「根本的なおかしさ」11月19日
『原発いじめ 子供を守れぬ学校とは』という表題の社説が掲載されました。その中にどうしても引っかかる記述がありました。一つは『(いじめ防止対策推進)法や制度を生かすには、学校全体の情報伝達や共有、連携のあり方の充実、工夫も問われよう』という部分です。
私は先週のブログでも、情報の共有や伝達、連携をいくら強調してもいじめ対策としては不完全であると書きました。最も重要なのは一人一人の教員のいじめ対応力の向上であるという趣旨でした。無能な教員が何人もいて、情報を共有したところで、それだけでは何も解決しないのです。でもこのことはすでに述べているので、ここでは詳しく述べることはしません。
今回特に違和感を感じたのは、『いじめ防止対策推進法は、こうした深刻な状況を「重大事態」とし、学校や教育委員会にただちに対応する調査組織の設置などを義務付けている』『いじめ被害を察知した保護者が学校に相談しても、学校は重大事態とはとらえない』という記述です。事実なのでしょう。しかしここでは、重大事態と認識したか否か、という点に焦点が当てられています。この記述を読んだ人は、今回の事例が重大事態でなかったのなら、学校や教委が対応しなかったことには問題はなかった、という風に受け止めてしまいかねません。
平均的な学校では、年間何十件といういじめが起きています。そのほとんどは、メディアが取り上げることのない「軽微ないじめ」です。しかし、そうしたいじめにも傷つき苦しんでいる被害者がおり、客観的には軽微であっても、被害者本人は深刻に悩んでいるのです。ですから、どんな「軽微ないじめ」であっても、教員は、そして学校はその解決に全力で当たらなければならないのです。
また、自殺に至るような「重大事態」に該当するいじめも、その始まりは「軽微ないじめ」なのです。ですから、「軽微ないじめ」の解決に全力で当たることは、「重大事態」の解決同様、教員と学校の責務なのです。
社説を書いた方にそうした意識はないのでしょうが、社説の論調は、重大事態と認定すべきなのにしなかったという過失に焦点が絞られすぎており、重大事態→迅速な対応、非重大事態→対応の必要性少、というような誤解を与えてしまうのです。この事例で問題であるのは、重大事態という認識の有無ではなく、被害者からの訴えがあったら、その被害の程度が如何に軽微であろうがすぐに対応すべきであるのに放置した、という点にあるのです。そのことを明確に指摘しておかなければ、学校や教員、教委に「重大事態以外への速やかな対応は不要」、子供や保護者には「重大事態に該当しなければ助けてもらえない」という誤った認識を植え付けてしまうのです。
いじめ対応は、法の制定とは関係なく、「被害の訴えがあったら、いじめが存在するとの前提で直ちに事実関係の確認に入る」という原点に立ち戻ることが求められているのです。
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