ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

引き際を考える

2020-03-07 08:43:12 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「誰も……、どうする?」3月2日
 『学校とわたし』欄で、大和証券グループ本社社長中田誠司氏が、小学校時代の恩師の思い出を語っていらっしゃいました。『授業中に口笛の音がした時のことです。池田先生は「誰だ」と聞きましたが、誰も名乗り出ません。先生の怒りはエスカレートし、とうとう授業を中断。それほどまでに怒る姿は見たことがなく、みんな戸惑いました。「全員目をつぶれ。吹いた者は正直に手を挙げなさい」と言われて、私が手を挙げ、授業は再開されました』というものです。
 実際の「犯人」は中田氏ではなく、30年後の同窓会である女性から「私だった。中田君が手を挙げてくれて助かった」と言われたというオチが付いていました。この池田先生について中田氏は、『人格の基礎を形成する小学校時代に池田先生と出会ったことが、私にとって本当に重要だった』と回想し、『誰も正直に言わないことを先生は怒った。誠実であることの大切さを伝えたかったのだと思います』と評価しています。ちなみに、中田氏の母親も、『「すごく目にかけてくれる先生だ」と感謝していました』といいますから、大人の目から見ても立派な教員だったのでしょう。
 でも私はこのエピソードに素直に感激することが出来ないのです。もし、誰も手を挙げなかったらどうするのか、ということを考えてしまうからです。私の経験からすると、こうしたケースで手を挙げる子供がいることは極めてまれです。私もテレビドラマ等の影響で、新卒のころにこうした手法をとったことはありましたが、すぐに止めてしまいました。引っ込みがつかないからです。
 大いに怒り、級友の目があるから正直に名乗り出ることが出来ないのだろうと目を閉じさせる、でも誰が薄目を開けて見ているか分かりません。机に顔を伏せさせるという指示を出すこともありますが、隣の子供であれば気配で分かってしまうこともあります。そもそも、手を挙げるということは、悪いことをした上に訊かれても黙って誤魔化そうとしたという罪までも認めることです。手を挙げられないのが人間の弱さであり、当然なのです。
 それでは次に、授業中断という非常手段に訴えた教員は、誰も名乗りでなかったとき、どのように授業を再開すればよいのか考えてみましょう。しばらく待って、「誰も手を挙げないのか、じゃあ仕方がない」と言って授業を再開するのでは、教員の怒りが軽くなってしまいます。それは今後の学級経営や生活指導に悪影響を及ぼします。
 だからといって、授業が終わるまで我慢比べをしても意味はありません。次の授業も、その次の授業も目を閉じたままで終えることは出来ません。まして翌日まで持ち越すことなど出来ません。そんなことをすれば大問題になり、校長から指導を受けることは確実です。強制的に授業を再開させられるという醜態をさらすことになるのです。
 また、今回の「成功」した、中田氏の件に限ってみても、疑問はつきません。中田氏は『誠実であることの大切さを伝えたかった』としていますが、罪の告白をせずに切り抜けることが出来た同級生の女児は、嘘を突き通せばばれないという教訓を学んでしまったかもしれません。その女児の前後左右の子供が女児が「犯人」であると知っていた場合、やはり同様に証拠がなければ知らんぷりという処世術を学んでしまったかもしれません。大人(教員)なんてちょろいもんだという考え方を身につけてしまったかもしれません。いいずれにしろ人格形成としては大失敗です。
 出たとこ勝負、丁か半かでは教員の仕事は勤まりません。常にこうなったら次にどうするかを考え、「退路」を確保して臨むのが基本です。授業中の口笛が許されないと考える訳を分かりやすく説明し、口笛が聞こえたときの自分の気持ちを率直に吐露し、しばらく子供たちの顔を見つめ、じゃあ授業を続けようと宣言する、その程度が穏当だと思いますが、いかかでしょうか。

 

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