goo blog サービス終了のお知らせ 

ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

教養とは「知の構造」だ

2016-11-15 07:52:40 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「知識がなければ」11月8日
 専門編集委員玉木研二氏が、『教養とは何か』という表題でコラムを書かれていました。その中で玉木氏は、五日市憲法についてのエピソードを取り上げ、『(講談会に)参加制限はなく、近隣や遠方からも集まり交流した。参加者は必ず意見を述べる決まりだ。知識を深めるため本を備え、自由に読んだ』『講談会の熱さや旺盛な知識欲も興味深い』などと書かれています。
 玉木氏は最後に、『「教養」とは単なる物知りではないことを示唆する史実』と五日市憲法にまつわるエピソードを総括していらっしゃいます。玉木氏は「知識を深める」ことの大切さを説き、「旺盛な知識欲」を評価する一方で、「単なる物知り」には否定的です。一見すると、物知りの否定は知識の否定を誤解をされかねませんが、玉木氏は両者を峻別しているのです。
 このことは、「ゆとり教育」を巡る議論と共通な部分があります。ゆとり教育については、知識が軽視されているという捉え方がありました。それは誤解なのですが、誤解の方が広く世間に流布してしまいました。ゆとり教育の本来の狙いは、時間的なゆとりの中で、子供が自らの知識欲に突き動かされて主体的に仮説を立てて調べ、その結果に基づいて仮説を修正しまた調べるという過程を繰り返すことで、知識を深め、本当に役に立つ知の構造として獲得していくということだったのです。
 知の構造とは、玉木氏のコラムで言えば教養に当たるものだと言ってよいでしょう。ゆとり教育は世間の誤解によって否定されました。その代わりに力を得てきたのが、知識注入の復活では、かつての失敗の繰り返しに終わってしまう可能性が高いと思います。
 知識を得ることを否定的に見るのではなく、かといって詰め込まれた知識の量を競うのでもなく、単なる情報に過ぎない個々の知識を、物事を考え判断するツールとして役に立つ知の構造に作り上げる教育、日々の授業こそ学校教育に求められていることを忘れてはなりません。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする