浜野巌治


博多湾の浜辺に住む頑固ジジイです。

雲仙火砕流15年

2006年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム

雲仙普賢岳が噴火を続け、小規模の火砕流を頻発していたが、15年前のきょう、大規模な火砕流が山麓に流れ下り、取材陣、消防関係者などが犠牲となった。 私は現場を離れ、別の会社に出向していたが、火砕流による被害については少し勉強していたので胸が痛んだ。阿蘇の噴火を体験し、幼いころから小規模の地震にはしばしば遭遇したおじいは火山や地震については、本能的な恐怖を持つ。

およそ200年前、“島原大変肥後迷惑”と呼ばれた死者15000人という火山活動が引き起こした雲仙火山による大災害を調べたことがあった。おじいの父が生まれた村は有明海を隔て、秀麗な雲仙岳と向かい合っている。

ある日、海の向こうに見える雲仙・眉山が突然、海に崩れ落ちた。標高800mを越える山の三分の一が有明海へすべり落ちるという想像もできないことが起こった。(地震や噴火活動が続いていたが、山が崩壊するとは誰も予想しなかった。眉山の崩壊は地下水の上昇が原因と考えられている。)有明海の海水は対岸の熊本県沿岸、天草諸島、福岡沿岸へ一気に津波となって押し寄せた。有明海は盥(タライ)のような海だ。津波は熊本沿岸から今度は島原半島へ押し戻し、さらに、熊本沿岸をさらに繰り返し襲ったと伝えられている。

おじいの父が生まれた村も巨大な津波に襲われた。津波は海岸の家々を破壊、小さな渓流を遡り、谷沿いの家も飲み込み、山をかけ登ったという。村に観音堂がある。地図で見ると海抜30mを少し越える。津波はこの観音様の下まで来たと伝えられている。おじいの父が生まれた家は観音堂より低い場所にあるから、おそらく波に持ち去られたことだろう。

200年の年月は地球にとっては一瞬のくしゃみなのかもしれない。

ジャワ中部地震の犠牲者は6200人、ケガをした人3万人、家を失った人13万人。環太平洋のユーラシア大陸側で、火山の噴火、地震が続いている。


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