをモチーフにしたデザインだろう?似てくるのは当然の話さ。モチーフが一緒なんだから」
「問題はその点では、無くて、なぜ、オリビエ・ドビ氏が、佐野研二郎氏に対する、リスペクトも無ければ・・・デザイナーとすれば、最大の恥辱とも言える」
「「盗作者」と認定したか?にある」
と、僕。
「東京オリンピックのエンブレムの認定作業のあらましを教えてくれないか、レイカちゃん」
と、僕。
「えー。そのコンペに出られる人間からして、ハードルがありますね。デザイナーとして、二つ以上の賞を受賞していなければ、エントリーすら出来なかったようです」
「つまり、デザイン界でも、認められた優秀なデザイナーでなければ、元々、コンペにすら出られない・・・かなりハードルの高いコンペだったようですね」
と、レイカちゃん。
「さらに言えば、エンブレムを選ぶ人間も重鎮の方々・・・その錚々たる人間達が何回も分けて選出を繰り返し、最終的に選ばれたのが佐野研二郎氏のデザインだったようです」
「その後、世界の商標確認の作業があり、それをパスした事で、東京オリンピックのエンブレムとして、佐野研二郎氏のデザインが正式に採用された」
「・・・そういう話のようですね」
と、レイカちゃん。
「じゃあ、リェージュ劇場のコンペは・・・それ程の規模のコンペだったんだろうか?」
と、僕。
「まあ、推測ですけど・・・当然、それよりは、小規模のコンペだったでしょうね」
と、レイカちゃん。
「オーケー。その一言が聞きたかったんだ」
と、僕。
「今回の事件には、大きな謎がある。デザインの世界で一線で戦っているオリビエ・ドビ氏が、エンブレム選出に膨大な時間もかけ、そのエントリーにすら、高いハードルのある」
「コンペの存在に気づかないのか・・・あるいは、意図的に無視しているのか?・・・そういう問題だ。リェージュ劇場のロゴ選定のコンペだって」
「相当熾烈だったはずだ。最後に複数残った、競争相手のロゴが、Tをモチーフにしたモノだったら、似たデザインになるのは、ここまで第一線で戦ってきた」
「デザイナーのオリビエ・ドビ氏なら、簡単に理解出来るはずだ」
と、僕。
「確かにそうですね。さらに言えば、東京オリンピックのエンブレムのコンペがリェージュ劇場のロゴ選定のコンペより、規模が大きい事も理解しているはずですよね?」
と、レイカちゃん。
「つまり、オリビエ・ドビ氏は、知らないんじゃない・・・知ってて意図的に無視しているんだ」
と、僕。
「さらに言えば・・・オリビエ・ドビ氏は同じ職業に就いている佐野研二郎氏に当然持つはずのリスペクトも、一切持っていない」
と、僕。
「それは何故ですか?」
と、レイカちゃん。
「それは彼の言葉にヒントがあったよ。彼はこう言ったんだ。「最初は、地球の裏側にいる人間が、わたしと同じ発想をしたのかと思ったんだ・・・」と、ね・・・」
と、僕。
「地球の裏側?」
と、レイカちゃん。
「地球の裏側にいる得体の知れない誰か・・・佐野研二郎氏の事を彼はそういう意識で見ているんだよ」
と、僕。
「得体の知れない誰か?・・・え?それじゃあ、佐野研二郎氏の事を同じ人間として、見ていないって事ですか?オリビエ・ドビ氏は・・・」
と、レイカちゃん。
「そういう事だ。彼は、佐野研二郎氏の事を同じデザイナーとして、リスペクトもしていないばかりか、人間の尊厳すら認めていない」
「もっと言えば、だ。ヨーロッパ人が過去、為政者から、血を流しながら、勝ち取った権利、「基本的人権」さえ、認めていないんだよ」
「それは何故かわかるかい?」
と、僕。
「えーっと?」
と、レイカちゃん。
「ヒントを出そう・・・それは1241年、モンゴル軍がポーランド・ドイツ連合軍を叩きのめしたワールシュタットの戦いに端を発した思想さ」
と、僕。
「え?それって・・・ヨーロッパ人による、東洋人蔑視の思想ですか?」
と、レイカちゃん。
「さすがレイカちゃん、鋭いね。オリビエ・ドビ氏は、東洋人蔑視の思想があるからこそ、佐野研二郎氏に対する同業者としてのリスペクトも無いし」
「人間としての尊厳も認めていないし、基本的人権すら、認めていない・・・そういう事なんだよ」
「そう言われりゃ、これまでの事の謎がすべて解けるだろ?」
と、僕。
「そもそも佐野研二郎氏に対するリスペクトも人間の尊厳も基本的人権も認めていなくて・・・」
「東京オリンピックのエンブレムを選定するコンペがリェージュ劇場のロゴを選定するコンペ以上の大きな規模のコンペだった事も」
「優秀なデザインは同じモチーフであれば、似てくる事も、すべてわかっていて・・・その上で、佐野研二郎氏のエンブレムを使用禁止にしようとしているのは」
「オリビエ・ドビ氏に、東洋人に対する蔑視思想があったからなんですか!」
と、レイカちゃん。
「ま、オリビエ・ドビ氏は、その程度の人間だったと言う事だ。だから、相手の基本的人権すら、認めないような人間なら、その当人の基本的人権すら、認めなければ」
「問題はない。むしろ、問題なのは、オリビエドビ氏が、ベルギーのオリンピック委員会と相談した上で、今回の事をしでかしていると言う事実だ」
と、僕。
「レイカちゃん。オリンピックとは、どういう理念で行われている競技会かな?」
と、僕。
「世界の国や地域の人間が、差別なく平等に、スポーツで競い合える場・・・参加することに意義がある・・・そういう競技会です」
と、レイカちゃん。
「ね。おかしいだろ。「差別なく平等」こそ、オリンピックの理念なのに、ベルギーのオリンピック委員会は、東洋人蔑視の思想に彩らている・・・オリビエドビ氏に」
「上手く騙されたかどうかは別にして、相談した結果、今回の行為に出ているんだから、ベルギーのオリンピック委員会も罪は同じと言えるだろう」
「「差別なく平等」のオリンピックに関わるオリンピック委員会が、東洋人差別をしているとなると・・・こりゃ、国家レベルの大問題になるだろう?」
「IOCも捨ててはおけない大問題だよ・・・」
と、僕。
「そうですね。IOCは別にしても、苔にされたカタチの日本のオリンピック委員会も黙っちゃいないだろうし、下手すると政府レベルでのベルギー王国への抗議すら・・・」
と、レイカちゃん。
「日本政府はそんなバカじゃないさ。「損して得取れ」だ。ベルギーの顔を立てる替りに、ま、何か対応策の実施を迫るくらいのもんさ」
「外には見せないように、極秘裏に、ね・・・」
と、僕。
「もうひとつ、踏み込むとね・・・同業者の盗作を言葉にするデザイナーは、自分が盗作をした事があるから・・・同業者を盗作と決めつける事が出来る・・・」
「と言う言葉をどっかの本で読んだなあ・・・それはカン違いだったかな・・・」
と、僕。
「ゆるちょさんって・・・敵に回しちゃ、絶対にいけない種類の人間なんですね」
と、レイカちゃん。
「ベルギー人の恥は、ベルギー人が自身の手で回収すべき問題だろうね。僕はこれでもサイクリストだ。ベルギーチャンピオンジャージを着たトム・ボーネン選手が大好きだったし」
「毎年、春のクラッシックシーズンにある「リェージュ・バストーニュ・リェージュ」も大好きな大会だ」
「だから、ベルギー人が賢い事も同時に僕はよく知ってるんだ」
と、僕。
「だいたい佐野研二郎氏のデザイナーとしての華やかな経歴を見てご覧よ。LISMOにリボーンにニャンまげに・・・素晴らしいデザイナーの仕事をしている」
「才能ある人間だって事は、この経歴を一発でわかるだろう?そんな人間が盗作をするかな?」
と、僕。
「そうですね。この経歴なら、東京オリンピックのエンブレムのデザインに行き着くのは・・・頷ける話ですよ」
と、レイカちゃん。
「だから、ま、ベルギーオリンピック委員会が、書簡を提出したと言う事なら・・・後はIOCのやり方を見守ればいいんじゃないかな」
と、僕。
「でも・・・東洋人蔑視の思想は、「差別なく平等に」を旨とする、IOCには受け入れがたい思想ですよ」
と、レイカちゃん。
「僕もそう思うよ。・・・さ、レイカちゃん、昼飯、食べに行こう!」
と、僕はレイカちゃんを連れ出し、8月の街に飛び出した。
(おしまい)