「認識違い」7月20日
ナレーター近藤サト氏が、『情報の送りての不安救う 街頭インタビューが「尊い」』という表題でコラムを書かれていました。その中で近藤氏は、街頭インタビューについて、『応じる人々は、それが一瞬にして公のものとなるからか、まずうそをつきません。ただ率直に思ったこと、考えていることを素直に話してくれます』と書かれています。
えっ、と思いました。近藤氏が本当にこう考えているのだとすれば、それはとんでもない間違いではないか、と思います。
今、テレビに映っている。私の話すことを多くの人が見聞きする。私のことを知っている人も見るかもしれない。おかしなことを言うと、頭の悪い人と思われてしまう。ちゃんとしたことを言わなければ。このことについて、確か新聞に載っていたっけ、誰かがコメントしていた、何と言っていたんだっけ。そうだ、○○テレビは政府寄りだった、政府に反対の意見だとカットされてしまうかもしれない。等々。
多くの人が上記のようなことを一瞬のうちに考え、普段自分が漠然と考えていたことなどとは関係なく、それらしいコメントを創作する、私はそれが街頭インタビューだと思っているからです。
私がひねくれているだけなのでしょうか。私は、街頭インタビューと授業には共通点があると考えています。授業で、教育相談や面談で、子供の本音、本当の思いを引き出すことは容易ではありません。子供が、一人で頭の中に思い浮かべているとりとめのない感情、家族や友人との何気ない会話で話すような本当の思いを吐露させることができる者がいるとすれば、それは神様級の達人教員だけです。
多くの子供は、対教員の「公式」な発言については、何を言うべきか、何を求められているのか、何が評価されるのか、ということについて無意識に考えています。考えても分からないまま、当たり障りのないことを言う子供もいれば、教員が望む正答や中には教員が望む理想的な間違いについてまで思いを致して話す頭のいい子供もいます。もちろん、黙ってしまう子供もいますが、彼らも言いたいことがないわけではなく、自分が口にしようとしていることが教員や級友にどう受け止められるか分からずに、そのことが不安で沈黙を選んでいるだけなのです。
多くの場合、授業はそうした様々な思惑に基づいた「予想の範囲内」の発言で進められ、それなりのまとまりをもって終了します。これができるレベルの教員は、相当授業力がある教員として評価されるでしょう。しかしそれでも、一人一人の子供が素直に思いをぶつけ合うなどという状況にはほど遠いのです。
もし、教員の中に、近藤氏が街頭インタビューについて考えているように、授業中や指導中の発言について、「一瞬にして公のものとなるからか、まずうそをつきません。ただ率直に思ったこと、考えていることを素直に話してくれます」などと能天気なことを考えている者がいるとしたら、子供というものを全く理解できていないダメ教員だと思います。
マイクを向けたら(挙手をした子供を指名したら)、素直に話してくれるのなら、教員ほど楽な仕事はなくなります。