ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

その優しさの結末は

2016-11-23 07:51:25 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「マナーは有害?」11月15日
 作家金原ひとみ氏が、『排除されていく私たち』という表題でコラムを書かれていました。その中で金原氏は、『電車内での化粧、ベビーカー、携帯、飲食、などがマナー違反であるという指摘』がなされる現状に触れ、『まず社会があり、人々がそれに合わせる。併せられない者は排除。結局マナーを口実に維持される清潔な社会は、多数派にとって生きやすい社会でしかない』と問題提起なさっています。
 さらに、『(誰しもが)永遠に多数派であり続けるなど不可能』という真理を提示し、『マナーという偏見と排除に基づいた社会を積極的に破壊していく』べきだと主張なさっています。
 金原氏の前段の主張「(誰しもが)永遠に多数派であり続けるなど不可能」には賛成です。私がこのコラムで、学校教育は荒唐無稽な夢を追い続けることを称賛するのではなく挫折と敗北の価値を見直すべきだと主張し続けてきたのは、金原氏流に言えば、「誰しもが永遠に勝ち続け勝者であり続けることは不可能」という事実に基づくものであり、自分だけは常に社会的強者であり続けるという幻想を批判するという共通点があると思うからです。
 しかしそうだからといって、金原氏のように、電車内での化粧や飲食、携帯などについてまで、『電車の中で化粧をしなくてはならない人の事情に思いを巡らせ』て、「社内での化粧は止めましょう」というマナーを、偏見と決めつけることには賛成できません。
 マナーやルールには、確かに少数派を排除する機能があります。しかし、マナーやルールのない社会は、それこそ弱肉強食の弱者にとって過酷な社会に陥ってしまうと思うのです。
 学校教育とは、子供に、集団生活、人間社会に適応するためのマナーとルールを教え込む場であるという性質をもっています。特に文明が発達し、自分たちとは文化や思想や生活習慣、価値観といったものが異なる広い範囲の人々と交流し共に暮らすようになってくるに従って、家庭教育では担いきれないルールやマナーを教え込む学校教育の必要性が増してきていると考えます。自分たちにとってはごく当たり前の言動が、相手を傷つけ不快にするということを教え、相互主義に基づいて共存の在り方を考えさせることが、今後ますます大きな課題となってくるはずです。
 通勤電車内で、化粧をし、カップ麺を啜り、携帯で話し続けることを容認する社会が、外国人や異教徒、障碍者や高齢者に優しい社会になるとは思えないのですが。それは、若い女性が人前で化粧する姿を見るのを苦々しく感じる人の不快感を無視し、カップ麵の汁がとぶのではないかとハラハラしている人の嫌悪感を否定し、隣から聞こえる大声をうるさく感じる人の迷惑を軽視する社会です。そんな行動に優しさも寛容さも感じられません。金原氏は、学校はマナーについてどのような立場を取れというのでしょうか。
 そもそも、授業中教室内で「おしゃべりをし、席を立ってふらつく子」の事情に思いを巡らせていて、学校というシステムが成り立つのでしょうか。子供の問題行動に潜む悩みや苦悩に目を向け、受容的態度で接するということとは次元の違う話ですが。

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