創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田大作・創価学会 を打倒せよ!!-33

2019-02-07 07:26:45 | Weblog

 <教団を歪め私物化する池田大作の悪業を糾弾する!!>
創価学会・池田大作打倒の反乱  1989/2  段 勲  青年書館
    ------(P.143)---(以下、本文)-------

2 世襲制を目論む組織の私物化
◆ 信仰歴も実績もない長男を幹部に登用し後継者への布石に内部から反発の声
 昭和六十二年八月二十二日、東京・荒川で開催された「八月度全国幹部会」で、池田大作名誉会長の長男・博正氏が、突然、副青年部長に任命された。
 同会組織内で、幹部に昇進していく条件は、第一に過去の活動実績が重視される。
 活動実績とは、具体的には、まず何年に入信したかという信仰歴、あるいは何人の人を“折伏”したか、その世帯数、また教学力、指導力、むろん、公明党選挙支援活動の真剣さも、幹部昇進へのバロメーターにされる。

 ところが池田博正氏は、確かに池田大作氏の長男だけあって、信仰歴は、母親の体内にいたときからだろうが、ほかに幹部登用の条件に見合うこれといった実績はほぼゼ口に近い。
 昭和二十八年四月、池田大作^香峯子(本名かね)夫妻の長男に生まれた博正氏は、慶応大学を卒業後、関西創価学園女子高の社会科教員になっていた。
 前出した故・次男城久氏は幼少時代から“大鵬”とか“デブチン”のアダ名が付けられ、なかなか元気な子だったというが、その点、長男の方は、次男よりは線が細く、性格的には学究肌。
 やはり巨大組織を引っ張っていくには、おとなしい長男より、体格も良く太っ腹の次男の方にと、池田氏の期待があったのかもしれない。しかし、その次男が急死したことで、長男が急に浮上してきた、ということであろう。
 博正氏が、副青年部長に任命されただけではない。創価学園の常任理事、さらにはSGI (創価学会インターナショナル)会長秘書の任命と、相次いで同会組織の重要ポストについていくのである。
 創価学会が創設されて以来、組織活動に実績のない会員が、いきなり要職に任命されるという例は、ただの一例もなかった、創価学会の幹部は「責任職」というのが建前であり、池田氏自らもこう言っている。
      ☆     ☆     ☆
 「指導者の地位は、決して華美に包まれた安楽椅子ではない、民衆に対する重い責任を担って、血と汗を流しながら切り開き、築きゆく苦難の道である」(『指導要言集』池田大作著)
 副青年部長という青年部ナンバー2の地位は、少なくとも博正氏が、池田氏の言う「血と汗を流しながら築いた苦難の道」ではありえない、幹部登用の“条件”である「責任職」といった創価学会六十年余の伝統を、池田氏が自らの手で破ったことになる。しかも、それは自分の息子のためであった。

 せっかくのこうした誇りとする伝統に、池田氏は汚点を残した。口には出さないが、大半の創価学会幹部も、博正氏のこの人事に不審感を抱いていることであろう。実際に筆者も、博正氏の幹部登用問題について、現職の学会幹部たちから多くの不満の声を聞いている。
 組織内に、こうした反発を予知してまで、池田氏はなぜこのような自ら荒波を立てる行動に出たのか。
 理由はひとつ、世襲の“布石”である。
 池田氏はこれまで再三にわたって、「創価学会は、世襲制を永久にとらない」と、明言してきた。しかし、池田氏の二枚舌、その時々で考えがコ口コ口変化するのはつとに知られているところだが、ちなみに、有名なところでは、公明党の衆議院進出がある。
 池田氏は、「創価学会は、参院には出るが、衆院には出ない」と公言していたが、実際はごらんの通りである。

 昭和四十年、「正本堂」建立時にも、「これが最後の御供養。以後、会員から一銭の御供養も受けない」と言ったはずだが、実際は、あの三百五十五億円集めた正本堂の供養が、会員にとって、最後の供養どころか、学会に金を出すスタートになった。
 ことほどさように、池田氏の「世襲」否定も、にわかに信じがたい。よしんば、組織の会長にまではしなくても、長男の博正氏には相応のポジションを与えることであろう。これが、大橋代議士たちが批判するところの信仰の私物化、創価学会組織の私物化である。
 池田家の私物化について、最後にもう一例あげよう。

日頃、組織活動もせず何の役職もない池田夫人が学会の公の場に顔を出す
 前項でも述べたが、創価学会の組熾人事は、最高幹部の肉親だから、あるいは財閥、貴族の出といった特権階級が理由で、いきなり幹部役職名を与えられるということはない。
 現在、組織のトップに君臨する池田大作名誉会長以下、秋谷栄之助会長、それに百人を超える副会長にしても、一人の例外もなく創価学会の一会員から組織活動に従事し、今日の地位を築いたのである、
 それというのも「学会が妙法を主体とする組識である以上、いかなる人とはいえども、御本尊の前においてはことごとく平等であるはずであります」(『池田会長講演集』第一巻)という信仰上の不文律からだ。
 ただ特例として、池田氏の長男・博正氏の幹部登用によって長年のこの慣例が破られた。そしてもうひとり、香峯子夫人の場合もそうである。
 香峯子夫人は本名を「かね」といい、昭和七年二月、白木薫次・静の次女に生まれている。池田大作氏との出会いは、昭和二十六年、彼女が住友銀行の東京・有楽町支店に勤めていた十九歳のOL時代である。彼女も学会員であった。
 「妻が、私の目の前に一人の若い女性として急に浮かび上がってきたのは、昭和二十六年の夏のことである」(『私の履歴書』池田大作著)
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 これが交際のスタートで、翌年の二十七年五月に結婚。二十八年四月、長男、博正氏が誕生したが、博正氏の名付け親は、当時、創価学会の二代会長であった戸田城聖であった。
 さらにこの年、戸田氏から、『妻にも、良い母になるようにと、かねから香峯子に変えたらと名をいただいた」(前出、同)
 ちなみに池田氏も、夫人が改名した年の昭和二十八年十二月、それまでの太作から、今日の大作に改名している。
 さて、香峯子夫人だが、とくに最近、あまり評判はかんばしくない。先に、池田氏の「御本尊の前においてはことごとく平等」という言葉を紹介したが、たとえば四代会長の故・北条浩氏の弘子夫人にしても、現会長の秋谷栄之助氏夫人にしても、組織トップの会長夫人とはいえ、学会活動に従事し、婦人部の最高幹部の職にある、
 ところが、池田夫人だけは“御本尊の前”では特例だった。とくに池田氏が第三代会長に就任した昭和三十五年五月以降、組織活動から離れて主婦専業になり、学会組織から池田香峯子の名前が消えた。
 それでも組織間では“日本一多忙な指導者の妻”として尊敬され、信者でありながら、学会活動に従わないのも、むしろ当然という別格扱いであった。
 こうした主婦専業のかたわら、香峯子夫人の対外的な仕事といえば、時折、婦人誌などの新年号で「夫を語る」といったインタビュー記事に登場する程度である。

 その控え目な香峯子夫人が、機関紙「聖教新聞」や「聖教グラフ」に登場するようになったのは、昭和四十年後半頃からである。
 池田氏が海外に出るとき、同伴したのが最初であった。しかし、当初、いくら会長夫人とはいえ、日頃、組織活動にも参加せず、まして、なんの役職も持たない夫人が、海外指導の池田氏に同道するのは、信仰上おかしくないか、といぶかる声もあった。
 それでも、池田氏の場合、海外で要人からパーティーなどの招待を受けたときなど、夫人同伴でないと失礼にあたるといった理由から、香峯子夫人の海外同伴だけは、暗黙のうちに了解されたらしい。
 それでも、香峯子夫人が組織活動上、晴れの舞台に出て、機関紙などに紹介されるのは、池田氏との海外旅行同伴時に限られていたようだ。ところが昭和五十年代に入ると、控え目な香峯子夫人の姿が、ひんぱんと組織に登場し始めた、とくに婦人部の幹部会では、会場では、婦人部最高幹部と肩を並べて上座に位置し、同じように、婦人部幹部の記念撮影会などでも、池田氏が常にそうであるように、香峯子夫人も、前列中央の椅子に座るようになった。
 写真撮影会など、誰がどの位置に座ろうがー向にかまわないと思うが、創価学会の場合、このあたりの席順がきわめて厳格なのだ。どのような記念撮影でも、もしその場に池田氏がいれば、最前列中央が池田氏の定席である。
 その両脇に、組織のナンバー2の秋谷栄之助会長と、ナンバー3の森田一哉理事長、以下、同じ役職の副会長職であっても、池田氏に近い順に和泉覚、辻武寿、山崎尚見各氏など古参から順に座る。幹部会など、各会合の場合でもこの席順は変わらない。
 こうして、会合の席順まで“信仰戒律”を厳しく守る創価学会である。それがなんの役職も持たない香峯子夫人が、会合では上座に座り、記念撮影会などでも、婦人部幹部を脇に押しのけ、中央の椅子を占めるようになった。こうした香峯子夫人の態度を見て、アンチ池田派は、池田氏の組織私物化の現われとして批判しているのだ。
     ----------(次回に、つづく)---------149

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