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ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

「教員への敬意」はどの敬意?

2013-11-13 07:59:43 | Weblog
「敬意の種類」11月7日
 奈良県立医大健康政策医学講座助教の岡本佐和子氏が、『「敬意を払う」ルール』という標題でコラムを書かれていました。その中で岡本氏は、患者と医療従事者との関係について、『相手に敬意を払って接し、不適切と気付いたら正しましょう』というルールを設けることが大切だと書かれています。
 岡本氏の意見に反対ではないのですが、岡本氏の「敬意」という概念に引っ掛かりました。私はこのブログで、教員に対し「教えることの専門家」としての敬意を払うような「文化」の復興が必要だという趣旨の主張を繰り返してきました。教え-教わるという関係においては、指導者に対する一定の敬意が存在しないとうまくいかないという考えであり、昨今の「学校は教育というサービスを提供するサービス機関」という考え方への懐疑の表明でもありました。
 また、私は岡本氏のコラムを取り上げ、医師や看護師と患者の関係を考えることは、教員と子供の関係を考える際の参考になるという指摘をしてきました。生身の人と人とが向き合って行われる営みという点、専門家と素人という知識や経験値に違いのある立場での交流という点が似ていると思ったからです。
 しかし今回私が使っている「敬意」と岡本氏の使う「敬意」は、微妙に異なるように感じたのです。医師や看護師は、医療の専門家だと思います。私が医療において考える「敬意」は医療や看護についての専門的な知識や技能に対する患者側からの敬意であり、医師や看護師から患者に対しては、理解と配慮が求められているというイメージです。医師や看護師は、同じような症例を数多く経験していますが、患者の多くは「初体験」です。
 患者は自分の病状に対し、初めての経験ゆえの不安、夢や目標への道を絶たれた絶望、なぜ自分だけがこんな不条理な目に遭わなければならないのかという怒り、意志決定を迫られての葛藤、万が一を考えての家族への思いなどで揺れています。そうした心情を理解し寄り添うことが必要なのだと思っています。それは、「敬意」というイメージではないのです。
 同じように、教員が子供に対して抱くべきなのも、「敬意」ではなく、理解と配慮、共感と寄り添いだと思っています。あるいは同じ人間としての尊重と言ってもよいかもしれません。しかし、どうしても「敬意」という概念ではないのです。
細かいことですが気になりました。

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