ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

忘れられても

2018-08-08 08:34:57 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「そうだ!」8月2日
 特集ワイドの見出しは『「友だち幻想」10年を経て再注目』でした。「友だち幻想」とは、元宮城教育大教授菅野仁氏の著書です。私は読んだことがなかったのですが、その内容は、『苦手な相手とは無理に仲良くなろうと頑張らなくてもよい』『気の合わない人とでも一緒にいる作法を身につけることが必要』というようなものだそうです。
 これは私がこのブログで再三触れてきた主張とぴったりと重なります。私は、級友はバスの乗客という例えで説明をしてきました。学級は子供自身の意思に関係なく、大人の都合でつくられた集団です。気の合う人ばかりではないのは当然です。だからといって、ケンカや言い合いばかりしていては、学級内は不愉快な状況となり、自分にとっても良いことは何もありません。バスに乗り合わせた乗客も、自分で選んだ仲間ではありません。だからといって、「薄汚いはげ親父」「騒がしいガキ」と気にくわない奴をにらみつけていたのでは、短い時間でも不快です。
 加齢臭のする「はげ親父」を好きになることはできないでしょう。そこで、小社会の中で平穏に過ごそうとするならば、無理に好意をもとうとすることなく、ただマナーやルールを守り、隣に座るときには小さく会釈をしたり、ふらついて足を踏みそうになったら「ごめんなさい」と言ったり、席を譲られたら「ありがとうございます」と微笑みかける、といった「作法」を身につけることが必要だと説いたのです。そしてそれは、学級という小社会においても同じだと。
 このことは、拙著「断章取義」の中でも繰り返し述べているので、興味のある方はお読みください。今回、私が注目したのは、菅野氏が書かれているもう一つの言葉です。『先生は生徒の記憶に残らなくてもいい』というメッセージです。
 この場合の記憶とは、「良い記憶」を指していると思われます。殴られたとか不当に怒られたとか、贔屓されたというような記憶を残す教員であってはいけないことは当然であり、わざわざ書くようなことではないからです。「いい先生だった」「先生と出会ったから今の自分がある」「先生が味方でいてくれたからいじめに耐えられた」というような類の「記憶」を指しているのです。
 教員の中には、こうした「良い記憶」に残ることが、教員としての評価であると考えている人が少なくありません。「自分の講義を聴いて、たった一人でも歴史の道へ進もうと考える生徒がいてくれたら教師冥利に尽きる」というようなことを真顔で言う人を何人も知っています。大勢に薄い印象しか残せない教員であるより、一人(もしくは少数)に強い影響を及ぼすことに価値を見出す教員観です。
 昔ながらの徒弟制度であるならばそれもよいでしょう。しかし、公立校の教員は、広く薄くを目指すべきだと考えます。強烈なエピソードが、その子供を変えるということは確かにあります。しかしそれは結果に過ぎません。最初から、意図的計画的に、強い印象を与えようとして教育活動を行うことは危険ですし、洗脳と紙一重の行為です。
 小学校の教員であれば、ほぼ全員の子供が、少数の四則計算ができ、教科書をつっかえずに読むことができ、15分間くらいは椅子に座って静かに話を聞くことができ、45分間に  400字程度の文章を書くことができるように能力や習慣を身に着けさせることに全力を注ぐべきなのです。ある程度教員をしてきた人ならば、これらのことが決して容易ではないことを身をもって理解しているはずです。そして、1年生の時には5分間も静かに話を聞くことができなかった自分が、15分間落ち着いて話を聞けることができるようになったことを「良い記憶」として大人になっても持ち続けている人はいないものです。
 しかし、本人が気がつかなくても、上述したような読み書き算盤的な基礎は、その子供の将来を大きく拓く基盤となっているのであり、それこそが義務教育、小学校教員の使命であり、評価されるべきことなのです。私はできませんでしたが。
 地道に指導に当たり、もし教員が意図しないところで、「良い記憶」を与えていたとしたら、それを望外の喜びとすればよいのです。

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