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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

なんでも道徳で

2016-11-19 07:21:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「道徳心」11月12日
 秋山信一記者が、『初めての日直』という表題でコラムを書かれていました。エジプトで日本式教育が導入されているという話です。私はこのコラムで、「我が国の優れた義務教育」は、諸外国、特に発展途上国にとっては役に立つツールであり、それこそ「クールジャパン」の一翼を担うものとして積極的に「輸出」すべきだと主張してきました。
 何を突飛なことを、という意見もあるかもしれませんが、実際に今年に入ってそうした試みがいくつか紹介されることもあり、我田引水と言われるかもしれませんが、「先見の明」に自己満足していたところです。今回のカイロでの事例もその一つとして、興味深く読みました。
 ただ、一つだけ違和感を覚えた部分がありました。『シシ大統領が「若者の道徳心を育てたい」と日本政府に協力を要請し、エジプト全土で12の小中学校がモデル校になった。教室やトイレの清掃、せっけんでの手洗いなど、授業とは直接関係のない部分から変革は始まった』というくだりです。
 もちろん、エジプト側の思惑についてどうこう言おうというのではありません。我が国の新聞に、若者の道徳心→教室やトイレの清掃という図式で記述されることへの違和感です。現在、我が国の学校教育においては、道徳教育に対する関心が高まり、教科化が進められています。道徳教科化自体には賛否両論あり、私も意見をもっています。そのことについてはこのブログでも十数回は取り上げてきているのでここで繰り返すことはしません。ただ、今回の記事の記述が、道徳心という概念に間違った先入観を植え付ける可能性があると懸念するのです。
 端的に言えば、清掃→奉仕→滅私奉公=道徳心というような連想を基に、道徳が語られることに力を貸すことになるのではないか、ということです。これは道徳を戦前の修身の復活と同一視し、道徳教育に反対してきた「古い左翼」的な時代遅れの反発を復活させ、道徳論議を不毛なものにしてしまうのではないか、と懸念するわけです。
 また、道徳教育充実が叫ばれる中で、副読本を読んで感想を話し合うようなタイプの授業ではなく、体験的な学習活動の重要性が注目されるようになってきています。そんな中で、教室清掃やトイレ清掃に注目が集まり、これらを道徳教育の中核に据えるような動きが強まると、教室清掃、トイレ清掃、学区域の清掃活動、ゴミ拾い活動などと拡大し、先人や偉人の苦労や苦心に触れ感化を受けるという道徳教育に不可欠な部分が軽視されていってしまう危険性があるようにも思えます。
 清掃活動は特別活動の領域に分類されます。学校教育は、教科・特別活動・総合的な学習の時間・道徳などがそれぞれの狙いをもち、その狙いを達成し、達成度を評価する中で総体として子供の成長を支えていくものです。安易になんでも道徳に取り込んでしまうのは、望ましいことではありません。それは教科・領域の垣根を超えた指導で効果を高める合科的指導とは似て非なるものであることを忘れてはならないのです。

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