ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

レッドラインまで

2018-08-07 08:07:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「見捨てられる前に」8月2日
 京都精華大専任講師白井聡氏が、『道徳的言語より事実と論理を』という表題でコラムを書かれていました。我が国の国会について、『今国会を通じて戦後日本の議会制民主主義は死んだと断言しても差し支えない』と断言する白井氏は、M紙の佐藤政治部長の文章にも苦言を呈しています。
 『「国会議員と官僚の一人一人が自らの良心に照らし、統治機構の危機的な状況を立て直す必要がある」と結ばれているが、違和感を禁じ得ない。彼らの「良心」? 存在しないものに期待を寄せることなどできない。正論が通じる相手ではないことをメディアは自覚すべきだ』という過激なものです。つまり、白井氏は、国会議員と官僚を見放したのです。良心のない化け物として。
 私も、今国会における与党議員と内閣を構成する政治家、官僚の言動についてはあきれていますが、白井氏ほど突き放した見方はできません。それはともかく、ここまでの低評価を受けるようになってしまっては、信頼回復など望むべくもありません。
 教委はどうでしょうか。学校はどうでしょうか。教員はどうでしょうか。多くの国民から、保護者や子供から、「彼らの良心などに期待を寄せることなどできない」と言われるレッドラインまで、あとどれくらいあるでしょうか。同じ日の紙面には、教え子の小3女児を校内で暴行した教員の記事が掲載されていました。一人の教員のこうした行為が、国民の教員や学校に対する意識をまた一歩レッドラインに近づけていくのです。
 学校教育は、学校と保護者、教員と子供、教育行政と国民など、いくつもの信頼関係によって成り立っています。善悪はともかく、他の行政分野と異なり、制度や規則、法的な権利義務関係などに拠る部分が少なく、明示化されていないあやふやな「信頼」や「善意」などを原理とし、「指導」や「お願い」、「傾聴」や「話し合い」によって営まれているのが、学校教育なのです。それだけに、「信頼」がなくなり、学校や教員と保護者や子供が仮想敵のような関係になり、事実を突きつけ訴訟で決着をつけるような一般的になれば、教育は機能しなくなるのです。
 全ての教員が、自分の力量不足、自覚のなさ、問題行動などが、「信頼」という大木を少しずつ腐らせ、やがて倒壊させるということを肝に銘じ、職務に当たってほしいと思います。

 

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