ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

習得主義の上を行く

2024-07-26 08:23:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「習得主義の上」7月18日
 専門記者田原和宏氏が、『新たな世界への扉』という表題でコラムを書かれていました。その中で田原氏は、『教育哲学者の林竹二さんは、「学ぶことは変わることだ」と説いた。学ぶことでものを見る目が変わり、生きる姿勢が変わる。ものの見方が変われば、世界も変わる』と書かれていました。
 全くその通りです。このことを逆にいうと、変わらなければ学んだことにはならない、になります。教員は様々な場面や機会に子供を指導します。指導する=学ばせると言い換えることができます。そうであれば、指導前と指導後で子供が変わらなければ、指導したとは言えないことになるはずです。
 我が国の学校では、特に義務教育である小中学校では、履修主義で進級、卒業認定がなされています。何も理解できなくても、その結果子供が何ら成長できていなくても、授業に出席し、自分の席に大人しく座ってさえいれば、進級することが認められ、その積み重ねで卒業していくことができるというシステムです。
 私はこのブログで、履修主義から習得主義への転換を主張してきました。ただ席に座っているだけで進級させるのではなく、その学年、その教科において学習指導要領が定めた内容をクリアした者だけが進級できるという制度にすべきという主張です。その具体的な形として、飛び級と落第制度の導入を検討すべきとも述べました。
 また、100%の習得を基準とするのは現実的ではなく、70%などの基準を設けて、進級の是非を判断するシステムを提唱してきました。そのことは、子供や保護者にとって厳しいものであることは当然ですが、同時に教員側からしても、「あの先生はいつも大量の落第者を出す」という評判が立つことは致命的ですから、厳しい自己研鑽が求められることになり、教員の質の向上、教育の質の向上につながるということも指摘してきました。
 でも、田原氏のコラムを読み、まだ甘かったのだと考えさせられました。私のイメージする習得主義は、習得で終わっていたのです。雑な言い方をすれば、テストで70点をとればOkということです。そうではなく、少数や分数という少し抽象的な数の概念を身に付けた子供が、そのことによって社会の見え方、捉え方がが変わっていくという地点、そこを目指さなければいけないということに気づいたのです。
 社会でも理科でも国語でも、そこまで考えて指導に臨む、そんな教員が理想なのではないでしょうか。難しいですが。

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