創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会に未来はあるか?-7

2019-02-24 09:05:54 | Weblog

 〈「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相 〉  1979/昭和54
創価学会に未来はあるか     藤原弘達/内藤国夫    曰新報道出版
    ------(P.38)---(以下、本文)-------

◆ 興から亡の時代へ
藤原 これからどういう形で生き残るにしろ、やはり率直にいえば、池田大作の時代という、一つの時代は終わつたんだ、といえるなぁ。
内藤 どうやら、そのようですね。だからぼくは創価学会にとって“興”の時代が終わって“亡”の時代に入ったと。藤原さんはもっと前からいっていましたが、あれにはずい分学会の人たちは力チンときていたようですよ。絶対に“亡”はない。もし、“亡”にならなかったら、内藤さんはジャーナリストとして責任をとれ、という声も耳に入ってくる。
藤原 ぼくは、すでに“興亡”を論じる時代から“末法”“滅法”の時代に入ってるんじゃないか、といったと思うんだが(笑い)。
内藤 興亡の亡の時代に入ってる、というのは、実は、ぼくの観方というよりも、学会の幹部がぼくにそういってきてるんですよ。
藤原 それは“政教分離”を口にした時に、既に起こっているんだ。たてまえ上も、戦後の国家の最高機関である国会・公明党という尖兵を送って権力とつながっているんだ、といった立場をとっていたのが、日蓮正宗のいうところの現証になっていた。ところが、たてまえ上もこれを別にしなくてはならない、ということになると、1つの力が二つに割れてしまう。当然、社会的なインパクトの力が弱まる。池田大作にしても、外見上は皆が押してくれれば政治に出てもいい、といったポ—ズだったが、内心は猛烈に政界に出たかったに違いない。それが、あの言論妨害事件でチャンスをつぶしてしまった。他にも、折伏と選挙が今までのようには直結できないというマイナスも出てくる。彼らの選挙活動、布教活動にはものすごいマイナスになっていることは間違いないなぁ。

内藤 もうひとつはリーダーの継承の仕方がある。東本願寺の場合は、親鸞上人の血縁が代々リーダーを続けているわけでしょう。その血を引いた人で、何代目かにバカ殿様が出てくると、必ず東本願寺は揺れたりする。今の十年扮争も、そういう揺れ方でしょう。
 血縁者が連綿として続く、というのもトラブルのもとになりうるけど、今度の日達上人から阿部上人への継承にみられるように、日蓮正宗では血脈相承といって、他の宗教団体にはない継承方法をとっている。これは我々の正しさの証明なんだ、と自慢しているわけですけど、ようするに血縁でなく、信仰のつながりでリーダーが継承されていくのが特徴です。
 まったく同じことが創価学会にもみられるわけで、もし池田大作さんが自分の息子を次の会長にしょうと画策したりすると、きっとトラブルが持ち上がるに違いない。というのも、池田さんが死んだから現在の北条会長が選ばれたのではなく、池田さんが自分の誤ちを一切認めずに、あいまいに形式的に引退のポーズをとつたので、そこにいろんなマサツが生じる。

 全宗門が批判しているのも、池田大作さんは間違いを犯したんだということを、学会員にもっとはっきり知らせろということです。今のように池田大作さんはあくまでも正しかったんだというのでは、じゃあなぜ会長の座を降りねばならなかったんだ、という素朴な疑問にさえ答えられない。
 そういった意味では、ぼくは自民党の派閥抗争の方がまだしもましだろうと思うんですよ。

 というのも、自民党の場合は、ともかくも我々の眼に見えるわけだ。次のリーダーがなぜ三木さんから福田さんになり、さらに福田さんから大平さんになったかが国民によくわかる。そういう派閥のリーダーの選ばれようが必ずしも百パーセント正しいというのではないが、自民党に派閥があるのはマイナスだけではない。派閥間抗争が公然化し表面化しているのは、シニカルにいえば自民党の良さ、安心できる面でもある、とさえいえる。
 ところが創価学会の場合、リーダーが池田さんから北条さんに突如変わる。しかも、その背景や理由は、あいまいにぼかされたままだ。とすると、我々にはかえって、眼に見えない裏面での陰惨な権力闘争のような疑惑さえ感じられてくる。
藤原 池田は自分の子供を、本当に会長にしたいと思ってたのかネ。
内藤 少なくとも一時期、創価学会の内部では意識的に演出されていましたからネ。池田さんの出席できない集会や会合に、会長代理ということで、かなり頻繁に顔を出したりしていましたから。
藤原 惜しいというのは、財産だろうし、権威だろうし、今日の学会を自分でつくったという意識だろうネ。
 だいたい日蓮という人物は、生涯で数えきれないほど予言しているんだが、例の元寇以外は全部はずれているんだ。ところが、どんなに予言がはずれても、基本的には絶対間違いを認めない。そういう無謬性の信念が日蓮の原点にある。だから日蓮正宗というのは、最終的には一人一派、一人ずつでしか担えないのじやないかと思う。ところが日蓮のある面での偉大さは、一切の宗派を作ることを否定している点なんだ。大作はこの日蓮の教えに反する大謗法ということになるんだ。

内藤 宗教とか信仰というものは、一人で信心すればいい、というのを否定したのが創価学会なんですよね。彼らは集団で信じることを重要視し、集団化して、集団で酔って膨らんでいった。ところが、宗教の根本は一人になっても信じるかどうかである、その辺にもジレンマがあるようです。
藤原 日蓮の時代は、宗教と政治という社会的な力というものが一体であるのが普通だったんだよ。宗教それ自体は一人一人の内面的なものが原点であるとすれば、日蓮宗というのは、それをブチ破ろうとしたところに、あの時代における画期的な意味があるんだ。そこが日蓮宗と他の宗教との根本的な違い、独自性でもある。曰蓮は大師になりたかったし、鎌倉幕府のコンサルタントにもなりたかったと思うんだよ。そうしないと、自分のいっていることすべてがダメになったんで、身延へ引っ込んでしまった。そこで今度は国立戒壇へもっていかなくちゃいかんと、新しい使命感はもっとるんだ。

 だから創価学会としては会員をふやし、信者をふやし、公明党をつくって権力に肉迫して、そういうことを正当化せざるをえない。そこへあの言論出版妨害事件で、たてまえ上は分離して別のものになった。そうすると、今度はどんな現証、ご利益を与えるか、といった新しい難題が残されてくる。
内藤 そうすると、やはり言論妨害事件以後、亡の時代に入ってるということになりますか。
藤原 ぼくはさっきもいったように、十年も前から亡だと思っている。むしろ今や末法、滅法だよ。どんなにかざりたててみても、中身はゴミのようなものさ(笑い)。
     ----------(次回に、つづく)---------43

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