ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

私は偉大だ

2024-10-31 09:10:51 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「自己評価高すぎ」10月26日
 『警察庁「闇バイト」の誘い文句発表』という見出しの記事が掲載されました。『首都圏を中心に相次ぐ強盗などで、警察庁は25日、一連の事件で逮捕された実行役らが応募した「闇バイト」の誘い文句を発表した。安易に応じないように注意を促し~』という趣旨の記事です。
 記事では、『日給5万円から』『即日払い』『20万円~都内某所』の例が挙げられていました。不思議でなりません。実行役の若者は、報道を読む限り、何の資格も特別な経験や能力もない人たちばかりです。政治家が最低賃金を時給1500円にと主張しても、20年代での実現は難しいと言われている現在、資格も経験も能力もない若者がどうして5万円手に入れられると思うのでしょうか。バカなのでしょうか。そんなに割のいい仕事があれば、競争率100倍以上に求職者が殺到するに決まっているではありませんか。
 まして「20万円~」などどこの国の話でしょう。ブラックジャック並みの腕を持つ外科医が手術をするというのであればともかく、です。自分には一日で5万円を受け取るだけの価値がある、そう考えてしまうのは異常です。現代の若者全てとは言いませんが、常識の欠如、自己評価能力の不足があるように思えてなりません。
 私は、この記事を読んで、元プロ野球選手張本勲氏の母親の話を思い出しました。張本氏がプロ野球の東映に入団が決まり、契約金を母親に届けたとき、母親は「こんな大金、お前何か悪いことをしたんじゃないんだろうね。もしそうなら返しておいで。そんなおカネもらうわけにはいかないよ」と言い、張本氏が契約金として受けてったという話をしても容易に信じなかった、という話です。
 張本氏の母親は高等教育を受けた方ではなかったそうですが、彼女には、常識があります。我が子を愛してはいても、野球はうまいらしいが他に特に優れたところがあるわけではないという、我が子に対する冷静な判断があります。現代の若者中には、こうした常識が欠如しているものが一定数以上いるのではないでしょうか。
 近年、我が国では若者の自己評価が低い、自己肯定感が乏しいということが問題視され、それを受けて学校教育の在り方も、子供の良いところを見つけてほめて伸ばす、ということが重視されるようになってきています。それは私も賛成です。しかしその考え方は、何の根拠もなく「俺はすごいはずだ、もっと評価されるはずだ、特別な存在なんだ」と思わせることではないはずです。高校を卒業してから定職にも就かずぶらぶらしていただけだけど、一日に5万円受け取るだけの価値がある人間だ、という妄想を抱く人間を育てることではないのです。
 若いうちはこつこつと努力して仕事を覚え、将来のために貯蓄をし~というような古い勤労観、それが行き過ぎるとブラック企業で唯々諾々と働いて体を壊すということに陥ってしまいそうですが、それでも今の未熟な自分を過大視せず、一発大逆転を狙うのではなく、大変さを感じることがあっても自己の成長のために日々の努力を重ねる、そんな考え方を再評価すべきなのではないかと思ってしまうのです。学校における職業教育でも。

 

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楽しくないの?

2024-10-30 07:37:59 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「楽しくないの?」10月24日
 大学生が作る紙面「キャンパる」に、『「読書離れ」ってどう思う?』という見出しの記事が掲載されました。『若者は読書にどう向き合っているのか、首都圏の大学に在籍する2~4年生計8人に語り合ってもらった』という企画です。
 読む本の少なさ、スマホに時間が取られている実態など予想通りに話が続いていましたが、私が違和感を抱いた発言群がありました。『読書習慣がどうしても必要なものなのか疑問に思う』『深刻にとらえることにかえって違和感がある。読書はあくまでも趣味の一つという認識』『本は自分の意思で読む(略)集中力とか忍耐力とかはつくと思う』『読書習慣の欠如が集中力の低さにつながる』『自分だけが本を読んでいると目立つし、「意識が高い」と敬遠されそう』などです。
 彼らの発言は、読書の効用を巡ってなされたものです。しかし、読書とは「○○という効用がある」からという理由で行うものなのでしょうか。私は読書が「好き」です。今までに購入した本は捨てずに、今でも読み返しています。年を重ね記憶力が落ちてきたから粗筋を忘れてしまい同じ本を読んでも面白いんだと言われるかもしれませんが、実際、面白いし楽しいのです。
 小説だけでなく、古い新書版などを読んでいても、当時はこんな説がまかり通っていたんだな、などと新たな気付きがあります。そんな私からすると、読書が楽しいという類の意見が皆無で、読解力、集中力、忍耐力(つまらないけど我慢し読んでいる?)などが身につくという効用論だけで読書を語ることに違和感を覚えるのです。
 上記の発言の中、「趣味の~」という発言だけは楽しさの視点から行われたものと思われるかもしれませんが、発言者は「個人の趣味の問題だから読書について論じることに意味はない」という趣旨で話しているのです。
  小学校における読書指導は、○○力の向上を目指したものではなく、読書の楽しさ、読書のある生活の豊かさに気づかせることをねらいとしたものです。学校は、教員は、もう一度この原点を確認し、指導を見直すべきなのかもしれません。

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早期に開発を

2024-10-29 08:52:01 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「研修に使いたい」10月24日
 大学生が作る紙面「キャンパる」に、『面接練習 AIにお任せ 中央大が新システム導入』という見出しの記事が掲載されました。『就職活動の早期化が進む中、忙しい学業と就活の両立を手助けしようと、この生成AIを就活に利用する取り組みが急ピッチで拡大している』ことを報じる記事です。
 記事によると、中央大の取り組みは、『正確にこちらの音声を認識し、的確な質問を投げかけてくれる。また面接指導だけでなく、終了後、即座に面接の出来について評価し、やりとりの文字起こしまで行ってくれる至れり尽くせりのシステム』だということでした。
 私はこの記述を目にし、当時これがあれば、と教委勤務時のことを思い出しました。私は、全国に先駆けてと教委が始めた「指導力不足教員研修」の担当者になりました。そこでも研修で大切だったのが、自分が行った授業の記録(録音)を文字起こしし、どこが問題だったのか、なぜ子供の反応が悪かったのか、教員の意図は伝わっていたのかなどを分析することでした。彼らは文字起こしが遅く、なかなかはかどりませんでした。中には、文字起こしだけで予定の時間を終えてしまう者もいました。また、文字起こしはしたものの自分の力では問題点を見つけられない者も多くいました。私は、彼ら一人一人について一緒に分析を手伝おうとしましたが、精々数人に関わるのが精一杯でした。さらに、私が共に分析に関わると、自分で考えようとせずに、私に頼りっきりになってしまう受講者も少なくありませんでした。しかし、人が成長するためには、自分の失敗と成功をきちんと把握し、その原因を分析し、改善して次に臨むという試行錯誤の繰り返しが不可欠です。ですからこの研修は、指導力向上に欠かせないものだったのです。
  この生成AIが当時あれば、文字起こしは一瞬でできます。何千かの授業を事前に学習させておけば、問題点を指摘することも難しくはないでしょう。さらに、問題点の指摘から解決策の提示まで行わせることも可能になるはずです。
 当初は生成AIに指摘→分析・考察→改善策提示を頼って、コツを掴んだら少しずつ受講者が自分で行うようにし、最終的には受講者が指摘→分析・考察→改善策提示のすべての過程を独力で行うという形で、授業力の向上が図れるようになるはずです。
 もちろん、指導力不足とされた教員以外の普通レベル、指導力に優れた教員にとっても、自分の授業力をさらに向上させるツールとして活用することができることになります。文科省や教育研究所、大学等が合同で開発に乗り出してみることを切に望みます。

 

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やってみたいという人は多いはず

2024-10-28 07:17:16 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「位置付けを変える」10月23日
 『女子高校生コーチ 養成急ピッチ サッカー協会 公認ライセンス年齢緩和』という見出しの記事が掲載されました。『日本サッカー協会公認の指導者ライセンスを持つ女子高校生が続々と誕生し、女性指導者が倍増しそうな勢いを見せている』県の現状と背景を報じる記事です。
 記事によると、日本サッカー協会は、『(指導者)養成講習会の受講年齢を「18歳以上」から「15歳以上」に引き下げた』ということです。これを受け、岡山県では、『23年度は45人の高校生がライセンスを取得、その全員が女子生徒だった』そうです。また、受講を積極的に呼びかけた和田敬氏は、『将来的に教員や指導者など、サッカーに関わる仕事を志す部員が多くいた。教える立場になることでサッカーの戦術などに対する視野や考え方も広がっていくと思った』と語られています。
 そして記事の後半では、『部活動の地域移行を巡って指導者確保は課題の一つで、日本協会は「高校生コーチ」は課題解決の一助になり得ると期待する』と、高校生がコーチとして部活の指導に当たるという構想に触れているのです。
 部活では、その閉鎖性が指摘されています。閉鎖空間の中で、先輩から後輩へ、暴力や過剰なしごきなどが行われ、隠蔽されがちだということです。安易に、高校生コーチ制を導入すれば、そうした弊害がさらに深刻化する懸念があります。
 しかし、きちんとしたカリキュラムでコーチの役割や留意点について学び、中学校時代の在籍校とは異なる中学校の部活を指導する、というような配慮をすれば、高校生コーチ制は実施可能なのではないでしょうか。
 部活の指導者不足は、都会よりも人口減少の激しい地方で深刻な問題となっています。大学生コーチでは、多くの若者が都会の大学に進学してしまう現状から考えて、指導者不測の解消には結びつきません。しかし、高校生はその多くが地元に残っており、地方における対策として効果的です。
 さらに、記事にもあるように、教える立場になることも教育的メリットも期待できるのですから、導入に後ろ向きになる理由がありません。管理責任を高校生におわすわけにはいかないという指摘はもっともですが、それには教員が技術的な指導はせずに同時に複数の部活を視野に収める体制を作ればよいのです。体育館に当番制で一人の教員を配置し、卓球部、バドミントン部、ダンス部、バスケットボール部の活動状況を監視し、自己や事件の際には対応するという形です。これならば、一日に数人の教員を配置するだけで済み、教員の負担軽減も可能です。
 私だけかもしれませんが、10代のころは、「資格」を公的に認められ、資格証を交付される、ということに憧れをもっていました。何だか自分が一人前と認められたような気がするからです。そんな高校生は多いような気がするのですが。

 

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余裕があれば楽しくなってくる

2024-10-27 09:00:47 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「カスばかり?」10月23日
 『「公立 先生いなさすぎ」 中高生 学び・対応に不信感』という見出しの記事が掲載されました。1面トップと3面を占める特集記事です。公立校の教員が足りず、学校への不信感さえもつ中高の実態を紹介し、背景や対応を考える記事です。
 記事では、『(欠員補充の影響で)たった1年間で4人の英語教員に教わることになった(略)先生が何度も交代しているのに、継続して学んだことや努力、それをどうやって公平に評価するんだろう』という高校生、『(不登校後の)別室登校が続いているのに、学校側が対応している形跡がない』『個別面談がしたければ「アポ」を取ることが必要』と不満をもつ中学生などの例が紹介されていました。
 大変な状況です。しかし今回私が引っ掛かったのは、そうした状況とは直接関係しないある記述でした。教育社会学を専門とされる早稲田大名誉教授油布佐和子氏のコメントです。油布氏は、『教員の多忙さを放置すれば、高い志を持つ優秀な人ほど学校現場に落胆して教壇を降りてしまう』と述べていらっしゃるのです。
 重箱の隅をつつく、揚げ足取りをしているという批判されるかもしれませんが、油布氏の指摘通りだとすると、今学校現場に残っている教員、これからも教職を続けて行こうとしている教員は、志が低く、優秀ではない人ということになってしまいます。それはいくらなんでも失礼でしょう。そんなふうに思われたのでは、今現場にいる教員たちの士気も低下してしまいます。
 確かに、志が低く、教職に夢や希望を抱くことなく、公務員で安定して給料をもらえればいいと考え、子供の悩みや思いなど考えようともせず、教科書を読んで解説し、ペーパーテストの点数順に成績を付け、通知表のコメント欄は生成AIにお任せ、というような教員であれば、落胆も絶望もしないでしょう。そして、そうした教員が一定数いることも確かでしょう。
 しかし私は、多くの教員はそうではないと考えます。私自身がそうだったからです。このブログで何回も書いてきたことですが、私はいわゆる「デモシカ教員」でした。子供が好きでも、教職に憧れたわけでもなく、大学入試で合格したのが教育学部だけで、そのまま周囲に合わせて何となく教員になったのです。そして、すごい教員になってやるというような野望も抱かず、教員生活をスタートさせましたが、数年経つうちに、気がつけば強制されたわけでもないのに、区の社会科教育研究会の主要メンバーになり、授業力向上のために授業記録をとるようになり、学級経営と児童理解のため毎週学級通信を発行するようになり…、というようになっていったのです。
 周りの同世代の教員仲間を見ても、似たようなものでした。飲み会(愚痴会?)で、教員なんてつまんねえ、早く辞めたい、小憎らしいガキがいてさ…、などと言い合っていた仲間も、子供や保護者という人間同士のかかわりの中で変わっていったのです。
 当時は、若い教員は暇でした。児童生徒数が多く、そのため学校規模も大きく、一校に多くの教員がいて、校務は先輩教員が負担してくれていたこと、保護者や子供の中に「先生」という存在に対する敬意が残っていたこと、障害のある子供や日本語指導が必要な子供が顕在化しておらず、個別対応に時間を割くことが少なかったことなど、さまざまな要因で、今よりも時間の余裕があったのは事実です。
 そもそもどんな組織であっても、全員が優秀ということはありません。ほとんどが凡人なのです。教職も同じです。ただ、昔は余裕があり凡人は凡人なりに自覚し努力する余地があったのです。今も同じはずです。違うのは時間的・精神的な余裕の有無だけです。労働環境を改善し、教員に余裕を持たせれば、多くの教員は目の前の子供から、嬉しい、楽しい、分かった、できた、という反応が返ってくることに喜びを感じ、教員として成長しようとするのです。そこに、優秀とか志とかが関与する部分はとても少ないと考えます。
 学校で頑張っている教員はクズばかりではありません。

 

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いいところばかりではない

2024-10-26 09:09:17 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そもそもどうなの?」10月22日
 連載企画『田原総一朗の日本の教育の問題は何だ!?』は、県立土浦第一高校で民間人校長を務めているインド出身プラニク・ヨゲンドラ氏との対談の「下」でした。元江戸川区議で「よぎ」の愛称で呼ばれていた方でもあり、今回も文中ではよぎ氏と呼ばせていただきます。
 今回、田原氏は、インドと日本の学校教育の違いについて質問しています。よぎ氏の回答は、以下の通りです。『インドでは言語教育は基本的に小中学校で終えています。一方、日本では高校になっても、多くの時間を国語や英語に割いています。他の学問に振り向けることができれば、もっと専門的な知識とスキルを身につけられるはずです』『高校の勉強量が多いことです。小学校では、道理道徳やグループで動くことに時間を費やし(略)小中学校のしわ寄せで、高校で学ばなければならないことが増えている』『日本では「文理融合」も勘違いされているように感じます。たくさんの教科や科目を勉強させて生徒の深い学びの意欲をそいでしまい、ゼネラリストになる方向になっています』『「思いやり教育」が足りていません。教員と子供に多様な意見や存在を受け入れる教育を継続していかねばなりません』
 頷ける指摘も少なくありません。小中学校での学びの量が少ないその分高校が内容過多になっているという指摘、考えたことがありませんでした。よぎ氏の指摘が正しいのか否か、判断することはできませんが、今後分析が必要な貴重な指摘でしょう。教科や科目が多く、関心がある分野について深く学ぶことが難しいカリキュラムになっているという指摘についても同様です。
 また、多様な意見や存在を受け入れることが「思いやり教育」であるという考え方もとても参考になりました。でもその一方で、根本的な疑問もありました。日本とインドは違う、インドの真似をしよう、という発想は間違っているということです。インドの教育が成果を上げているのであれば、見習ってよいところを取り入れていくことは必要ですが、望ましい結果に結びついていないのであれば、取り入れてはならないということです。
 トータルで見た英語力は間違いなくインド人の方が上でしょう。では、「国語力」はどうなのでしょうか。インド人が「インド語(?)」で読み書きする能力は高いのでしょうか。また、ひらがな、カタカナ、漢字と多くの文字を習得する必要がある日本語と「インド語」の習得にかかる時間を単純に比べてよいものかも疑問です。
 さらに、ゼネラリストを目指す教育が間違っていてスペシャリストを育成する教育が正しいという考え方もおかしいと考えます。ゼネラリストを育成することは国民の民度を挙げる効果があります。治安でも、衛生観念でも、人権意識でも、我が国がインドに劣るとは思えません。
 先ほど挙げた多様性云々についても、ヒンズー教至上主義がはびこり、イスラム教徒などが虐げられている状況を考えると、インド式が成果を上げているとは思えません。しかし、田原氏はそうした指摘を一切していません。インタビューの趣旨に合わないからだとは思いますが、不必要に持ち上げているようで違和感を覚えました。
 「アメリカでは~」「フランスでは~」と外国は日本よりも優れているという思い込みで外国礼賛をする人のことを「出羽守」と揶揄しますが、他国の人の意見を無条件にありがたがるのではなく、良いものは良い、悪いものは悪いと冷静に取捨選択する姿勢が必要です。

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可視化できれば

2024-10-25 08:06:43 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「実感」10月21日
 専門記者下桐実雅子氏が、『「ともに生きる」ための言葉』という表題でコラムを書かれていました。高齢者施設の在り方について研究調査してきた慶応大大学院生金子智紀氏の取り組みを取り上げたものです。
 その中に、とても印象に残る記述がありました。『転倒や誤飲など問題を再発させないノウハウは施設で蓄積され、共有される。でも、困難を乗り越えた経験や、良いケアができた実感などは共有されにくい(略)こうした「個人の蓄積」を可視化して広めたい』という記述です。
 前日も書きましたが、何かと不人気な教職ですが、苦労だけがあるのではなく、喜びや充実感、達成感や成長の実感などを感じ取ることも多いのです。私は、子供が嫌いでした。末っ子で甘やかされて育った私は、面倒を見てもらうことはあっても、誰かの面倒を見る、世話をするということが嫌いで不慣れでした。そのことを知っている母や姉は、私の就職が決まったとき、「大丈夫なの?」ととても心配そうに言いました。
 案の定、大丈夫ではありませんでした。学級はまとまりませんし、好き嫌いの激しい私は、お気に入りの子とそうでない子が子供から見ても分かるほどでしたし、努力しないくせに失敗を認めて教えを乞うことが苦手な私は、子供の声も先輩教員の親切なアドバイスも気に入らないものは無視し続けました。
 そんな私ですが、退職を考えることもないまま、ズルズルと教職を続け、指導主事として教委に異動するまで、教職を楽しんでしまったのです。どこかに転機があったのか、そう聞かれても分かりません。ただ今でも、あんなこと、こんなこと、あの子にこの子と、「いい思い出」が浮かぶのです。
 私も歳を重ね、少し記憶があいまいになっているのかもしれませんが、思い出されるのは「いい思い出」が多いのです。教え子の結婚式に呼ばれ、式辞を考えていると、次々に相応しいエピソードが浮かんできますが、不思議に苦々しい思い出は浮かんできません(結婚式に読んでもらえるのだから当たり前かもしれませんが)。
 では、それをここに書いて紹介し、教職を目指そうか悩んでいる若い人たちに示したいと思うのですが、言葉にして記そうとするとあまりにもありきたりの話になってしまいます。私の文章力のなさが原因かもしれませんが、それよりも、言葉では表し難い当時の感覚や空気感と言ったものが何だか温かいほのぼのとしたものをもたらすと言った方が正確なように思えるのです。
 だからこそ、金子氏の個人の蓄積の可視化という取り組みが素晴らしく思えるのです。誰か、教職における個人の蓄積の可視化に取り組んでくれる研究者はいないでしょうか。

 

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正解は当たり前の中に

2024-10-24 08:42:55 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「的外れ」10月20日
 『教員試験 自治体に難題 問間と人材獲得競争 国が前倒し要請 教委受験者の負担増懸念 試験科目減らす動き』という見出しの記事が掲載されました。『低迷が続く教員の採用倍率をどうすれば好転させられるのか-。各地の教育委員会が教員採用試験のあり方に頭を悩ませている』という現状と問題点を報じる記事です。
 違和感だらけの内容でした。記事によると、『文部科学省は試験日程が遅いため民間企業や一般公務員との競合に敗れているとみて、2023年から2度にわたって翌年度の試験日程の前倒しを全国の都道府県・政令市の教育委員会に要請』しているとのことです。
 問題の本質を理解していない愚策です。かつて教員採用試験の倍率が高かったとき、試験日程は非常に遅かったのです。私の場合、都内S区の教委に面接で呼ばれたのは年を越した時期でした。その時期に面接ではねられたら、就職浪人です。不安はありましたが、友人の多くも同じ状況で採用試験に臨んでいました。
 さらに、『教員志願者を確保するため、試験科目に手を入れる自治体もある(略)「教職専門」を廃止する。試験科目を減らして受験しやすくするのが狙い』との記述もありました。担当者は、『「教職専門」を軽視しているわけではない(略)教職専門の知識は大学で履修しているとの前提があるほか、採用内定後の研修実施も検討している』という認識だそうですが、明らかに軽視でしょう。大学で履修しているのが全体というのであれば、「専門教科・科目」だって大学で履修しているのですから、試験から除いてもいいはずです。また、採用後に研修をするから試験は不要と言うのであれば、全ての試験が不要になる理屈です。
 教職を魅力あるものにするのが大切という意見もありましたが、それも少し違っていると思います。教職はやりがいのある魅力的な職です。それ今も昔も変わりません。大事なのは、子供の成長を身近なところで実感できるという喜びをもってしても補えない多忙な労働環境です。
 教員志願者を増やす方策は、労働環境の改善と、現職教員が感じている喜びややりがいといったプラスの感情をきちんと伝えること、の2点だと考えます。平凡で、当たり前のことのようですが、正解は当たり前のことを着実に実行する中にあるのです。

 

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目撃者が被害者

2024-10-23 08:34:46 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「眼中にない?」10月19日
 『教育現場に問題ないか?』という見出しの記事が掲載されました。『公立小学校に入学後すぐに不登校となった長男を持つノンフィクションライターの沢木ラクダさんが、これまでの葛藤の日々を発信している』ことを取り上げた記事です。ちなみに、沢木氏のご長男は、「HSC」(Highly Sensitive Child)、人一倍敏感な子供と思われるそうです。
 記事の中に、次のような記述がありました。『他の子が先生に怒られているのに自分が怒られているかのように感じたりするHSCの特性』です。記事では、HSC独自の感じ方のように書かれていますが、私はそうではないと考えています。
 私はこのブログで体罰問題を再三にわたって取り上げてきました。特に「体罰=愛の鞭論」を強く否定してきました。体罰を愛の鞭として肯定する人たちは、体罰を受けた子供と教員の間に一定の信頼関係がある場合が多いとし、子供が自分の非を認めて、むしろ体罰という厳しい指導をしてくれたことを感謝しているケースもある、という趣旨の主張をします。
 私はそれに対し、他の子供が激しい体罰を受けているのを目撃し、他の教員も子供も誰もそれを阻止したり非難したりしないことを知って、激しい恐怖を感じ、不登校になったり、教員全般に対する不信感をもったり、希望していた部活への入部を断念したりする子供もいることを指摘し、体罰の悪影響を、体罰教師と被害者という関係だけで論ずることは適切ではないという反論をしてきました。
 今回の記事の先の記述は、HSC特有の出来事として紹介されていましたが、そうではなく、どのような子供も似たような感じ方をしているのです。大人でさえ、同僚が上司から激しくしかも長時間叱責されているのを目にすると、「もし、自分がミスをしたら…」と不安を感じるものです。子供が感じないはずはないのです。
 体罰に限らず、暴言や見せしめ的な叱責、モラハラに当たるような陰険な注意、無視などの教員の行為が、被害を受けている子供だけでなく、周囲の子供たちの心も傷つけ、教員や学校への不信感を増大させているということを、教員はもちろん、校長などの管理職もきちんと自覚し、日頃から研修や指導を行う必要があります。

 

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愛していないから

2024-10-22 08:17:33 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「妄言」10月19日
 書評欄に、詩人渡邊十絲子氏による『「標本画家、虫を描く 小さな体の大宇宙」川島逸郎著(亜紀書房)』についての書評が掲載されていました。その中にあった、文の大意とは全く関係のないある記述が印象に残りました。
 『身近な虫をまったく見たことがない人はいないと思うが、ではその虫を描けと言われたら、かなりの人がへんてこりんな絵を描いてしまう。それは絵がへただからではなく、その虫への愛が足りないからである』という記述です。
 言いたいことは分かります。しかし私はそれとは別に、こういう言い方をする指導力不足教員のことを思い出してしまったのです。子供に指示を出す、子供は取り組み始めますが、すぐにどうしていいか分からなくなる、あるいはうまくできないことに気づく、そしてうまくやりたいと考えて教員に質問したりヒントを求めたりする、教科に関係なく、授業ではよくある状況です。
 そうしたときに、「できないと思うからできないんだ」「いいからしたいようにしてごらん」「よく見てごらん」「もう一度考えてみなさい」「失敗してもいいから」などというような言葉をかける教員たちがいます。
 叱るわけでも、突き放すわけでもなく、むしろ励ましているとも受け取れる言葉ですから、格別問題があるとは思わず見過ごしてしまいがちですが、実はそれこそが問題なのです。どうしてかというと、そうした言葉を発している教員自身が、問題発言だと思っておらず、むしろ自分を子供に寄り添う良い教員だと誤解していることさえ多いからです。彼らに、授業後、こうした発言を指摘し、「どう思うか」と尋ねると、「優しく受け止め、励ましてやる気を出させることができたと思います」というような趣旨の回答が返ってくることが多いのです。
 しかし、子供側からすれば、よく考えてもみたし、既に何回も失敗しているし、どうしたいかも分からなくなっているし、という状態で助けを求めているのに……、というわけなのですから、教員に無視された、いじわるされた、もしくはちゃんと考えていないと思われた、などと感じ、絶望してしまうのです。こうしたことが繰り返されると、子供は教員不信に陥り、教員とかかわりをもとうとしなくなります。
 それにもかかわらず、指導力不足教員は、「最近は質問が少なくなった。よく理解できているんだな」などと思い、自己満足に浸ってしまうのです。ですから、私が子供の状況を把握し、何が求められているのか瞬時に判断し、適切な助言や補助を与えるのが教員の務めです、と諭しても怪訝な顔をするだけで自分の指導力不足を自覚しないのです。
 私は渡邊氏の書評を目にし、「今日は、友達の顔を描いてみましょう」という指示をし、子供から鼻が上手く描けませんという声が出されたとき、「それはAさんへの愛が足りていないからです」と答える教員が頭に浮かんでしまい、こんな文章を書いてしまいました。でも、こんな妄言を吐く教員は本当にいるような気がします。

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