「浦安だけではなく」11月3日
読者投稿欄に千葉県浦安市の上村一憲氏が、『喜んでいける地元の県立高に』という標題で投書なさっていました。上村氏の投書の内容は保護者として、市民として当然なことばかりです。しかし、その内容からは、今の学校教育にまつわるいくつかの問題点が浮かび上がってきます。
上村氏は、『公立高校の先生は採用試験に合格された優秀な方々なので、生徒がどの高校に入学しても同じ環境で教育を受けられるはずです。低学力の生徒を教える先生方の大変さは分かります。しかし、地元の子供が喜んで入学できるよう学力に応じた教え方などより工夫をしていただければ』と書かれています。
まず、「公立高校の先生は採用試験に合格された優秀な方々」という記述です。確かに彼らは「優秀」です。しかし、高校の教員採用試験は実質的には知的能力を問うものでしかありません。小中高それぞれの教員を比較すると、「偏差値」は高校の教員が一番高いのですが、それは教える能力の高さを意味しているのではありません。露骨に言えば、偏差値や名門大学出身が教員としての能力を保障するものではないのです。多くの人はその点を誤解しているのです。もちろん、小中学校においても、教員の学歴と能力は一致しません。
また、「生徒がどの高校に入学しても同じ環境で教育を受けられる」も間違いです。そもそも学力選抜を実施して生徒が集まる高校では、「同じ環境」はありえません。学校教育において「環境」とは、物的環境、教員、生徒の3つの要素で成り立っています。教育行政がどのような努力をしても、同じにすることができるのは物的環境と教員の能力だけです。この2つは教育予算の計画的執行と教員人事異動の配慮で実現可能ですが、生徒の「質」を揃えることはできないのです。そして、高校ほどではありませんが、小中学校においても、地域格差は厳然としてあり、子供の「質」を同じにはできないのです。
さらに、「低学力の生徒を教える先生方の大変さ」についても誤解があります。授業に臨む準備や授業後の評価などについては、東大入試を目指す生徒が対象であろうが、分数の計算もできない生徒が対象であろうが大差ありません。もし、どちらの生徒も学びたい、新しい知識を得たいという意欲が同じであれば、です。しかし、実際にはそうではありません。教員にとって最も大変なのは、学ぶ意欲のない子供を教えること、言い換えれば学ぶ意欲をもたせることなのです。だからこそ、前述したように、教員にとっては自分の知識や偏差値よりも、教える能力が大切なのです。
最後に、「教え方などより工夫をしていただければ」についてです。実は、高校の教員においては、「教え方」という希薄だという傾向があります。教える方法よりも教える内容を重視する体質と言ってもよいかもしれません。これも、前述したこととコインの裏表の関係にあります。多くの人が教員の高学歴が良い授業を保証するという意識をもっているために教員自身のそう誤解してしまう部分があるのです。そしてこれは、日本中で共通していることでもあるのです。
読者投稿欄に千葉県浦安市の上村一憲氏が、『喜んでいける地元の県立高に』という標題で投書なさっていました。上村氏の投書の内容は保護者として、市民として当然なことばかりです。しかし、その内容からは、今の学校教育にまつわるいくつかの問題点が浮かび上がってきます。
上村氏は、『公立高校の先生は採用試験に合格された優秀な方々なので、生徒がどの高校に入学しても同じ環境で教育を受けられるはずです。低学力の生徒を教える先生方の大変さは分かります。しかし、地元の子供が喜んで入学できるよう学力に応じた教え方などより工夫をしていただければ』と書かれています。
まず、「公立高校の先生は採用試験に合格された優秀な方々」という記述です。確かに彼らは「優秀」です。しかし、高校の教員採用試験は実質的には知的能力を問うものでしかありません。小中高それぞれの教員を比較すると、「偏差値」は高校の教員が一番高いのですが、それは教える能力の高さを意味しているのではありません。露骨に言えば、偏差値や名門大学出身が教員としての能力を保障するものではないのです。多くの人はその点を誤解しているのです。もちろん、小中学校においても、教員の学歴と能力は一致しません。
また、「生徒がどの高校に入学しても同じ環境で教育を受けられる」も間違いです。そもそも学力選抜を実施して生徒が集まる高校では、「同じ環境」はありえません。学校教育において「環境」とは、物的環境、教員、生徒の3つの要素で成り立っています。教育行政がどのような努力をしても、同じにすることができるのは物的環境と教員の能力だけです。この2つは教育予算の計画的執行と教員人事異動の配慮で実現可能ですが、生徒の「質」を揃えることはできないのです。そして、高校ほどではありませんが、小中学校においても、地域格差は厳然としてあり、子供の「質」を同じにはできないのです。
さらに、「低学力の生徒を教える先生方の大変さ」についても誤解があります。授業に臨む準備や授業後の評価などについては、東大入試を目指す生徒が対象であろうが、分数の計算もできない生徒が対象であろうが大差ありません。もし、どちらの生徒も学びたい、新しい知識を得たいという意欲が同じであれば、です。しかし、実際にはそうではありません。教員にとって最も大変なのは、学ぶ意欲のない子供を教えること、言い換えれば学ぶ意欲をもたせることなのです。だからこそ、前述したように、教員にとっては自分の知識や偏差値よりも、教える能力が大切なのです。
最後に、「教え方などより工夫をしていただければ」についてです。実は、高校の教員においては、「教え方」という希薄だという傾向があります。教える方法よりも教える内容を重視する体質と言ってもよいかもしれません。これも、前述したこととコインの裏表の関係にあります。多くの人が教員の高学歴が良い授業を保証するという意識をもっているために教員自身のそう誤解してしまう部分があるのです。そしてこれは、日本中で共通していることでもあるのです。