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公営競技はどこへ行く

元気溢れる公営競技にしていきたい、その一心で思ったことを書き綴っていきます。

広島は、昭和時代の大都市に見られた公共交通分散機能を今でも維持している点において、注目に値するといえる。

2025-05-22 17:07:51 | 交通系問題
【地下鉄なしで成功】拠点駅が多くて、逆に機能する広島の鉄軌道【120万人都市では珍しい多拠点型ネットワーク】



@naoyasano8695

6:47 大阪も、京阪の天満橋や、(今でも一部、ターミナル機能を維持してはいるが)近鉄の上本町といった、「中途半端」な場所をターミナルとしていたことがあったが、これはひとえに、市電との連絡の利便性を図るため。市電の廃止機運が高まった1960年代以降、京阪は淀屋橋、近鉄は難波へと、それぞれ延伸した。東京にしても、上野が長らくターミナル機能を維持していたのは、市電(→都電)や国電の乗り換えに便利だったから。広島は、昭和時代の大都市に見られた公共交通分散機能を今でも維持している点において、注目に値するといえる。

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稚内市にあった「抜海駅(ばっかいえき)」は2025年3月、100年を超える長い歴史に幕を下ろした。

2025-05-20 19:03:15 | 交通系問題



嫁入り 出征 殺人犯 “最北の秘境駅” が見続けてきたもの NHK 2025年5月20日 13時33分

駅がもし語れたら、私たちに何を話してくれるだろう。

北海道北部 稚内市にあった「抜海駅(ばっかいえき)」はことし3月、100年を超える長い歴史に幕を下ろした。

1世紀にわたり、この地を見守り続けてきた駅は、どんな物語を見てきたのだろうか。この地に嫁いできた女性の半生。戦争に赴くため、万歳で見送られた少年。駅近くで起きた凄惨な殺人事件。

そして、何もなくなった“最北の秘境駅”に何かを求めて訪れる旅人たち。

「抜海駅」が廃止されるまでの1か月、駅の記憶に寄り添った。

(稚内支局記者・奈須由樹/札幌放送局ディレクター・長谷川悠)

【NHKプラスで配信】配信期限 :5/30(金) 午後7:57まで↓↓↓
北海道道 駅が語れば 100年の物語
抜海駅「最後の日」3月14日
JR北海道のダイヤ改正の前日、2025年3月14日。

この日が抜海駅の「最後の日」となった。

駅にはこの日、わずか1両編成の普通列車が7本停車した。

全国から多くのファンが訪れ、駅との最後の別れを惜しんだ。

長い間、無人のまま冷えきっていた駅舎も、この日は多くの人のぬくもりで、かすかな温かさを取り戻していた。

駅の存続に向けて活動を続けてきた地元の有志団体は、駅周辺で記念ストラップを200個配り、列車の見送りを続けた。
抜海地区で唯一の民宿を営む 伊東幸さん
「最後のにぎわい。多くの人に愛された駅といううれしい気持ちと“最後”とつくのが複雑な思い」
列車の“見送り”は最終便まで続いた。

午後8時半ごろ、抜海駅に最後の列車が到着すると、こみ上げる悲しみを胸にしまい込み、最後はみんな笑顔で見送った。

最終列車はひときわ長い汽笛を鳴らして、暗闇へと消えていく。

取り残された駅舎には余韻のような風だけが強く吹き抜けていた。

JRの職員が古びた駅舎に鍵をかけると、駅は長い年月にそっと幕を下ろした。

多くのファンでにぎわった駅で最後、施錠の音が響きわたったように感じられた。
抜海駅とその周辺地域は
JR宗谷線の終点・稚内駅から南へ2駅、人里離れた場所にポツンとたたずむ抜海駅。

1986年(昭和61年)から無人の駅で、停車するのは普通列車のみ。

一部はペンキが塗られるなど修繕されてきたが、現存する木造駅舎は、ほとんど100年前の当時のままだ。
稚内市史などによると、この地域の発展には鉄路の存在が大きかったことがわかる。

何もなかったこの場所に、ニシン漁のために移住した漁師たちが抜海という土地を開拓し、鉄路の発達とともに繁栄。

多い時には800人を超える人たちが集落をつくった。

稚内に働きに出る通勤客で車両が常に満員となる時代もあったが、車の発達とともに利用は激減。

住民も減り、今では過去5年間の平均利用客は3人以下。

JRは駅を廃止せざるを得なくなったのだ。
抜海駅が見守った100年間とは
大正から、昭和、平成、そして令和。

100年を超える時間、抜海駅は寒風吹きすさぶこの地で、激動の時代を生きる人々を見守り続けてきた。

駅はこの時間にどんな物語を見てきたのだろうか。

我々は駅が廃止されるまでのおよそ1か月、その記憶に寄り添った。

この地に嫁いできた女性の半生。

万歳三唱の中、戦地に赴き、無言の帰郷となった少年。

駅近くで起きた 凄惨な殺人事件。

そして、はるかな旅路をたどって、何もなくなった駅に何かを求めて訪れる旅人たちの姿が見えてきた。
廃止までの時間を駅とともに
ことし3月、廃駅を前に、私は駅とともに長い時間を過ごした。

ただ、ここには何もない。

1日7本の普通列車とともに時折、駅を訪ねて旅人がやってくる。

1人の少年が降り立った。
滋賀から来た高校生
「3月で高校を卒業したばかり。親からもらった卒業祝いを使って抜海駅に来た。北海道の“秘境駅”にハマっていて、廃止されると聞いて最後に来たかった」
親からもらった高校の卒業祝いを握りしめて、1人で鈍行でやってきたという。

次の列車が来るのは数時間後、それまで古びたポスターや駅舎をじっくり見ていた。

ゆったり駅舎を見て回る高校生に再び声をかけた。
記者「ここで何をしているんですか?」

高校生「何をしている?駅を味わっているんです」

記者「駅はどんな味わいですか?」

高校生「言葉で表現するのは少し難しいな。駅を堪能しているという感じです。非日常を味わえるいい駅だなって」
彼は静かな駅舎で、時が止まったかのようなひとときを過ごしていた。

やがて、遠くから列車の音が近づき、静寂がゆっくりと解かれていく。

取材のお礼をする中で、最後に交わした会話がとても印象的だった。
記者「鉄道で来るのは大変ではなかったですか?」

高校生「簡単に来られるので、鉄道があれば。乗っていれば着くじゃないですか。鉄道はつながっているので」
最近の高校生は言葉や立ち居ふるまいが、どこか大人びているとは聞いていた。

しかし、“駅を味わう” “鉄道はつながっている”などと、胸の奥にまで響く言葉をいくつも投げかけるとは。

駅に別れを告げる時、振り返ることなく背を向け、そのまま列車に向かった彼の足取りは、どこか軽やかだった
何もない駅に何かを求めて
抜海駅には普通列車とともにいろいろな人の物語が運ばれているように感じられた。

ある男性は、14歳の時に家出してたどりついたのが抜海駅だったという。

ひと晩をこの駅であかし、以来、40年通っていて、抜海駅が“中学時代の友人”と語る。

廃止が決まってからは日に数人の旅人がやってきては、その姿を記録し帰っていく。

中には、始発から終着まで、15時間ほど、この駅舎で過ごす“つわもの”もいた。
駅舎に置かれている「駅ノート」には全国各地から訪れた人たちの思い思いのメッセージがしたためられていた。

見知らぬ旅人たちの思い出や感謝の言葉がつづられていて、それぞれの物語が響き合うページをめくるたび、私の心には、じんわりと温かさが広がった。
かつて栄えていた抜海駅は1986年(昭和61年)に無人駅となり、時代の変化とともに何もない駅になった。

それでもこの最北の無人駅に人々は“何か”を求め続けてきた。

人の営みとそれを受け入れてきたのが抜海駅なのだろう。
駅と同じ時代を生きた女性
水口キミさん、1925年(大正14年)生まれ。

ことしで100歳だ。

抜海地区に住み、駅とほぼ同じだけの時間を生きてきた唯一の存在だ。
記者「おいくつなんですか?」

水口さん「ことしで私100歳だもん。“驚き桃の木”だね。転ばないように気をつけないとダメだね」
水口さんは「稚内で生まれ、抜海に嫁いできた時に初めて駅を使った。自分で決めたことではなく、親のいいなりの結婚だった」と話してくれた。

「今振り返ると情けない」と冗談を交えながら振り返った。
100年という時間は私にははかりえない。

駅はこの水口さんを覚えているのだろうか。

恋愛をしたことがなく、抜海駅に初めて来たのは冬の2月ごろ。

日本髪を結い、不安な顔で訪れ、婚礼の場でも「華やかな稚内に帰りたい」と口にしていたのだそうだ。
水口キミさん
「やっぱり帰りたいって思ったよ。道路から我が家の方を眺めるいうことはしたけどね。相手も前に行きあってるとかでなかった。でも嫁に来た以上帰りたいと思っても帰ることはできないと分かっているからね」
ただ、家で初めて会った夫の善太郎さんは水口さんのことを大切にする妻思いの男だった。

抜海には知り合いがおらず、ふさぎこむ水口さんに善太郎さんが「小さな商店を営んではどうか」と背中を押してくれた。
まだ車のなかった時代、水口さんは毎日のように抜海駅から汽車に乗り、稚内で物を仕入れて店頭に並べた。

お菓子、みそ、しょうゆ、電球など「水口商店」は何でも販売した。

水口さんはいつしかこの土地に必要とされ、この土地を必要とする生き方を送るようになっていた。

抜海駅の廃止前、水口さんは思い出の駅舎に足を運んだ。
水口キミさん
「何年ぶりだろ、だいぶたつねえ。わかんないよ。でも、この雰囲気がいいね」

記者「ここに初めて来たときは不安だったんですよね?」

水口さん「よく覚えてないよ」
いくら質問を投げかけても水口さんはそのことを詳しくは覚えていない。

認知症で記憶を断片的にしか思い出すことができないのだ。
記者「前は日本髪を結ってと言ってましたよね?」

水口さん「そうだっけ。覚えてないな。もう何十年も前だからね」
私は諦めるような思いで駅に救いを求めた。

その時、水口さんは遠い記憶がよみがえったかのようにゆっくり語り始めた。
「抜海に来て、幸せって言っとくのが一番かな。善太郎さんは真面目な人でみんなから『ぜんちゃん』って呼ばれて信用されていたからね。抜海に来たときは我が家に帰りたいっていう思いしかなかった。子どもみたいなもんだな。でも本当に真面目な人だったから幸せでした」
この地に嫁いできた水口さんが、夫とともに過ごした半生をゆっくり語り始めた。

そして、この地で過ごせたことに感謝の思いがあるという。
「抜海駅があったから、私は抜海で暮らしている。この駅があるから現在の我が身がある。抜海で商売ができて良かった。1人では何もできなかったけど、商売で人とつながれて、支えてもらって現在があって、どれだけ世話になったか、はかり知れない。店で商売ができたのも、この駅のおかげ。善太郎さんとだったから今現在の我が身があるんです」
アルバムの写真を見せてもらうと、結婚当初、水口さんは本当に不安そうな顔をしていた。

しかし抜海で商売を始め徐々に打ち解けていった水口さんは本当にいい顔をしていた。

その隣にはいつも優しい夫の善太郎さんが居た。
「今度、抜海の駅と会うとき、汽車は止まらないだ。そうか、もう止まらないんだな。駅もすごい、よく頑張ったね」
抜海駅から万歳で見送られた少年
稚内市で暮らす、堀公昭さん(90歳)。

当時17歳の兄、公圓さんがみずから海軍に志願し横須賀の海軍基地へと向かったのを見送ったという。
堀公昭さん
「兵隊に行くときは見送りに行くもんだ。家の前で見送って、抜海駅でもって万歳、万歳ってね。敵をやっつけに行く名誉なことだったからさ」
その2年後、公圓さんが乗っていた護送船「りおん丸」はアメリカ軍から空爆を受け沈没。

公圓さんはパプアニューギニアで戦死したという記録が残っていた。

遺族のもとには電報が届き、稚内で合同の英霊祭が行われたが、その日遺骨だと渡された箱の中には、写真だけがはいっていたという。

83年前に見送られた少年には、まだあどけなさが残っていた。
「兵隊に行くっていうのは死ぬのも覚悟してる。悲しい気持ちもあるけれど、言葉になるような時代でなかったから。まだ17歳で、温厚でおとなしくて、みんなにかわいがられたいい人間だった」
父の公巌さんは公圓さんが最年少で海軍に志願したことから、横須賀まで同行したという。

死は覚悟していたものの、戦死したことを悔やみ深く悲しんだ。

公巌さんは戦後、新たに生まれた男児に”コウエン”と同じ読み名をつけたという。
凄惨な事件 鉄道が犯人を連れてきた
仏壇に静かに手を合わせ「ありがとう」とつぶやく1人の男性。

稚内市抜海村クトネベツに住む西岡睦夫さん(87歳)。

牧場で働き、今でも牛を優しくめでる。

その優しい人柄と笑顔が印象的な人だ。

今まで固く閉ざしてきた、悲しい駅との過去を語ってくれた。
西岡睦夫さん
「鉄道、そして駅は、産業の発展には欠かせなかった。ただ、我々家族にとってはいい思い出ばかりではない」
家族2人が殺される
昭和33年2月18日、稚内の牧場で起きた強盗殺人事件。

西岡さんの当時16歳の妹と当時26歳の叔母が殺害された。

妹は暴行を受けて首を絞められ、叔母は頭を凶器で数回殴られた。

犯人は従業員として働いていた当時18歳の男性で、のちの少年死刑囚。

西岡さんは胸の奥に閉じ込めていた67年越しの思いを初めて語ってくれた。
西岡睦夫さん
「天気のいい日でした。私と父が乾燥させた草を摘んでいたんです。父が先に家に帰ると今まで聞いたことない大声で叫んだ。私も家に入ると、目を背けたくなるような悲惨な姿で、何が起こったのか分からなかった」
「中学を卒業した妹に体を求めたけど、許さなかったから首を絞めて殺し、もうここにはいられないから、金庫から金を取ろうとしているところ運悪く叔母が外から玄関に入ってきた。何回も頭を殴られたと」
「私はすぐに出刃包丁を持ちました。犯人がいたらやろうと。そして警察を呼ぶために、そのまま抜海駅に行きました。犯人がディーゼルカーに乗っているわけでもないけど探そうと、お客さんも乗っているのにディーゼルカーの中を出刃包丁を持って歩きました。何事かと思っただろうね」
事件の背景には何があったのか。

西岡さんはその事情も話してくれた。
「当時は金もなく稚内まで流れてくる人が多かった。でも稚内には工場がなかったし、働く場所がなかったから『抜海に行きなさい、抜海に行けば牧場があるし、牛が何十頭もいるから雇ってくれる』って市内で説明されたのか、何人も抜海に流れてきた。働き口は豊富町の兜沼の方が多かったけど、厳しい冬の季節だから暖かい季節になるまでここに居なさいと人助けで何人も受け入れたことがあった」
戦後の混乱期、北海道では春になる前に季節労働者を大量に受け入れていた。

全国各地を転々とし、鉄路で抜海駅にたどりついた1人が犯人だった。

戦後の抜海には行き場のない人が毎年のように鉄道で流れ着いた。

西岡さんは冬を越せない人に人助けのため、職と暮らしを提供していたという。
「叔母が玄関へ入るところが遠くから見えたんですよ。自分は馬に乗って、叔母が家へ入って見えなくなるまでを見ていた。つまり殺される、1分か2分前の叔母の姿を見てるんです。今でこそもう60年もたつから少し薄れたけど、叔母が殺される寸前の姿をついきのうのように30年くらいは毎日、ついきのうのように思い出していたんです」
ろうそくに火をつけ、仏壇の前で静かに手を合わせる。

沈黙が語るものは涙以上に深く、痛ましかった。

部屋には遺影が飾られていた。

叔母の小さな写真が見つかり、引き延ばして遺影にした。

なかなか飾る気になれなかったが、去年ようやく飾ることにしたという。
じっと遺影を見つめ、何も言わず部屋から出た、その背中が語るのは、言葉にはならない悲しみだった。
「鉄道が人間を運んでくる、駅があって犯人を運んできて。でもそれはしかたのない個人の出来事で、やっぱり(抜海)駅があって発展してきたんだから」
不要なものが壊され必要なものが作られる
夜11時30分に最後の特急列車が通過してから駅を訪れると、近くの街灯が消えていた。

あたりは何もなく、静かな闇に包まれていた。

目の前に広がったのは満天の星空だった。

駅は100年間、誰にも邪魔されずに見続けてきたに違いない。
ただ、この星空にも変化が生まれたと地元の住民は語る。

近年、建設されている風力発電の風車が放つ光によって「星が見えにくくなった」というのだ。

かつて人々の生活を支え、経済の動脈となった駅は役目を終えて廃止され、代わりに新しい役目を与えられた風車が次々と建っていく。

駅からは優雅に回る風車がみずからの存在を誇示するかのように見え、少しうらやましそうに感じられたのではないか。

しかし、この風車も100年後には役目を終えて取り壊されることになるのだろうか。

人間は古いものを壊し、新しいものを作る。

100年前から、一歩も動かずにこの場所にある駅は、そんな人間の営みを「それも仕方のないことだ」と受け止めているのではないかと思う。
思い出の駅の廃止に地元の人は
時が流れ、人口が減り、必要とされなくなった抜海駅の「最後の日」3月14日。

我々は、水口キミさんの家を訪れて話しを聞いていた。
水口キミさん
「ちらちら雪が降って、抜海駅も終わりか。汽車止まってもう乗り降りするお客さんいないもんね。全然使わないから、しかたがないね。これは時の流れだもん」
そして、駅に移動し取材を始めた。

この日は風が強く吹きつけていて、雪も降り続いていた。

そんな中、西岡睦夫さんが駅を訪れた。

全国から訪れている多くの人のにぎわいに驚いた様子だった。

別れを惜しむように駅を見渡していた。
「我々家族にとってはいろいろあった駅だが、駅には最後はありがとうと」
抜海駅の廃止から2か月
駅が廃止されてから2か月ほどたった春、私は、ふと抜海駅に足を運んだ。

役目を終えた駅舎は板張りされ、羽音をならす虫たちが無数に舞い、ハエが窓に群がっていた。

そして、この駅に列車は止まることなく通り過ぎていった。

この駅に、もう列車は止まらない。

この駅を目指す列車はどこにもないのだ。

役目を終えた駅舎がホームにたたずむ姿は少しさみしく、誰かを待っているかのように思えた。
取材後記・抜海駅へ哀悼の意を込めて
駅がもし語れたら、抜海駅は私になんて言葉をかけるだろう。

そんな思いを胸に取材は始まった。

取材を重ねる中で見えてきたのは壮絶な時代の流れで、駅が見守り続けたものは、人々の営み、そして無数の出会いと別れだった。

抜海駅とともに過ごした時間は、どれほどになったのだろうか。

すべてを追うことは叶わなかったが、駅の記憶に、ほんの少し、寄り添えたのではないかと思う。

駅がなくなってから、2か月ほどが経過した。

近くの集落は平穏で変わらぬ時間を刻み始めている。

人口は少なくなったが、駅亡き後も明るい未来にしていけるように。

役目を終えた抜海駅には心から「お疲れさまでした」と伝えたい。
(5月16日 北海道道で放送)

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「ホームドア」を2030年度までに全国4000か所に増やす目標を設ける:国土交通省

2025-05-20 18:17:27 | 交通系問題
駅のホームドア “2030年度までに全国4000か所に” 国土交通省 NHK 2025年5月20日 5時50分

国土交通省は、鉄道の駅のホームに設置する「ホームドア」を2030年度までに全国4000か所に増やす新たな目標を設けることになりました。

鉄道の駅のホームに設置するホームドアは、2023年度末の時点で全国2647か所に設置されていて、国土交通省がこれまで掲げていた今年度までに3000か所にするという目標はおおむね達成できる見込みとなっています。

国土交通省は、視覚障害者や高齢者などがホームに転落したり列車と接触したりする事故があとを絶たないことから、2030年度までにホームドアを全国4000か所に増やす新たな目標を設けることになりました。

ホームドアの導入にあたっては、設置の費用や条件が課題でしたが、鉄道会社の間では扉の部分を柵にすることで従来よりも3割ほど軽量化し、土台の工事を簡素化できるタイプや、ドアの位置が異なる普通列車と特急列車の両方に対応した扉の幅が広いタイプなどを導入する動きもあります。

国土交通省はこうした工夫や開発を促すとともに、補助金などによる支援に力を入れたいとしています。

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LRTで解決可能?和歌山市:LRTが実現すれば、南海和歌山軌道線(1971年4月1日廃止)の「復活」みたいなことになるな。

2025-05-20 18:00:10 | 交通系問題
全てが微妙な距離で離れている和歌山市。LRTで解決可能?

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車内の自動音声案内、次駅案内設置が当たり前になったので、近距離区間だと、車掌不要でも支障がなくなったのは確か。

2025-05-19 21:43:24 | 交通系問題
申し訳ないが、ワンマン運転には反対します

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「真駒内滝野霊園」を『頭大仏前』に変更したところ大好評

2025-05-18 12:45:42 | 交通系問題
Ⓒ読売新聞



訪日客が9割占める観光名所の霊園、バス停を「頭大仏前」にしたら大好評…海外SNSでブッダの丘と紹介 読売新聞 2025/05/17 18:13

約180ヘクタールの敷地に大仏やモアイ像、英国の巨石遺跡「ストーンヘンジ」を模した墓石などが立ち並ぶ「真駒内滝野霊園」(札幌市南区)で今春、園内のバス停の名称変更が行われた。一番人気の大仏殿に向かうインバウンド(訪日外国人客)に降り間違いが多発していることを重く受け止め、「おもてなし」の精神からバス会社に掛け合ったという。(高橋剛志)

大仏殿に向かう観光客。頭部がちらりとはみ出している
 滝野霊園は1981年に開園した公園墓地。それが観光名所に変じたのは、2006年に国宝の「鎌倉大仏」と同サイズの大仏像を建立したことがきっかけだった。11年に「開園30周年事業」と銘打ち、世界的建築家の安藤忠雄さん(83)に大仏殿の設計を依頼。16年には頂上から大仏の頭がはみ出ている奇抜なデザインの施設が完成し、すぐに「頭大仏」の愛称で呼ばれることになった。

 海外のSNSでも「Hill of the Buddha(ブッダの丘)」として紹介され、今では霊園の年間来訪者約15万人のうち、9割を外国人客が占めている。

 一方、霊園では昨冬、墓参りに訪れる日本人客の利便性向上のため、北海道中央バスに依頼して供花などを扱う売店の近くにバス停を追加してもらった。ただ、この配慮が外国人客の混乱を招くことにもなる。

 新設の「管理事務所前」停留所は、札幌市営地下鉄・真駒内駅と霊園を結ぶ「真108系統」の終点であり、大仏殿の目の前でもあった「真駒内滝野霊園」の一つ手前に置かれた。その結果、「管理事務所前」で降りてしまった外国人客が大仏殿まで何百メートルも歩くケースが相次いだのだ。

 「一目で大仏殿の最寄りと分かるようにしたい」。霊園側はこう考え、「真駒内滝野霊園」の名称を“そのものズバリ”の「頭大仏前」にできないか中央バスに打診。社内会議で了承を得られたため、4月からの改称が実現した。合わせて「管理事務所前」は「真駒内滝野霊園前」となり、路線図の表記も一新された。

 「より多くの人に観光を楽しんでもらえるようになった」と霊園の担当者。夫と大仏殿を訪れた米国籍の女性(51)は「バスがとても便利だった」と語り、「降りた時は小さな頭しか見えなかったけど、中に入った瞬間に圧倒的な迫力を感じた」と大喜びだった。



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上本町は、1927年に設立した参宮急行電鉄が本社を置いた → 2014年、近鉄グループホールディングス(近鉄GHD)が誕生したのを契機に、近鉄GHDは本社を参急、関急時代と同じく上本町に置いた。

2025-05-16 18:45:39 | 交通系問題
【ついに】日本3位のターミナルが変わる!近鉄が本気を出す理由とは?



@naoyasano8695

上本町は、大阪電気軌道(大軌)の子会社で、1927年に設立した参宮急行電鉄(参急)が本社(本店)を置いた。1943年に、(大軌が参急を吸収合併して1941年に設立し、本社は上本町に置いた)関西急行電鉄(関急)が、現在の近畿日本鉄道(近鉄)南大阪線のルーツである、大阪鉄道を合併した上で、本社を大阪鉄道の本社だった阿部野橋に移転したが、2014年、近鉄グループホールディングス(近鉄GHD)が誕生したのを契機に、近鉄GHDは本社を参急、関急時代と同じく上本町に置いた。これにより、上本町の再開発の機運は一気に高まった。まだ、上本町に「本社が戻って」から10年程度しか経過していないため、開発途上の段階だが、今後10年、20年先と、上本町は大きく変化を遂げるのは間違いなさそう。

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広島市営地下鉄構想は1985年に事業計画案がまとまり、1994年に東西線と鯉城線を開通させる予定、というところまではいった。しかし、市民及び市民団体から強い反対運動が起こり、白紙となった。

2025-05-16 18:17:06 | 交通系問題
【地下鉄なしで成功】拠点駅が多くて、逆に機能する広島の鉄軌道【120万人都市では珍しい多拠点型ネットワーク】



@naoyasano8695

広島市営地下鉄構想は1985年に事業計画案がまとまり、1994年に東西線と鯉城線を開通させる予定、というところまではいった。しかし、市民及び市民団体から強い反対運動が起こり、白紙となった。また、1992年、路面には広島電鉄本線を残しつつ、宮島線が乗り入れる地下線を提案したが、広島電鉄側が拒否した。結局、これらの事情により、広島市営地下鉄構想は消滅した。路面電車が広島市営だったら話は違っていたかもしれないが、昔から、広島市民の路面電車に対する愛着ぶりは、他の都市とは比べ物にならない証左だと言えよう。

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SAFは航空燃料を100%置き換えた場合、二酸化炭素の排出量が8割削減される → ただし、SAFの価格は現在、航空燃料の3倍から5倍

2025-05-16 10:54:52 | 交通系問題
航空燃料の脱炭素目指す“純国産”SAF供給開始 NHK 2025年5月15日 17時27分

「この日を待ちに待っていた」
航空業界のある幹部は、小瓶に入った無色透明の液体に寄せる将来への期待を語っていた。

航空業界の脱炭素への切り札とされる循環型の航空燃料「SAF(サフ)」。

原料の調達から生産・供給までを国内で完結させる“純国産”の供給が5月から始まった。

その生産現場、大阪・堺市にある製油所に向かった。
(経済部記者 當眞大気)

“純国産”SAF供給開始
5月1日、関西空港の滑走路近くに航空会社や石油元売り、それにプラント建設会社などの関係者が集まり、中国・上海行きの旅客機の離陸を見送っていた。

“純国産”SAFを燃料として初めて使用した旅客機だ。
SAF(左)と原料の廃食油(右)
「持続可能な航空燃料」を意味する英語の頭文字をとったSAF。

EUが2025年1月から燃料の一部への使用を義務化するなど日本を含めた各国の航空会社が導入を進めている。
日揮ホールディングス 秋鹿正敬 専務
「国際競争にさらされている中、国産初のSAFが継続的に利用されることになりました。きょうを第一歩として、引き続き、安定供給を続けていきたい」
SAF生産現場 製油所では
そのSAFが“純国産”というのはどういうことなのだろうか。

生産設備がある大阪・堺市の製油所を取材した。
到着した大型トラックから次々と積み降ろされていた容器。

各地の飲食店などから回収された廃食油だ。

この集積場所には1000リットル分の容器がいくつも積み上げられていた。

回収した廃食油を原料に、生産設備でSAFに生まれ変わる。
廃食油はサラダ油やごま油、オリーブオイルなどさまざまある。

原料を入れる巨大なタンクに近づくと、中華料理店のようなにおいがした。

SAFの基本的な生産工程は、原油からガソリンや航空燃料などをつくる場合と同じだ。

稼働が始まったばかりのSAF生産設備に向かった。
高さ40メートルあまりの装置が2本そびえ立つ。

加熱と蒸留をそれぞれ行う装置だ。

加熱し、沸点の違いから成分ごとに分けられ、SAFとして生産される。

このとき同時にナフサや軽油なども生産されるという。

生産設備を運営する合弁会社は、国産SAFプロジェクトを進めてきたコスモ石油や、製油所のプラント建設を手がける日揮ホールディングス、廃食油の回収事業を手がけるレボインターナショナルの3社が設立した。
こうして生産された“純国産”のSAFが蛇口のような部分から出てきた。

100リットルの廃食油を原料に、85~90リットルがSAFになるという。
課題は「価格」と「安定供給」
SAFは航空燃料を100%置き換えた場合、二酸化炭素の排出量が8割削減される計算だ。

しかし、実際のところは、航空燃料にわずかな量を混合する形で使われている。

活用が一部にとどまる大きな理由は「価格」だ。

全日空や日本航空などは、2030年には燃料の少なくとも10%をSAFに切り替える目標をたてている。

しかし、SAFの価格は現在、航空燃料の3倍から5倍にのぼる(業界団体「定期航空協会」調べ)。

航空会社では燃料費の大きさが経営に与える影響が大きく、2030年時点でSAFの価格が従来の燃料の5倍と仮定すると、営業利益が赤字に転落する会社も出るという。
日本航空 小川宣子 調達本部長
「国際的な競争力のある価格で調達ができないと、われわれの経営にとっても大きな問題にもなるし、物がないだけだけではなく、価格が高いという理由で他国の航空会社さんが日本を避けるといった事態にもなりかねない。エネルギー安全保障の観点からも国産のSAFは大事だ」
SAFの生産コストの多くを占めるのは原料部分だ。
価格の引き下げに向けた管理や工夫の余地を残すためにも、原料から国内で一貫生産する“純国産”の意義は大きいという。

SAFは各地の空港に供給され、航空会社が空港ごとに調達する仕組みとなっている。

このため、価格が高いままでは、海外の航空会社が日本の空港を避けてしまう事態にもなりかねない、“国際競争”の側面がある。

価格を引き下げることはこれからの大きな課題となる。

ポイントとなるのは原料(=廃食油)をより多く、効率的に回収する仕組みの実現だ。
生かしきれていない廃食油
廃食油の出どころは「家庭」と「事業所」に分かれる。

このうち事業所からは年間40万トン発生し、その9割(36万トン)が回収されている。
ただ、その用途・流通はすでに確立している。

最も多いのは家畜の飼料の原料で、そのほかにもさまざまな用途で活用されている。

注目されるのは11万トンが輸出されているという事実だ。

その多くは、SAFの生産をすでに始めているシンガポールや、軽油へのバイオ燃料の導入が進む韓国など、アジア各国に輸出されているという。
国産のSAFの原料に回す余地が残されていると言えそうだ。

一方、家庭から発生する廃食油は9割以上が捨てられている。

ここにも大きな余地があり、回収するための取り組みも始まっている。

日本航空は、スーパーの利用客に廃食油が1リットル入る専用のボトルを配り、店舗に設置された回収ボックスに持参してもらう取り組みを展開している。

また、自治体でも神戸市は、神戸空港や市内の公共施設に回収ボックスを設置し、廃食油を回収する実証実験を始めた。

一方、酒販売大手「カクヤスグループ」は、飲食店からの回収に取り組んでいる。

配達員が商品の配達とともに廃食油を回収する。
一斗缶1つあたり110円を商品代金から割り引く仕組みだ。

これまでに120トンの廃食油を回収し、主にSAFの原料として活用されている。
堺市の製油所には、全国3万8000か所から集められた廃食油が1日あたり100キロリットル以上持ち込まれている。

事業所からの回収の仕組みを効率化し、運搬コストを抑えることや、家庭からの回収を広げることに取り組むという。
SAF生産設備の運営責任者 サファイアスカイエナジー 西村勇毅COO
「原料の回収でコストがかかるので、例えばそこにDXの力を入れて回収の効率化を図ることや、製造プラントの中でもさらに効率の良いSAFの生産ができないか検証していく。
また、SAFについては原料の奪い合いになってしまうので、いかに自分たちで直接回収してくるかというのが安定確保につながる。2030年までに国内だけでも数十倍の需要があると言われているが、その需要も、価格がいくらでもいいというわけではないので、原料確保とコストをしっかり抑えていくことが最大のポイントになる」
取材後記
排出する二酸化炭素の多さから「飛び恥」という言葉も生まれて批判された航空業界。

SAFの生産は欧米の企業が先行し、日本はSAFを輸入に頼らざるをえない構図が生まれつつある。

今回取材した“純国産”のSAFは確かにまだまだ課題は多い。

それでも日本の空港の国際競争力、原油にかわるエネルギー安全保障の観点から、その方向性の正しさを示す取り組みの進捗(しんちょく)に期待を寄せる。

(5月1日 全国ニュースなどで放送)

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3:01 京都水盆に影響を及ぼさないために、桂川案を出したんだろ。だったら、桂川経由しかないやん。

2025-05-15 18:59:02 | 交通系問題
【どうなる?北陸新幹線延伸】石川・馳知事「米原ルート」での再考求める 整備促進大会の決議は…

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鉄道総合技術研究所が開発した「自律型列車運行制御システム」:運行の停止や再開の判断を列車ごとに自動で行う

2025-05-14 09:46:02 | 交通系問題
鉄道トラブルでの運行停止や再開 自動で判断するシステム開発 NHK 2025年5月14日 6時59分

人手不足が深刻化する中、鉄道トラブルが起きた際に運行の停止や再開の判断を人が介在せず、列車ごとに自動で行うシステムを開発したと東京の鉄道総合技術研究所が発表しました。自動運転の先を見据えたシステムだとしています。

今回、開発されたのは「自律型列車運行制御システム」と呼ばれるもので、鉄道総合技術研究所によりますとトラブルが起きた際、運行の停止や再開の判断を列車ごとに自動で行うということです。

障害物や気象などの情報を車両に搭載された装置に集約して運行判断する仕組みで、運転士や車掌が乗らないだけでなく、状況によっては係員による現地確認も不要だとしています。

このシステムでは運行再開後、安全を確保しながら遅れを取り戻せる速度を列車ごとに自動で判断し、走行することなどもできるということです。

13日は研究所の試験線路でデモ走行が公開され、列車が踏切に立つ人型の模型をカメラやセンサーで検知すると自動で停止し、模型がなくなると自動で再開していました。

鉄道総合技術研究所は列車で自律的に運行判断する技術の開発は世界初だとしていて、研究開発推進部の新井英樹さんは「課題はまだ残っているが自動運転の先を見据え、2040年前後には事業者が使えるようシステムを強化していきたい」と話していました。

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2025年5月14日より定期船の運航を開始:品川区の五反田と天王洲アイルの間のおよそ4キロを往復する便

2025-05-14 02:28:22 | 交通系問題



“船を通勤に” 東京 五反田~天王洲アイル航路 あす運航開始 NHK 2025年5月13日 17時26分

東京都が身近な交通手段として、船を通勤などに活用するよう呼びかける中、14日から五反田と天王洲アイルを結ぶ新たな定期船の運航が始まることになりました。

東京都は水路を活用した水辺のにぎわいづくりの一環として、通勤などに利用できる定期船を運航する会社に補助金を出しています。

今回、新たに運航が始まるのは、品川区の五反田と天王洲アイルの間のおよそ4キロを往復する便で、13日は運航開始を前に、区の関係者や報道陣向けの体験会が行われました。

船は、天王洲運河と目黒川をおよそ30分かけて運航します。

電車と徒歩より10分ほど移動時間は長くなりますが、景観を楽しみながら移動できるのが魅力だということです。

この船は、平日の午後4時から午後10時までの間に7便運航されるということで、定員は44人、大人の運賃は片道900円です。

事前予約が可能で、空きがあれば当日でも乗船できるということです。

東京都 通勤などに船の活用をPR
東京都は満員電車や街なかの混雑を回避できる交通手段の1つとして、通勤などに船を活用するようPRしています。

事業者に補助金も出していて、これを受けて都内では、
▽おととし10月から中央区の日本橋と江東区の豊洲を結ぶ航路、
▽去年5月から中央区の晴海と港区の日の出を結ぶ航路で運航されています。

▽日本橋と豊洲の航路は、火曜日から金曜日までの夕方から夜にかけて、
▽晴海と日の出の航路は、月によって運航される曜日が変わりますが、週2回から3回、平日の朝の時間帯に運航されています。

いずれも電車などより短い時間で移動ができ、大人の運賃は片道500円となっています。

都によりますと、これらの航路は、買い物などの移動手段として一定の需要があるということですが、通勤手段としてもさらに定着させていくため、PRしていきたいとしています。

都の担当者は「船は混雑や渋滞を回避し、快適に移動できるので、観光だけでなく、日常的な移動手段にまで広げて、水辺の活性化につなげたい。非常にゆったりと気分よく利用できる船の魅力を感じてほしい」と話していました。

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PiTaPaはクレジットカードと機能が一緒なので全く流行らなかった。2021年時点でICOCAが発行枚数約2500万枚なのに対し、PiTaPaは会員数約330万人

2025-05-13 21:44:26 | 交通系問題
JR西日本のICOCA、どんどん私鉄に侵攻



@naoyasano8695

スルッと関西、は使い勝手が良かった。JR以外ならばどこでも使えたのが強み。ところが、後継のPiTaPaはクレジットカードと機能が一緒なので全く流行らなかった。一応、今でも存続しているが、2021年時点でICOCAが発行枚数約2500万枚なのに対し、PiTaPaは会員数約330万人と大きく水を開けられる結果となっている。

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新幹線次第で、今治は一転して交通の要衝に転ずることができる。

2025-05-13 18:01:34 | 交通系問題
【通過点?】四国第5位の都市、今治が抱える交通のジレンマ【しまなみ海道で流動が一変】



@naoyasano8695

新幹線については、広島県を結ぶルートしか考えられない。福山からしまなみ海道を経由する案と、大崎上島を経由して広島へと結ぶ案。駅は、今治駅は新幹線駅としてはムリなので、波方を新今治とし、そこから松山へ向かうルートと、新居浜方面へ向かうルートとに分かれる。こうすれば、今治は一転して交通の要衝に転ずることができる。

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JR東日本:新幹線の料金が6割引きになる「タイムセール」を初めて行うと発表

2025-05-13 08:06:30 | 交通系問題
新幹線が6割引き、JR東が初の「タイムセール」…連休後の需要喚起する狙い 読売新聞 2025/05/12 19:32

JR東日本は12日、新幹線の料金が6割引きになる「タイムセール」を初めて行うと発表した。期間限定で実施し、5月の大型連休後に落ち込みやすい需要を喚起する狙いだ。JR東のインターネット予約サイト「えきねっと」で、6月2~11日乗車分を5月22日から、6月12~22日の乗車分を5月23日から、席数限定で販売する。対象は秋田新幹線、山形新幹線、上越新幹線の一部区間の普通車で、手持ちの交通系ICカードを使って改札を通る「新幹線eチケット」を値下げする。東京―秋田間の片道は通常は1万7820円だが、タイムセールでは7120円となる。

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