ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

評価は不要

2023-08-23 08:26:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「画期的」8月18日
 読者投稿欄に、長崎県H氏による『広がれ通知表廃止の動き』というタイトルの投稿が掲載されました。その中でH氏は、『成長途上の子どもの一時点を切り取り、評価することは子どもの心に深い傷を残しかねない人権問題とも言えるのではないか』と、廃止を望む理由を述べていらっしゃいます。
 とてもユニークな見解だと思いました。通知表廃止を叫ぶ声は少なくありません。しかしその理由は、教員の多忙解消であったり、現行通知票では十分に子供についての情報が伝わらないという指摘であったり、面談や日常的なノートや作品へのコメント、連絡帳を活用した情報提供などの方が優れているという指摘であったりします。
 これらに共通しているのは、学校における学習や行動に対する「評価」を子供自身や保護者に伝えることは必要である、という立場です。しかし、H氏は、「評価」を伝えることは、子供を傷つける人権問題であり、不要だと言い切っていらっしゃるのです。
 なお、本題とはずれますが、私が「評価」と「 」をつけているのは、教育的な意味からすれば、通知表によって伝えられるのはむしろ「評定」と呼ぶべきであるという思いがあるからです。「評価」は、授業中にも、一つの発問、一つの学習活動の度に行われるべきものであり、ABCというようなランク付けではなく、「○○さんは、今の質問の意味を理解せず、違う捉え方をしている」と判断し、新たに別の表現で質問を発する、というようなイメージです。評価のない指導はあり得ず、指導→評価→指導→評価という小さなサイクルで授業は成り立っているのです。ですから、評価のない教育活動はあり得ません。
 本筋に戻ります。H氏が主張するように、評価もしくは評定することは、子供を傷つける行為なのでしょうか。分かりやすく言えば、「褒める」ことも評価の一つです。「頑張ったね」「よくできているね」「面白い発想だね、先生も勉強になったよ」などと言う言葉をかけられたとき、子供は傷つくのでしょうか。
 あるいは、「褒める」ことはよいが、叱る、間違いを指摘するような行為、つまりマイナスの評価や評定は、子供を傷つけるから止めようということなのでしょうか。そうだとしたら、間違いを指摘することなく教育が成り立つのかという根本的な疑問が浮かび上がってきます。
 また、H氏は、「成長途上の子どもの一時点を切り取り」と述べていますが、一時点を切り取らない評価や評定というものがあり得るのでしょうか。もしあるとするならば、それはその人間を生涯不変の存在として評価・評定するということになります。言い換えれば、悪い奴は一生悪いまま、という人間の成長や変化を無視する発想になります。その方が恐ろしいと思うのですが。
 H氏の主張、真意はどこにあるのか、掘り下げてみる価値がありそうです。

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