「彼我の違い」11月12日
『韓国 歴史教科書で論争』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『保守系執筆者による記述が日本の植民地時代や解放後の軍事独裁政権を美化していると批判される一方、左派系出版社よる教科書は保守派から親北朝鮮的だと非難を浴びている』のだそうです。こうした現状を受け、『日本のセンター試験に該当する「大学修学能力試験」で韓国史が必修となる。教科書によって差が出ないよう、教育現場では「再び国定に戻すべきだ」との声が出ている』ということです。
韓国での事例ですが、我が国でも起こりかねない問題です。我が国でも、歴史教科書を巡る論争が続いています。しかし我が国の左右両派に共通しているのは、現時点では、国定教科書に復帰するという選択肢はないという点です。そこが韓国と違う点です。
なぜこうした違いが生じているのかという点については、様々な理由が考えられます。韓国がわが国以上の学歴社会であり大学入学のもつ重みが違うことや、検定教科書制度に改められたから日が浅いことなどですが、それ以外にも、日韓両国の歴史授業のあり方の違いが大きいと思います。
韓国では、学習内容の統一を求める傾向が強いのです。一方、我が国では、教科書を教えるのではなく教科書で教えるという考え方が定着しています。特に、歴史を専門とする中高の教員にこの傾向が強いのです。彼らは自分の「専門性」に高い自負心をもっています。その結果、教科書の記述を無視し自分の歴史の知識や見解を語るという形の授業をしているのです。だからこそ、外部の団体が教科書採択において様々な声明を出し、運動を繰り広げている割に、教員は教科書採択を重要視していないのです。より正確に言えば、教育問題としての教科書採択ではなく政治運動としての教科書採択は重視している人がいるという状況です。
私はあまり教科書を使用せずに、自分流で授業を進めることがよいことだとは思っていません。教員には、教科書使用義務があり、学習指導要領遵守義務があるのですから。ただ、我が国の歴史教育が、韓国に比べある種の自由裁量の下で行われていることは紛れもない事実だということを指摘しているだけです。
私は国定教科書に反対です。学習指導要領というある程度の幅の中で多様な教科書が存在する方が望ましいと考えています。しかしそれが、自分勝手な教員たちの「プチ偏向教育」によって守られていると思うと複雑な思いです。
『韓国 歴史教科書で論争』という見出しの記事が掲載されました。記事によると、『保守系執筆者による記述が日本の植民地時代や解放後の軍事独裁政権を美化していると批判される一方、左派系出版社よる教科書は保守派から親北朝鮮的だと非難を浴びている』のだそうです。こうした現状を受け、『日本のセンター試験に該当する「大学修学能力試験」で韓国史が必修となる。教科書によって差が出ないよう、教育現場では「再び国定に戻すべきだ」との声が出ている』ということです。
韓国での事例ですが、我が国でも起こりかねない問題です。我が国でも、歴史教科書を巡る論争が続いています。しかし我が国の左右両派に共通しているのは、現時点では、国定教科書に復帰するという選択肢はないという点です。そこが韓国と違う点です。
なぜこうした違いが生じているのかという点については、様々な理由が考えられます。韓国がわが国以上の学歴社会であり大学入学のもつ重みが違うことや、検定教科書制度に改められたから日が浅いことなどですが、それ以外にも、日韓両国の歴史授業のあり方の違いが大きいと思います。
韓国では、学習内容の統一を求める傾向が強いのです。一方、我が国では、教科書を教えるのではなく教科書で教えるという考え方が定着しています。特に、歴史を専門とする中高の教員にこの傾向が強いのです。彼らは自分の「専門性」に高い自負心をもっています。その結果、教科書の記述を無視し自分の歴史の知識や見解を語るという形の授業をしているのです。だからこそ、外部の団体が教科書採択において様々な声明を出し、運動を繰り広げている割に、教員は教科書採択を重要視していないのです。より正確に言えば、教育問題としての教科書採択ではなく政治運動としての教科書採択は重視している人がいるという状況です。
私はあまり教科書を使用せずに、自分流で授業を進めることがよいことだとは思っていません。教員には、教科書使用義務があり、学習指導要領遵守義務があるのですから。ただ、我が国の歴史教育が、韓国に比べある種の自由裁量の下で行われていることは紛れもない事実だということを指摘しているだけです。
私は国定教科書に反対です。学習指導要領というある程度の幅の中で多様な教科書が存在する方が望ましいと考えています。しかしそれが、自分勝手な教員たちの「プチ偏向教育」によって守られていると思うと複雑な思いです。