「一つの物語」10月29日
作家の西加奈子氏が、「アメリカにいる、きみ」という本の著者チママンダ・ンゴズィ・アディーチェについてご自身のコラムの中で書かれていました。その中に、『彼女は2009年、TEDという講演会で、壇上に立っている。そこで、シングルストーリーの危険性について話している』という記述がありました。シングルストーリーとは、『ひとつの物語しか見ないことによって、その物語がその世界のすべてだと感じること』だそうです。
私は、シングルストーリーという言葉は知りませんでしたが、この指摘には大いに共感します。シングルストーリーは、分かりやすさという砂糖でコーティングされた毒薬のようなものだと思います。ある対象について、多面的に見、関連付けて考える苦労や努力をせずに「○○は△△だ」と断定できる心地よさの反面、真の理解を遠ざけてしまうからです。
学校教育についても、「ひとつの物語」が静かに毒をまき散らしているように思います。「教員はぬるま湯につかった怠け者」、「リーダーシップを発揮できない校長ばかり」「教委は自己保身のために情報隠蔽ばかりする」という無責任な物語によって、学校を理解したつもりになっている人が多いのです。
こうしたシングルストーリーが厄介なのは、それが「真実」であることです。シングルストーリーに反論しようとすると、「実際に~」とメディアに報じられた実例をもちだされてしまうのです。多くの学校や教員の中の特殊な事例が、それが「事実」であるゆえにシングルストーリーを真実に見せてしまうのです。
証明法の初歩ですが、「白いカラスはいない」という仮説を証明することは、「白いカラスはいる」という仮説を証明することよりも難しいのです。後者は、一羽の白いカラスを見つけてくれば証明できるのに対し、前者は100万羽のカラスを調べすべて黒かったといっても「まだどこかに白いカラスがいるかもしれない」と言われ、証明できないのです。同じように、ひとつの不祥事で、「教員はぬるま湯につかった怠け者」、「リーダーシップを発揮できない校長ばかり」「教委は自己保身のために情報隠蔽ばかりする」という無責任な物語が成立し、反論はかすんでしまうという構造があるのです。
学校教育には、無数の物語が存在します。できるだけ多くの物語に基づいて学校教育を理解し、議論することが必要です。学校教育関係者は、一人一人が物語の発信者にならなければなりません。
作家の西加奈子氏が、「アメリカにいる、きみ」という本の著者チママンダ・ンゴズィ・アディーチェについてご自身のコラムの中で書かれていました。その中に、『彼女は2009年、TEDという講演会で、壇上に立っている。そこで、シングルストーリーの危険性について話している』という記述がありました。シングルストーリーとは、『ひとつの物語しか見ないことによって、その物語がその世界のすべてだと感じること』だそうです。
私は、シングルストーリーという言葉は知りませんでしたが、この指摘には大いに共感します。シングルストーリーは、分かりやすさという砂糖でコーティングされた毒薬のようなものだと思います。ある対象について、多面的に見、関連付けて考える苦労や努力をせずに「○○は△△だ」と断定できる心地よさの反面、真の理解を遠ざけてしまうからです。
学校教育についても、「ひとつの物語」が静かに毒をまき散らしているように思います。「教員はぬるま湯につかった怠け者」、「リーダーシップを発揮できない校長ばかり」「教委は自己保身のために情報隠蔽ばかりする」という無責任な物語によって、学校を理解したつもりになっている人が多いのです。
こうしたシングルストーリーが厄介なのは、それが「真実」であることです。シングルストーリーに反論しようとすると、「実際に~」とメディアに報じられた実例をもちだされてしまうのです。多くの学校や教員の中の特殊な事例が、それが「事実」であるゆえにシングルストーリーを真実に見せてしまうのです。
証明法の初歩ですが、「白いカラスはいない」という仮説を証明することは、「白いカラスはいる」という仮説を証明することよりも難しいのです。後者は、一羽の白いカラスを見つけてくれば証明できるのに対し、前者は100万羽のカラスを調べすべて黒かったといっても「まだどこかに白いカラスがいるかもしれない」と言われ、証明できないのです。同じように、ひとつの不祥事で、「教員はぬるま湯につかった怠け者」、「リーダーシップを発揮できない校長ばかり」「教委は自己保身のために情報隠蔽ばかりする」という無責任な物語が成立し、反論はかすんでしまうという構造があるのです。
学校教育には、無数の物語が存在します。できるだけ多くの物語に基づいて学校教育を理解し、議論することが必要です。学校教育関係者は、一人一人が物語の発信者にならなければなりません。