ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

誰を贔屓するか

2016-11-22 07:07:44 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「与えられたパワー」11月14日
 作家上田岳弘氏が、『判官贔屓』という表題でコラムを書かれていました。その中で上田氏は、『義経だって配下を大勢持ったかなりの強者だったはずだ』と書き、『強者と弱者の関係性は容易に反転しうる』と指摘しています。その上で、『判官贔屓は、贔屓する対象のパワーになることがある。無名の誰かが与えるそのパワーが、必ずしも正しく働くとは限らない』と述べ、『近頃では何を贔屓にしたらよいものやら、戸惑うことが多くてまいる』と、コラムを結んでいらっしゃいました。
 その通りです。判官贔屓は我が国においては、広くみられる感情ですし、多くの場合肯定的に評価されるようです。しかし、判官贔屓の前提には、必ず強者と弱者の対比が存在します。そして、思い込みや先入観に基づく単純な強弱の認定は、ときとして物事を混乱させる結果になります。上田氏の「贔屓」の対象に迷うという述懐は、上田氏がよく考える人であるということの証明でもあるのです。でも、いまだに多くの人は、単純なレッテル貼りのレベルから抜け出せていないように感じるのです。
 私は、教委で長年勤務してきました。そこで市民の代表と称する人たちや国民の知る権利を代行すると称するメディアの方々と接してきました。教員の処分やいじめ問題、不登校や児童虐待など、案件は様々でしたが、いつでも共通していたのは、権力を握る巨大な存在としての教委という組織とその巨大組織に立ち向かうひ弱な個人という対比を描いて、判官贔屓的な態度で教委の「敵側」に立つ我々という自己規定でした。
 会議室には私一人、向かい側には市民代表という10名近い人たち、あるいはカメラマンを連れ録音機を突きつける記者、どうして私が強者なのだろうといつも感じていました。私が勤務していた教委は総勢50人に満たない職員、一方で全国紙やキー局などのメディアは系列を含めれば数千人の社員を抱えています。教委は自分たちの主張を訴えるすべをもっていませんが、メディアはいつでも記事やニュースという形で、さらに自分たちと同じ考え方の識者のコメントという形で社会全体に訴えることができます。
 市民の代表という人たちも、議員を使って圧力をかけることができますし、教委の予算と人事権をもつ首長につながっていたり、メディアに一方的な情報を流して自己主張することもしばしばでした。
 私個人と大勢の人という意味ではなく、組織力対組織力という視点でも、私は自分が強者側にいると感じることはほとんどありませんでした。しかも、私の発言は、その場の雰囲気や話の流れからは切り離されて一言一句吟味され、「問題発言だ」「さべつてきな発言だ」と揚げ足取りをされるのに対し、弱者と定義された人たちの、個人攻撃的な暴言は一切お構いなし、という状況でした。
 以前もこのブログで述べたことですが、我が国では、組織=強者=悪、個人=弱者=善というような図式が無言のうちに物事を考える際の前提になっているようなところがあります。しかし、上田氏が、「贔屓に迷う」とおっしゃっているように多くの場合、どちらが強者の立場にあるかは簡単に判断できるものではありません。自分の意見や行動が、単純な判官贔屓思考に左右されてはいないか、一度立ち止まり考える人が増えていけば、学校や教委よりもクレーマー側に立ってしまうという愚を犯さずに済むのですが。
 

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