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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

沈黙はそんなに長くない

2013-11-20 08:11:40 | Weblog
「性彼害を訊ねる」11月13日
 『捜査員らが性被害 児童への聴取研修』という見出しの記事が掲載されました。その研修では、『児童は大人の質問に引きずられやすく、繰り返し質問されることで記憶が混乱する』『児童の発言を安易に言い換えない』ことが重要だという指導がなされたそうです。そして、この研修を受けた捜査員は、『事件の要点を聞きがちだったが、子供に全部説明してもらうことが重要と分かった』と話していました。
 以前このブログの「それはつまり」で述べたことの繰り返しになりますが、この捜査員向け研修の内容は教員にとっても大変重要なものです。教員が犯しがちな過ちとして、子供の発言を言い換えるということがあります。子供がまだ話しているにもかかわらず、「それはつまり~ということだね」「○○さんが言いたいのは~ね」などと、教員の言葉で表現してしまうのです。
 こうした場面では、子供は「ちょっと違うんだけど…」という思いを抱きながらも、教員への遠慮や面倒くささもあり、それを受け入れてしまいます。こうした経験を重ねていくと、子供は自分の思いを懸命に伝えようという意欲を低下させていきます。「どうせ先生がまとめてしまう」、ということを学習してしまうのです。これでは、思考力も表現力も育ちません。
 また、子供の発言に曖昧な部分があると、「どういうことかな。もう一度整理して言ってみて」「それは~ということ?それとも…なの」など、教員が質問したり再度の説明を促したりすることもよくあります。じっくりと考えることを許されなくなった子供は混乱し、「うまく言えなかった」という失敗感だけが残ります。そして、発言することに消極的になっていくのです。
 上記のようなケースでは、教員には悪意はありません。子供の発言の意味を明確に他の子供に伝え、話し合いの中で生かそうという善意に基づく行為なのですが、結果はプラスには働きません。うちのクラスの子供は話し合いが下手、積極的に発言する子供が少ないなどという教員は、必ずと言ってもよいほど、こうした間違いを犯しています。
 ここで、教員に足りないのは、待つ能力と子供への信頼感です。無意識のうちに子供の能力を信頼していないからこそ、このまま放置していたのではこの子は何も言えなくなってしまうと考え、「助け船」を出してしまうのですし、待つことに耐えられないのです。しかし、授業を録音し聞き直してみれば、子供の沈黙時間はごく短いことが分かります。教員が30秒に感じている沈黙が、実際には10秒足らずであることがほとんどなのです。私も待てない教員でした。しかし、授業記録をとるようになり、自分の我慢の足りなさを発見することができました。
 授業が上手くいかないという若い教員は、自分の待ち時間に着目して、ストップウォッチを手に授業記録を聞いてみることをお勧めします。
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偏向教育が守る教科書検定?

2013-11-19 08:12:33 | Weblog
「彼我の違い」11月12日
  『韓国 歴史教科書で論争』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『保守系執筆者による記述が日本の植民地時代や解放後の軍事独裁政権を美化していると批判される一方、左派系出版社よる教科書は保守派から親北朝鮮的だと非難を浴びている』のだそうです。こうした現状を受け、『日本のセンター試験に該当する「大学修学能力試験」で韓国史が必修となる。教科書によって差が出ないよう、教育現場では「再び国定に戻すべきだ」との声が出ている』ということです。
 韓国での事例ですが、我が国でも起こりかねない問題です。我が国でも、歴史教科書を巡る論争が続いています。しかし我が国の左右両派に共通しているのは、現時点では、国定教科書に復帰するという選択肢はないという点です。そこが韓国と違う点です。
 なぜこうした違いが生じているのかという点については、様々な理由が考えられます。韓国がわが国以上の学歴社会であり大学入学のもつ重みが違うことや、検定教科書制度に改められたから日が浅いことなどですが、それ以外にも、日韓両国の歴史授業のあり方の違いが大きいと思います。
 韓国では、学習内容の統一を求める傾向が強いのです。一方、我が国では、教科書を教えるのではなく教科書で教えるという考え方が定着しています。特に、歴史を専門とする中高の教員にこの傾向が強いのです。彼らは自分の「専門性」に高い自負心をもっています。その結果、教科書の記述を無視し自分の歴史の知識や見解を語るという形の授業をしているのです。だからこそ、外部の団体が教科書採択において様々な声明を出し、運動を繰り広げている割に、教員は教科書採択を重要視していないのです。より正確に言えば、教育問題としての教科書採択ではなく政治運動としての教科書採択は重視している人がいるという状況です。
 私はあまり教科書を使用せずに、自分流で授業を進めることがよいことだとは思っていません。教員には、教科書使用義務があり、学習指導要領遵守義務があるのですから。ただ、我が国の歴史教育が、韓国に比べある種の自由裁量の下で行われていることは紛れもない事実だということを指摘しているだけです。
 私は国定教科書に反対です。学習指導要領というある程度の幅の中で多様な教科書が存在する方が望ましいと考えています。しかしそれが、自分勝手な教員たちの「プチ偏向教育」によって守られていると思うと複雑な思いです。

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本当の狙いは管理強化?

2013-11-18 07:41:46 | Weblog
「本当に知っている?」11月11日
 『道徳「特別の教科」に』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、「道徳教育の充実に関する懇談会」が、報告案を公表したそうです。その中では、『「特別の教科 道徳」(仮称)という新たな枠組みとして格上げ』し、『道徳教育に優れた教師を「道徳教育推進リーダー教師」(仮称)として配置』するのだそうです。
 道徳教育については、このブログでも、いじめ問題との関係、実施率との関係から再三取り上げてきましたが、正直に言って、学校における道徳教育について熟知しているメンバーが話し合っているのだろうかと疑問に感じてしまいます。間違いだらけの提言です。ここでは、繰り返しになってしまうので、いじめ問題や実施率との関係についてはふれず、他の面から述べてみたいと思います。
 まず、「格上げ」という考え方です。現在の教育課程は、教科・道徳・特別活動・総合的な学習の時間という4領域で構成されています。つまり、道徳は、国語・社会・算数・理科・音楽・図画工作・体育などの総体である「教科」と同等の扱いなのです。学級会やクラブ活動、児童会や学校行事など「特別活動」とも同等の扱いです。それなのに提言では、教科の中の一部になってしまうのです。いくら「特別」という修飾語をつけても教科は教科でしかありません。
 以前にも述べたことですが、全教育活動を通じて行うからこそ、道徳の研究に取り組み学校が多いのです。教科になってしまえば、小学校の専科教員や中学校の副担任などにとっては、「自分には関係がない」教科となってしまい、従来の取り組みレベルから低下することになってしまうのです。これが「格上げ」でしょうか。私には格下げとしか思えません。
 また、「道徳教育推進リーダー教師」の位置付けが曖昧です。何を担うのでしょうか。現在も各校には道徳主任がいます。違いは何なのでしょうか。年間計画の作成、副教材の収集・管理、他の教員からの指導上の相談に対応程度であるならば、何も変わりません。それ以上の職務、例えば、授業観察をして問題点を指摘し授業改善を図るというようなことを想定しているのであれば、主幹などと同様、新たな「職」としての位置付けが必要になります。
 確かに道徳主任の中には、さほど道徳教育に通暁していない者もいます。しかしそれはその学校に道徳教育のエキスパートがいないからです。現在の教員異動においては、主幹教員のように道徳主任について特別に異動要綱を設けるシステムにはなっていないので、偏りが生じているのです。
 「道徳教育推進リーダー教師」に主幹のように他の主任職とは異なる権能をもたせ、給与表を改訂し、異動要綱で各校配置を義務付けるシステムに変えるのでしょうか。教員異動の実務に携わったことのある者として、これ以上の複雑化は現実的ではないように思います。
 もっとも、「なべぶた」と揶揄される学校組織を変えるために、出来るだけ多くの中間管理職を設けようという意図であれば、理解できないこともありませんが。
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もっと話題に

2013-11-17 08:24:29 | Weblog
「グローバル化への認識」11月10日
 下村博文文部科学相が、グローバル人材の育成をテーマにインタビューに答えていました。その中で下村氏は、『他国にはない日本ならではの文化。例えば茶道や華道、それをきちんと説明できるような教養』と述べていらっしゃいます。
 教養という視点には異論はありません。しかし、その例示として茶道と華道があげられているのは少し残念な気がします。私は、我が国の歴史と国民性について語ることこそ、「グローバル人材」に求められる資質であると考えているからです。
 例えば神道と仏教と儒教が我が国に及ぼした影響。例えば「和」の精神や穢れの発想。例えば武士道や石門心学などの我が国の思想。例えば敗戦と武器・軍事アレルギー。例えば嫉妬と横並び志向の文化など、きちんと語れることこそ、国際社会に向かって我が国を発信できる人材に求められているように思うのです。そしてそうした「人材」はほとんどいないというのが現状ではないでしょうか。
 さらに、イスラム教やキリスト教などの世界的な宗教、カントやヘーゲル、ニーチェなど人類共通の偉人たちについての理解と独自な見解をもつことも重要でしょうし、経済・人種・宗教・歴史・地政学など多面的に世界の状況を捉える認識力も必須です。手前味噌にになりますが、これらはいわゆる「社会科」の領域に属する事柄です。それにもかかわらず、下村氏が社会科教育の充実にふれていないのが不思議でなりません。
 また、下村氏は、『リーダーシップや感性、人への思いやり、優しさをも備えた上で、国際社会で活躍できる人材』の育成も唱えていらっしゃいます。私たちはこうした言葉を何気なく使いますが、相手についての知識なしには、リーダーシップも感性も思いやりも優しさも、意味がないのです。私たちの「過ちは水に流す」という感覚は韓国の「恨」とは食い違いますし、部下を信頼して良きに計らえ式のリーダーシップは欧米人には通用しません。広島・長崎に原爆を投下した米国を責めない我々の感覚では、いつまでも日本帝国主義批判を続ける中国人は心の狭い人としか理解できないのです。やはり、「社会科」なのです。
 英語よりも理科教育よりも社会科を、と主張する政治家や企業家がもっといてもよいと思うのですが。社会科が話題になるのは教科書採択のときだけ、というのでは寂しすぎます。

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士気の維持は可能か

2013-11-16 08:00:03 | Weblog
「可能か」11月9日
 『作業員の士気回復急務』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『汚染水の管理では人為ミスが相次ぎ、作業員の「士気の低下」が課題の一つとして浮かんだ』ということで、『東電は「現状の問題・悩み」として「作業員の執務環境・処遇とモチベーション」などを挙げている』のだそうです。
 東電も苦しいところでしょう。士気低下という事実とその悪影響は認めざるを得ません。当事者として何らかの対策を打ち出さなければならない立場も理解できます。しかし、東電がこの課題を改善することが可能かというと、難しいと言わざるを得ません。不可能と断言してもよいくらいです。
 確かに、給与を上げたり、人員を増やし休暇をとることができるようにしたり、休憩場所を設けたりすることは一定の効果をあげるでしょう。しかし、それでこの問題が解決すると考えるのは、人間を経済的、肉体的な面からだけ捉えた偏った見方に過ぎません。士気の低下の原因として、心の面、誇りとか自負をもつことができない状態を軽視してはなりません。また、将来に向けての希望や展望といった要素も無視できません。
 今、東電で働く人々に最も欠けていると思われるのが、こうした誇りや自負、希望や展望なのです。そして、東電が従業員にこうしたものを与えることは、現状では不可能なのです。
 さすがに東電関係者の家族が学校や地域でいじめに遭い顔を隠すように生活せざるを得ないという状況は見られなくなりつつあるようです。しかし、「こんな事故を起こしておいて、まだ恵まれすぎている」「事故を起こした反省が足りないから、今でもミスを犯すのだ」「苦しんでいる被災者のことを思えば、東電はもっと身を削るべきだ」「東電は潰してしまうべきだ」など、東電関係者に寄せられる声は正論であるだけに反論できません。
 人間はそんなに強い生き物ではありません。そして人間は他者からの理解や認知、称賛なしでは生きるエネルギーを得ることが出来ない社会的存在でもあります。東電バッシングであれば何でも許される、というような雰囲気が改善され、「大変な環境の中でよく頑張ってくれている」「東電の人たちの頑張りで今も便利な生活が維持されている」「国民が望む安全な廃炉のためには東電のもつ専門的な知識や経験が不可欠だ」というような積極的な評価が与えられ、子供たちが「私も大きくなったら、東電に入ってみんなのために廃炉技術を開発するんだ」と語るようになってこそ、志気の低下は防げるのでしょう。
 東電職員の志気の低下は、私たち国民全体の不利益につながることです。決して他人事ではないのです。学校関係者の士気についても同じです。教委が、学校が、校長が、教員が、叩かれ、無能呼ばわりされ、士気を低下させ続けることは、長いスパンで見たとき、国民全体に負の影響を及ぼすことになります。
 教委廃止、校長や教員への民間人の登用、実態に基づかない間違った教員批判など、学校教育に携わるものの志気の低下という視点から再点検してほしいものです。
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いじめと許し

2013-11-15 08:08:12 | Weblog
「いじめと許し」11月8日
 食と家族の研究家である岩村暢子氏が、インタビューの中で小4のときの壮絶ないじめた意見について語っておられました。それは、『弁当がひっくり返され、服やカバンは引き裂かれた。級友から殴る蹴るの暴行を受け、あざだらけ~(中略)~体の成長は止まり、長く後遺症をひきずった』というすさまじいものです。それなのに岩村氏は、『親を助けて線路の石炭がらを拾ったり、漁や畑仕事を手伝ったり』する級友の姿を見て、『彼らも悪の面だけじゃない。とわかっていた』というのです。
 そして45年以上経って彼らと再会し、『ここまで本当に頑張ったんだろうな、つらかっただろうな、と思って。許すでも、水に流すでもない。うまく言えないわね。ただ「わかったよ」という気持ちでした』という境地に達するのです。私には出来ないことです。岩村氏の人間の大きさに頭の垂れる思いです。
 しかし一方で、岩村氏の行為の意味を誤解する人がいるのではないかという懸念も捨て切れません。岩村氏の行為から、「いじめをしている人にも辛い事情がある。だから広い心でいじめを許すことが出来たらよい」というような考えをもたれては困るのです。
 いじめは絶対に許すことも認めることも受け入れることも出来ません。してはいけません。仮にいじめ加害者に、親との別れや難病を患うなどの大きな「不幸」があったとしても、です。許すとすれば、理解するとすれば、それは加害者の心情についてなのです。
 教育相談の要諦を一言で言えば、心に寄り添い行為には毅然と、です。いじめ問題についても同じです。加害者の苦しみにまで思いをいたすことが出来ることは素晴らしいことですが、そのことといじめという行為を肯定することとは全く別の問題なのです。
 いじめ問題への対応としては、被害者の立場に立つことが最も大切なことですが、加害者の心の闇に迫りそこから解放してやることも重要です。しかし、だからといって教員は、「そうか、君も辛かったんだね。だからいじめをしてしまったんだね」と言ってはいけないのです。「そうか、君も辛かったんだね。だからいじめをしてしまったんだね。その気持ちは分かる。先生も涙が出そうだよ。だけど、君のいじめによって○○さんは深い傷を負っているんだ。いじめたことは絶対に許されないことなんだよ」と言わなければいけないのです。
 いじめに許しはあり得ません。あるのは、いじめをした加害者の心情への理解だけなのです。
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学校教育ムラ

2013-11-14 08:02:57 | Weblog
「慣性の法則」11月8日
 専門編集委員の青野由利氏が、『原発慣性力』という標題でコラムを書かれていました。その中で青野氏は、『原発推進システムの層の厚さ~(中略)~「巨大システムだから、ちょっとやそっとでは変わらない」』と書かれています。そして、『様子を見ている間に、原発推進システムは慣性力でそのまま進む』と指摘し、元首相の原発ゼロ発言の重みを示唆しています。
 原発については、「原子力ムラ」の存在が指摘され、様々に批判されてきました。確かに「巨大システム」なのでしょう。そして巨大なものほど慣性の法則で、方向転換が難しいのも事実です。青野氏は、脱原発の動きが進まないわけを、物理の法則に仮託して述べているのです。
 原発と正反対の「軽い」ものがあります。学校教育です。学校教育では、大きな方向転換がたびたび行われてきました。小さな改変は数え切れないほどです。戦後の我が国の学校教育は、数年ごとに系統的な学習観と体験主義的な学習観の間で揺れ動いてきた経緯があります。基本理念さえ、頻繁に変えられてきたのです。
 そして、戦後の学校教育制度の根幹とも言うべき教委制度も、一首長の発言を契機に廃止されようとしています。自治体と学校法人しか設立することができなかった学校を企業が創ることも認められ、既に教委制度が機能しない領域が広げられています。いっこうに慣性力が働かないのです。
 原発は沖縄県を除くすべての国民に関わりがあります。学校教育もすべての国民に関係のあることであるにもかかわらず、この「軽さ」は何なのでしょうか。誤解のないようにつけ加えておきますが、私は教委制度改変に反対ですが、それとは別に一般論として改革が行われること自体を悪いことだと考えているわけではありません。ただ、長い歴史があり、文部科学省や全国の地教委、校長会や教頭会、日教組や全教といった教職員団体など、多くの関係者がいるにもかかわらず、原子力ムラのような層の厚さをもつことができなかった学校教育というシステムについて考えてみただけなのです。
 学校教育を守るため、学校教育もムラをつくるべきなのでしょうか。

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「教員への敬意」はどの敬意?

2013-11-13 07:59:43 | Weblog
「敬意の種類」11月7日
 奈良県立医大健康政策医学講座助教の岡本佐和子氏が、『「敬意を払う」ルール』という標題でコラムを書かれていました。その中で岡本氏は、患者と医療従事者との関係について、『相手に敬意を払って接し、不適切と気付いたら正しましょう』というルールを設けることが大切だと書かれています。
 岡本氏の意見に反対ではないのですが、岡本氏の「敬意」という概念に引っ掛かりました。私はこのブログで、教員に対し「教えることの専門家」としての敬意を払うような「文化」の復興が必要だという趣旨の主張を繰り返してきました。教え-教わるという関係においては、指導者に対する一定の敬意が存在しないとうまくいかないという考えであり、昨今の「学校は教育というサービスを提供するサービス機関」という考え方への懐疑の表明でもありました。
 また、私は岡本氏のコラムを取り上げ、医師や看護師と患者の関係を考えることは、教員と子供の関係を考える際の参考になるという指摘をしてきました。生身の人と人とが向き合って行われる営みという点、専門家と素人という知識や経験値に違いのある立場での交流という点が似ていると思ったからです。
 しかし今回私が使っている「敬意」と岡本氏の使う「敬意」は、微妙に異なるように感じたのです。医師や看護師は、医療の専門家だと思います。私が医療において考える「敬意」は医療や看護についての専門的な知識や技能に対する患者側からの敬意であり、医師や看護師から患者に対しては、理解と配慮が求められているというイメージです。医師や看護師は、同じような症例を数多く経験していますが、患者の多くは「初体験」です。
 患者は自分の病状に対し、初めての経験ゆえの不安、夢や目標への道を絶たれた絶望、なぜ自分だけがこんな不条理な目に遭わなければならないのかという怒り、意志決定を迫られての葛藤、万が一を考えての家族への思いなどで揺れています。そうした心情を理解し寄り添うことが必要なのだと思っています。それは、「敬意」というイメージではないのです。
 同じように、教員が子供に対して抱くべきなのも、「敬意」ではなく、理解と配慮、共感と寄り添いだと思っています。あるいは同じ人間としての尊重と言ってもよいかもしれません。しかし、どうしても「敬意」という概念ではないのです。
細かいことですが気になりました。

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汚染された子供たち

2013-11-12 07:50:15 | Weblog
「叩いた子供」11月6日
 『クラスの全員に担任が「たたけ」』という見出しの小さな記事が掲載されました。記事によると、『高知市立小学校で、2年の学級担任の女性教諭(60)が指導に従わなかった男子児童をクラスメート全員にたたくよう指示していた』ということです。この教員の行為については何の弁解の余地もありません。停職処分を受け自主的に退職するか諭旨免職処分を受けて教壇を去ることになるはずです。通常の体罰では、戒告がほとんどで、再犯や怪我の程度が思いというような事案でなければ、減給にはならないでしょう。でも、私はこの教員には厳罰で臨むべきだと思います。
 私が注目したのは、記事の『約20人の大半は尻を軽く触る程度だったが、顔を平手でたたいた子もいた』という部分です。この顔を叩いた子供が気になるのです。2年生の子供であっても、というかむしろ2年生だからこそ大人以上に強い正義感や倫理感をもっているものです。だから、多くの子供は叩くことをためらったのです。でも、教員の指示にも逆らいたくないという葛藤の中で、尻を触る程度という行動を選択したのでしょう。それが普通です。
 そうした意味で「顔を叩く」という行為は異常です。ではなぜその子供はそんな「異常」な行動をとったのでしょうか。私はそこに担任の悪影響を見てしまうのです。つまり、担任の暴力肯定の価値観、邪魔者や異質な存在に対する排除の論理、子供集団内の上下関係の是認などが、日ごろの教育活動を通じてその子供に浸透していたと考えてしまうのです。
 こうした教員による悪影響は、その「汚染度」を具体的に数値化することは困難ですし、子供が幼いうちは表面化しないこともあります。しかし確実に子供の心を蝕んでいくのです。そして数年後、この教員が担任した学級の子供の中から、いじめを肯定したり、級友をランク付けしたり、弱者への思いやりを欠いたりする子供が出てくるようになるのです。そうなってからでは、その子供を真人間に戻すために長い時間と労力が必要になってしまうのです。そうした長期的な弊害を考えたとき、教員に対して厳しい処分を望んでしまうのです。
 体罰問題を論じるとき、それが子供の価値観の形成にどのような影響を及ぼすか、という視点は重要なものです。

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学校で男女交際学という時代

2013-11-11 07:14:51 | Weblog
「男女交際学」11月6日
 中央大学教授の山田昌弘氏が、『日本人的な「街コン」』という標題でコラムを書かれていました。その中で山田氏は、『「場の空気を読む」ことの徹底が、日本の男女交際を不活発にし、ひいては、未婚化、少子化の原因の一つになっている』と述べられています。社会学者として長年若者の問題に取り組んでこられた山田氏がおっしゃるのですから、おそらくその通りなのでしょう。
 少子化は我が国の経済や財政が直面する最大の課題ですし、未婚化も大きな社会問題です。その解決のために様々な政策が検討されていますし、「街コン」のような民間の試みも増えてきています。しかし、若者の多くが、場の空気を読み、恥をかくのを避け、異性との交流に消極的という傾向が続く限り根本的な解決は望めません。そうであるならば、学校で男女交際を教えましょう、という発想が出てきてもよいように思うのですが、そうした取り組みを聞いたことがありません。
 例えば、中学校段階から、好意の伝え方や楽しいデートのための配慮事項、中学生に相応しい男女交際のマナーやルールなどを体験的に学ぶ場を設けたり、校外学習の際に4対4や3対3の集団デートの時間を設定したり、長期休業中の宿題に「デート」を課題にしたり、というような取り組みです。
 こんなことを書くと、頭がおかしくなったんじゃないかと言われそうです。そもそもお前は性教育にも反対の保守的人間だったのではないかという文句も言われそうですし、学校が子供の私的領域に立ち入ることにも懐疑的だったはずとも指摘されるかもしれません。
 その通りです。そして私は変わっていません。しかし、我が国の風潮、「何でも学校で主義」の横行を目にしてきているだけに、上記のような取り組みが、笑い話や冗談ではなく真剣に検討される時代がやってくるような気がしないでもないのです。アメリカの派イズクールで行われていたようなダンスパーティー的な場が我が国でも一般的になる日がくるかもしれないと思うのです。
 そんな時代になれば、私はもうすっかり過去の遺物です。このブログも止めなければならないでしょう。それは何年後なのでしょうか。


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