昭和28年6月25日から26日にかけて、熊本市を貫流する白川が氾濫、死者行方不明者537人という大災害となった。このとき、福岡県の筑後川も氾濫、門司では山崩れが発生、多くの犠牲者が出た。
あの日、おじいは高校1年生、叩きつけるような雨の中を自転車で自宅へ急いでいた。午後4時過ぎ、白川と坪井川を分ける石塘(いしども)と呼んだ堤防上を走った。濁流は自転車より早い、もう堤防すれすれ、川の中央部分は濁流が盛り上がり、自転車で走るおじいの目線と同じくらいの高さにある。ゴウゴウとすざましい音。もう傘など差していられない。今にも、走っている堤防が壊れるのではないかと恐怖がはしる。懸命に家に戻った。と、間もなく、家の下流500mくらいのところで堤防が決壊!濁流が県道に沿って川上に押し戻ってきて、家の床下を洗い出した。夕暮れが迫った。
まもなく、白川は氾濫を起こし、熊本市の大半が濁流に洗われた。熊本市の上流部、喉首にあたるところに子飼橋(こかいばし)があった。この橋はコンクリート造りの橋脚の多い橋だった。阿蘇などから押し流した流木、流された家が橋脚に引っかかりちょうどダムのように濁流を堰き止めてしまった。濁流は橋の両側にあふれ出し、左岸大江町側では200mあまり岸を削り、200戸の住家が住む人もろともに押し流されてしまう惨事となった。右岸側では一夜塘(いちやども)と呼ばれた場所にあった床屋さんが1軒丸ごと電車通りを1キロ以上流された。熊本市は濁流に沈んだ。おじいの家は幸い、床下浸水にとどまった。
6月25日から26日にかけて降った雨は凄まじかった。1日の降水量、熊本市411ミリ、阿蘇432ミリという記録がある。“集中豪雨”だった。阿蘇では数日で1000ミリ降ったとみんなで驚いた記憶がある。
いまも、福岡県や長崎県、熊本県などには大雨洪水警報が出ている。発達した梅雨前線が停滞し、激しい雨を降らせている。この3日、多いところではすでに300ミリを超えている。
福岡は玄界灘上に雨域、熊本県中央部に豪雨が降っているもよう。
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