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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

思いやる、のではなく

2016-11-28 07:49:23 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どこまでも私たち」11月20日
 作家中島京子氏が、『差別とは何か 「私たち」の視点が必要』という表題でコラムを書かれていました。その中で中島氏は『往々にして、人々を「我々」と「やつら」に分けてしまう。「やつら」を知らず、「やつら」が見えなければ、「やつら」を人間扱いしないことが容易になる。軽蔑するようにもなる。でも本当は、「彼らは私たち」なのだ。差別とは、本来対等で同じ価値を持つ私たちが、私たち自身を「usとthem」に分けてしまうことなのだ』と述べていらっしゃいます。
 差別についての考察ですが、中島氏の指摘はいじめ問題にも当てはまります。一つの集団があります。部活の○○部の場合もありますし、学級の場合もあります。教員はその集団を仲間と呼び、「このクラスは~」「うちの部は~」と一つにまとまりチームワークを発揮し、相乗効果で高めあう集団として関わろうとします。
 しかし、いじめが発生するとき、その部や学級内には、いじめ加害者集団という「私たち」、いじめ被害者という「やつら」が存在しているのです。それはほぼ100%間違いなく、どのいじめ問題でも見ることができる構造です。つまりいじめ問題は、差別問題という側面ももっているということです。
 中島氏は、「やつら」を知らないことが、「私たち」と「やつら」を分けてしまう原因であるとしています。確かにそうでしょう。だとすれば、いじめ問題も、いじめ被害者が加害者についてよく知ることで、未然に防いだり、解決したりすることが可能になるということになります。
 これはよく言われる「いじめられている子供の立場に立ってその苦しみを理解する」という発想とは異なります。そうではなく、優れている(と思い込みたい)私たちと劣っている(と思い込んでしまった)やつらが、まったく対等の同じ価値がある人間であると認識するということなのです。可哀そうとか、大変だったんだねという、ややもすると優越者が下位者に上から目線で抱くような心情ではなく、科学的な人権教育によって鍛え抜かれた強固な信念に近いものなのです。
 実はこれは、現在の我が国の学校教育が苦手としている分野なのです。学級経営でも、特別活動でも、道徳の指導でも、優しさとか思いやり、相手の立場に立って、といった心情面に価値を置く指導が主流を占め、理知的に人と人の関わり、人と社会の関りを考えさせることが少ないのが現状だからです。
 いじめ問題を、人や社会の在り方から根源的、哲学的に考察する試み、そんな実践が待たれます。

 

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