ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

私だけ?今は違う?

2024-07-08 08:14:37 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「手抜き」7月2日
 読者投稿欄に、山口県T氏による『最高裁の裁判官に望むこと』と題された投稿が掲載されました。私はこの投稿を読んで、自分の教員としての指導について、深く反省させられました。
 T氏は、『私は最高裁判所裁判官の国民審査で、辞めさせたい人に×印をつけたことがありません。無責任なことはできないと思ったからです』と書かれています。T氏は、法律のこと、司法のことについてよく知らない人間が、司法の最高峰に位置に位置する最高裁判事を評価することなどおこがましいこと、出過ぎた振る舞いと考えていたということです。
 もちろん間違いです。主権者である私たち国民は、国権を構成する三権の一つである司法に対しても、評価する権利を有し、その権利を行使することは、民主主義を、三権分立を維持するために必要な行為です。T氏はどうしてそんな勘違いをしてしまったのでしょうか。
 私は、学校における授業、社会科の授業に問題があったから、と考えたのです。T氏は、私が初めて担任した子供と同い年です。私は5,6年生を担任し、社会科の授業で「我が国の政治」について指導しました。国民主権、三権分立、二院制、選挙制度など、指導法に未熟な点があり、一方通行の講義調ではありましたが、きちんと教えたつもりです。でも、今記憶をたどってみると、内閣や国会についてと比べると、裁判所についての扱いはおざなりだったと思わざるを得ないのです。国民審査についての説明は10秒程度、それで全てだったのです。恥ずかしい話です。
 それだけならば、初任者で未熟だったという言い訳もできますが、その後6年生を7回担任し、それだけ「我が国の政治」について指導をしたはずで、しかも社会科の実践家としてそれなりに経験を積み重ねていたにもかかわらず、相変わらず司法については、しっかりと指導してこなかったと思わざるを得ない状況だったのです。そして、これは私に限らず、教員一般に言えることなのではないかと考えるのです。なぜなら、数多くの社会科の研究授業に携わり、参観してきましたが、「我が国の政治」を取り上げた実践を目にした記憶がないのです。
 もちろん、6年生の後半、忙しい時期で研究授業が行われることが少ないということが影響しているのは確かですが、それにしても一般的に深く研究が行われてきた単元ではないことは間違いないと思います。そしてその中でも特に、司法、裁判所についての授業については、十分な研究・実践が行われてこなかったのです。
 国会や内閣については、身近な事柄から政治の果たす機能と役割について体験的に学ぶという実践があるのですが、司法は置き去りという感じなのです。私たちの世代の社会科教員の多くが、司法、国民審査についておざなりに扱ってきた結果が、T氏のような姿勢の大人をたくさん生み出してしまったという後悔の念にとらわれてしまったのです。
  今はそんなことはないと思いたいのですが、どうなのでしょうか。

 

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