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終戦後の旧満州などからの引き揚げ時に性暴力を受けて妊娠し、人知れず中絶手術を受けた女性たちの被害:中絶手術は秘密裏に行われたためその資料はほとんど残されず

2024-09-14 00:01:50 | 安倍、菅、岸田の関連記事
戦禍の中絶手術 埋もれたままの性被害 NHK 2024年9月13日 19時30分

戦後79年、当事者が語ることがなかった戦争被害があります。

終戦後の旧満州などからの引き揚げ時に性暴力を受けて妊娠し、人知れず中絶手術を受けた女性たちの被害です。

中絶手術は秘密裏に行われたためその資料はほとんど残されず、女性たちがその事実を語ることもなく、埋もれたままになった被害。

わずかに残る手がかりをもとに関係者への取材を重ねる中で見えてきたのは、性暴力を受けた苦しみに加え、社会からの偏見や差別の中で、苦しみを幾重にも抱えた女性たちの姿でした。

(社会部記者/現首都圏局ニュースデスク 小林さやか)

秘密裏の手術打ち明け、この世を去った医師
昇勇夫さん(2017年撮影)
「終戦直後、性暴力にあった女性への中絶手術が人知れず行われていた」

7年前、ある1人の医師が初めて私たちのカメラの前で明かしました。

鹿児島県に住む産婦人科医の昇勇夫さん、当時101歳です。

終戦後の1946年から翌年にかけて、佐賀県内の国立療養所で、佐世保港などから引き揚げた女性たちに対して、当時、法律で禁止されていた中絶手術を行ったというのです。
昇勇夫さん
「国が負けておいて、犠牲になったのは女性でしょう。彼女らはあまりにかわいそうだから。中絶手術が禁止されているのは承知の上で、罪をかぶってでも女性たちを助けたい。そういう気持ちが先にあったんだ」
家族にさえ話したことはなかった経験を語った翌年、昇さんはこの世を去りました。
引き揚げ時に相次いだ性暴力
1930年代以降、今の中国東北部の旧満州などには開拓団などで多くの日本人が移り住んでいました。

1945年の終戦間際、旧ソ連による侵攻が始まると、女性への性暴力が繰り返されました。
神奈川県に住む鈴木政子さん(90)は、11歳のころ旧満州からの引き揚げを体験し、知り合いの女性が受けた性暴力を間近で目撃しました。
鈴木政子さん
「引き揚げの途中、日本人がとどめ置かれた収容所には連日ソ連兵がやってきて、女性を連れて行きました。そして5人、6人で強姦しました。皆の前、その女性の子どもがいる前でも性暴力は行われました」
性暴力を受けた女性の中には、妊娠した人も数多くいました。

当時、中絶手術は原則違法です。

性暴力を受けたこと、そして“敵兵の子ども”を産み育てることに対し、将来を悲観し、祖国を目前にして、引き揚げ船から海に身を投げて自殺を図る女性も相次いだといいます。
女性を救おうとした医師たち
こうした女性たちを救おうと自主的に立ち上がった医師のグループがありました。

性暴力による妊娠を思い悩んだ女性から相談を受けたことをきっかけに、違法とされていた中絶手術を行うことを決意したのです。
二日市保養所
医師たちは引き揚げ船が帰港する博多港にほど近い福岡県筑紫野市に、「二日市保養所」を開所。

ここで性暴力による妊娠の中絶手術を秘密裏に行ったのです。

二日市保養所の関係者によりますと、記録は断片的にしか残っていないといいますが、わずかに残る資料から、ここで少なくとも200人あまりの女性が手術を受けたとみられます。

この立ち上げに奔走した1人が、みずからも引き揚げを体験した医師の山本良健さんです。

娘の朝山紀美さんは父親をはじめとする医師たちの動きをこう記憶していました。
山本良健医師
山本良健医師の娘 朝山紀美さん
「父たちは弱い人を守ることに疑いのない人でした。女性を救済するために、自発的に手術を行ったんです。『国は何もしてくれなかったんだ』と話していました。一方で、父たちは、引き揚げ者に医療を提供するにあたって、『国やGHQにも内々に了解を得ていた』とも話していました」。
国も中絶手術を指示か
この頃、国がほかの病院にも広く中絶手術を指示していたことをうかがい知ることができる記録が残っていました。

引き揚げ港のひとつだった長崎の佐世保港の資料館に所蔵されている「引揚婦女子医療救護実施要領」と書かれた通知文の写しです。
「引揚婦女子医療救護実施要領」浦頭引揚記念資料館所蔵
昭和21年4月、当時の厚生省が国立病院や引き揚げ港の検疫所などに宛てて出したものです。

性暴力による妊娠を「不法妊娠」と表現し、「不法妊娠した女性は、上陸後に港の近くの検疫所にある相談所で問診を受け、指定された国立病院などに入院して手術を受ける」という中絶手術の手順が記されています。

さらに、広島市公文書館が所蔵する県から市町村に出された通知です。
「引揚満洲開拓民の援護に関する件」広島市公文書館所蔵
「不法妊娠等により療養を要する者に対しては、極秘裏に国立病院に入院療養せしめるに付、該当者調査の上速かに援護課に連絡されたい」(原文ママ)

「引揚満洲開拓民の援護に関する件」広島市公文書館所蔵
性暴力で妊娠した女性たちが、引き揚げ港の検疫所で問診を受けずに郷里に帰ってしまったとしても、調査をして中絶手術を受けることを促すよう、各市町村に指示を出していたことがわかります。

国は不法妊娠に対する中絶手術などを行う病院として全国13か所の国立病院や療養所を指定していたという記録もありました。

今回取材を進めると、京都の国立舞鶴病院など少なくとも5か所で、実際に中絶手術が行われていた可能性が高いことがわかりました。
国の“思惑”は?
なぜ、国は徹底して中絶手術を行おうとしたのか。

当時の国の“思惑”について語られた数少ない証言記録が残されていました。

1つは、九州大学産婦人科の医局長だった男性が、戦後40年あまりたって医療専門誌に寄せた文章で、厚生省から受けたという指示の内容について語っています。
「国が命じた妊娠中絶」日経メディカル1987年8月10日号
当時の上司から、「異民族の血に汚された児の出産のみならず家庭の崩壊を考えると、厳しくチェックして水際でくい止める必要がある」と説明されたと証言しています。

さらに「厚生省命令により、カルテ等診療記録等は一切その証拠を残してはならないとの厳命があった」とも記しています。
また、終戦から10年後、厚生省の官僚たちが国立病院での医療について振り返った座談会の記事もありました。

この中で、日本を統治下に置いていたGHQの幹部も黙認していたことが書かれています。
「日本の婦人が25万何千人強姦されて帰ってくる。これを始末するのは今の占領軍と日本政府の責任である。命令の中でやったということを相談して、(GHQの)サムス大佐のところに出かけて説明した。サムスも手を打って一挙に了解をした」

「座談会:国立病院の発足を回顧して」医療1955年12月号
当時の国の思惑について、厚生労働省に見解を尋ねたところ、「厚生省は中絶手術を行っていたことを把握していたと考えられるが、当時の施策の背景や実施方針については、相当の時間が経過しており、現時点では資料の所在も含め確認されていないため回答が難しい」との返答でした。

いわば“超法規的”に行われた中絶手術。

公式な記録がほとんど残されていません。

当時を知るためには、手術にあたった医師や周辺の関係者の証言が主になります。

医師の中には出産した赤ちゃんを殺すことに近い壮絶な手術もあり、晩年まで心に深い傷を負ったと振り返る人もいました。
手術にあたった医師の証言
「あの当時無言で麻酔もしない中絶手術に耐えていた引き揚げ婦人たちは、その後どうして暮らしているのだろうか。毎日地獄の苦しみで中絶手術を行ってきた私も、また終戦のどさくさのお陰で堕胎の罪は受けないでいる。(中略)毎年終戦記念日が来る度に、私の心は当時の苦しい地獄の思いに疼くのであった。いつになったら、この忌まわしい想いから抜けられるのであろうか」

「太田典礼と避妊リングの行方」2004年8月 石濱淳美著
一方で、手術を受けた女性たちについては、医師の多くが「中絶手術を受けた女性は晴れ晴れとした表情で帰って行った」と証言していますが、当事者本人による証言はほとんど残っていません。
女性たちが葛藤する姿も
当事者である女性はどのような思いだったのか。

取材を進めると、貴重な資料にたどりつきました。

病院で中絶手術を受けた女性たちの生活支援にあたっていた支援員の音声記録です。
支援員の音声記録
「朝鮮をずっと歩いて来た時に、町を通ると、そこで何かあげなきゃ通せないって。女をあげる、独身の女で旦那が出征していないとか、そういうことでもって選ばれたんだって。もう悔しがっていつも泣いていたわ。人身御供みたいなものよね。子どもを処分した学校の先生、若い先生。やっぱり子どもは子どもなのね。悲しがって悲しがって毎日お線香をあげていたわ。しゃべりたいんだよね、自分の苦しいことを」

福士房氏口述記録 2004年11月19日実施 現・駒澤大学加藤聖文教授
また、中絶手術を拒んだ女性がいたことを記した手記も見つかりました。
医師の手記
「妊娠者もかなり発見されたので、博多港に着いたらすぐ中絶手術を申し出るよう勧めた。しかし、なかにはどうしても堕胎を拒む女子もいた。相手はソビエト人だと言っていたが…」

宮下義正 博多検疫病院長の手記
みずから望んだ手術であっても、そうでなかったとしても、体内で育つ命に対し、女性が抱いた割り切れない思いや葛藤をかいま見ることができました。
産んだ女性、人目に触れさせず
さらに、性暴力によって生まれた子どもを出産した女性もいたのではないかという記述もありました。

「混血児」をテーマに1952年に出版された本の中には、「夜を待つ子」と題して、ロシア人からの性暴力で妊娠した母親が混血児である息子を出産し、昼間は人目を忍んで土蔵で隠れて暮らしながらも、愛情を注いでいたという話が記載されています。

母親が息子について語るシーンです。
「混血児」 1952年 高崎節子著
「何人ものロシア人に犯されて、誰の子ともわからないまま妊娠いたしました。生れた子供は美しい男の子で、ひたすらの愛情を受けました。世間態をはばかって、生れ落ちてこの方六年間土蔵の二階にとじこめて、昼間は外に全く出すことなく、人目に触れさせませんでした。私がロシア人の子を生んで人目もかまわないで大っぴらに育てることは、とても世間の目や口が許さないのです」(原文ママ)

「混血児」 1952年 高崎節子著
この本を書いたのは、戦後、旧労働省婦人少年局の主任として、女性や子どもの支援にあたった高崎節子さんです。

高崎さんは当時、親が育てられなくなった“混血児”を養育していた神奈川県大磯町にあった施設と交流していました。
“混血児”を養育していた「エリザベス・サンダース・ホーム」
その施設には、引き揚げ時の性暴力による子どもかはわからないものの少数ながら「ロシア系」の子どももいたという記録が残っていました。
終わらない苦しみ抱えた女性を支援
引き揚げ途中で性暴力を受けて手術を受けた女性を、昭和50年代に福祉相談員として支援したという河島悦子さん(87)です。

性暴力を受けた女性が戦後も長く苦しんでいた様子を鮮明に記憶していました。

この女性も、引き揚げの途中で「独身だから」という理由で、同じ開拓団を守るため、引き換えにソ連兵に差し出され、何度も性暴力を受けたといいます。

仲間を守るために性暴力に耐えたにもかかわらず、同じ開拓団の女性から「汚らわらしい」ということばを投げつけられたという女性。

引き揚げ後は性暴力を受けたことを理由に、妊娠の自覚もないままに手術を受けさせられたと話していたといいます。

性暴力や体への重い負担、そして、差別や偏見。

幾重もの苦しみは戦後何十年たっても消えることはなく、女性は自暴自棄の生活の末、困窮の中で亡くなったといいます。
河島悦子さん
「人に言わなかったって。言ったら、汚らわしいって嫌われるから。生きていることが疎ましかったって」
記録を残し検証し続ける
戦時下の性暴力。

残された名簿や知人からの紹介など、細い糸を手繰るように、当時を知る人たちへの取材を重ねましたが、実際に手術を受けた当事者の女性にたどりつくことはできませんでした。

「中絶手術を受けたらしい」という情報を得て、ある女性を訪ねましたが、戦後79年がたち、すでにこの世を去っていました。

国の記録も、被害者や加害者など当事者の証言も残らない中、関係者たちは亡くなり、被害の事実すらなかったことになっていってしまうのではないかと不安を覚えます。

今も各地で起きている戦争。

性暴力が繰り返されていることも報告されています。

被害を受けた人が何重もの苦しみを抱えないために、私たちは何をすべきなのか。

証言や記録を残すことの重要性、被害者に対しての社会のあり方を検証し続けたいと思います。
(8月28日放送 クローズアップ現代)
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