「正しい○○」11月7日
歌手加藤登紀子氏と音楽家大友良英氏の『正しいより豊かな音楽』と見出しの付けられた対談が掲載されました。その中で大友氏は、『小3の時に福島へ転校しました。今の僕を作っているのは、この経験が大きい。それまでは、みんなで歌うとか音楽が大好きだった。ところが福島は合唱が盛んで、クラスの子はウィーン少年合唱団みたいに上手なんです。「変な歌い方」と言われて音楽が嫌いになっちゃった』と語っていらっしゃいました。この経験が中心的なテーマとなっているので、「正しいより~」という見出しが付いたのです。
大友氏は直接的には、学校の音楽の授業を批判してはいませんが、話の展開は明らかに、学校の音楽=正しさを重視→音楽嫌いを生むという図式を提示しています。そして偏狭な正しさに対置するものとして豊かさを示唆しているのです。とても考えさせられてしまいました。
まず私の頭の中に浮かんだのは、子供の頃の記憶でした。当時若手流行歌歌手として人気を博していた森進一さんや青江美奈さんが、学校の音楽の成績は悪かったというエピソードです。子供心にも、「それはそうだろう」と思ったものでした。森さんや青江さんのような突出した個性は、画一性を求める学校教育とは相性が悪いだろう、と感じていたのです。もちろん、当時こうした表現で考えていたのではなく、今にして思えばこういうことだったということですが。
それはともかく、学校教育で正しさを求めることはいけないのでしょうか。例えば、国語科です。正しい筆順でなくても漢字を書くことは出来ますし、読むことも出来るので、意味を伝えるという役割を果たすことも出来ます。留めや払い、はねはいい加減でも、意味は通じます。「木」ではね、「水」で留めてしまっても、読むことは出来ますよね。では、国語の授業で筆順もはねや留めを教えなくてもよいということになるのでしょうか。そんな細かいことに拘って、国語嫌いの子供を産み出してしまうのは愚かなことだということになるのでしょうか。
体育の水泳の指導をしたときのことです。クロールでは手を伸ばしてゆったりと浮力を利用して泳ぐように指導していたのですが、ジュニア五輪の出場したこともある男児は浮力は速く泳ぐ邪魔になると教えられていて、指導に不満を示していました。水難事故の際には長い時間泳いでいることが自分を守ることにつながるということでの浮力の利用なのですが、ここでも、「正しさ」が問題になっています。
感性やセンスが大切な芸術の一つである音楽は違うという意見があるかもしれません。でも、意図的計画的な営みである学校教育では、ある目標を設定して、その達成のために様々な指導技術を駆使していくことが原則となっています。結果として、目標とは微妙にずれているものも個性として認めていくということはありますが、初めから正しさを放棄した目標を立てることはないのです。
まあ、「正しさ」については、いい加減でよいという方が教員は楽なのですが。