前にも当ブログで述べたが、石原慎太郎はもう何十年も前から、自民党を自らの手で打倒した上で総理大臣になることを夢見ていた、と考えられる。
1975年の東京都知事選で、当時42歳だった石原は、3選が確実視されていた美濃部亮吉に真っ向から挑んで233万余票を獲得し、美濃部の3選こそ許したものの、35万票差の次点と健闘した。
その後、再び国政に復帰した石原は、環境庁長官、運輸大臣を歴任。1989年には自民党総裁選に立候補した。
しかし、1989年8月8日に行われた総裁選では、総裁に選出された海部俊樹(279票)のみならず、次位の林義郎(120票)にも大きく及ばず、48票にとどまり大敗。ここで、『政治とは数の論理』ということをまざまざと見せつけられた旧田中派、当時は竹下派の壁を痛感することになる。
さらに総裁に選出された海部は、当時47歳だった、竹下派の小沢一郎を幹事長に抜擢。そして小沢は、海部が弱小派閥の河本派に属していたこともあってか、党内のまとめ役はもとより、実質的に「数で揺さぶりをかけて」海部を操るという「剛腕ぶり」を発揮し、実質的に、党内ナンバーツーの小沢が、政局のキャスティングボードを握ることになった。
このことは、年が小沢よりも上である石原からすれば「面白くもなんともない」わけで、以後、石原は小沢とは距離を置くばかりか、今でも「反 小沢」の急先鋒として、小沢批判を続けているが、決定的となったのは、小沢が竹下派を分裂させた上で自ら党を飛び出し、新生党を結成した上で、当時日本新党の党首として、国民の人気を集めていた細川護煕を総理大臣に据え、ついに自民党を下野させた1993年の事があったからだろう。
石原は自民党在籍時代、政策集団の一員としては常に「亜流」を強いられてきた。中川一郎の死後、派閥の領袖となったものの、結局は弱小派閥に過ぎず、ついには福田派(清和会)に吸収されてしまった。したがって、自民党内にいたのでは自らの思い、つまりは総理大臣になる夢はかなわないわけで、いつぞやのタイミングで、党を飛び出して新党を作り、その上で自民党を打倒して内閣総理大臣に、というシナリオを描いていたはずだ。
しかし、自らが描いていたシナリオを、先に小沢に「やられてしまった」。しかも小沢は自ら総理大臣になろうとはしない。常に「ナンバーツー」の地位のまま、誰かを上に立たせた上で「操る」。石原からすれば、一番「合わない人間」であると考えられるのは確かかも。
そしてその後、小沢が初めて「野党議員」に転落したが、その頃、石原にも国政での活躍の場が巡ってくる可能性はなくなっており、1995年、石原は、国会議員在職25年表彰を花道に辞職した。
その後石原は、1999年の東京都知事選に立候補し当選。以後4選を果たした。
一方、小沢も一時は200人を超す議員を有する大野党・新進党の党首を務めたものの、ついに自民党から政権を奪取できずに解党。その後自由党の党首になるものの、その党内でも分裂させてしまうなど、21世紀に入ってからはすっかり剛腕の影を潜めたかに思われた。
ところが小沢は、2003年の「民由合併」で、当時民主党代表だった菅直人を総理にすべく、自らは「一兵卒」になることを宣言。このことは、石原もビックリしたはずだ。一方、2006年の「偽メール問題」で前原誠司が党代表を辞任した後に代表に就任。2007年の参議院選挙で大勝し、ついに参議院では民主党が第一会派となった。その後の地方首長選でも民主党は連戦連勝。このまま次期衆議院選が行われれば、「小沢総理」の誕生は間違いないと思われたが、2009年5月「西松事件」疑惑により辞任を余儀なくされてしまった。それでも民主党は、鳩山由紀夫が代表に就任した後も、「小沢路線」(国民の生活が第一)を継承し、2009年8月30日に行われた衆議院選で圧勝。結局は、またしても小沢が実質的に自民党を打倒して政権交代を果たしたのであった。
対して、小沢に敵意をむき出しにする石原もこの間、黙って見過ごすわけにはいかないとは思っていただろうし、実際のところ、小沢と好意になりかけていた亀井静香を抱き込んで、新党結成を画策するも、如何せん、石原は自民党在籍時代から人望がなく、なかなか実現できずにいたが、ついに25日、結党できる運びとなったようである。
そして、小沢もまた、民主党を「飛び出し」、今年7月に国民の生活が第一を結党した。同じ自民党にいたときから「合わない」二人が、ついに国政の場であいまみえようとしている。
しかしながら石原80歳、小沢70歳か・・・
1975年の東京都知事選で、当時42歳だった石原は、3選が確実視されていた美濃部亮吉に真っ向から挑んで233万余票を獲得し、美濃部の3選こそ許したものの、35万票差の次点と健闘した。
その後、再び国政に復帰した石原は、環境庁長官、運輸大臣を歴任。1989年には自民党総裁選に立候補した。
しかし、1989年8月8日に行われた総裁選では、総裁に選出された海部俊樹(279票)のみならず、次位の林義郎(120票)にも大きく及ばず、48票にとどまり大敗。ここで、『政治とは数の論理』ということをまざまざと見せつけられた旧田中派、当時は竹下派の壁を痛感することになる。
さらに総裁に選出された海部は、当時47歳だった、竹下派の小沢一郎を幹事長に抜擢。そして小沢は、海部が弱小派閥の河本派に属していたこともあってか、党内のまとめ役はもとより、実質的に「数で揺さぶりをかけて」海部を操るという「剛腕ぶり」を発揮し、実質的に、党内ナンバーツーの小沢が、政局のキャスティングボードを握ることになった。
このことは、年が小沢よりも上である石原からすれば「面白くもなんともない」わけで、以後、石原は小沢とは距離を置くばかりか、今でも「反 小沢」の急先鋒として、小沢批判を続けているが、決定的となったのは、小沢が竹下派を分裂させた上で自ら党を飛び出し、新生党を結成した上で、当時日本新党の党首として、国民の人気を集めていた細川護煕を総理大臣に据え、ついに自民党を下野させた1993年の事があったからだろう。
石原は自民党在籍時代、政策集団の一員としては常に「亜流」を強いられてきた。中川一郎の死後、派閥の領袖となったものの、結局は弱小派閥に過ぎず、ついには福田派(清和会)に吸収されてしまった。したがって、自民党内にいたのでは自らの思い、つまりは総理大臣になる夢はかなわないわけで、いつぞやのタイミングで、党を飛び出して新党を作り、その上で自民党を打倒して内閣総理大臣に、というシナリオを描いていたはずだ。
しかし、自らが描いていたシナリオを、先に小沢に「やられてしまった」。しかも小沢は自ら総理大臣になろうとはしない。常に「ナンバーツー」の地位のまま、誰かを上に立たせた上で「操る」。石原からすれば、一番「合わない人間」であると考えられるのは確かかも。
そしてその後、小沢が初めて「野党議員」に転落したが、その頃、石原にも国政での活躍の場が巡ってくる可能性はなくなっており、1995年、石原は、国会議員在職25年表彰を花道に辞職した。
その後石原は、1999年の東京都知事選に立候補し当選。以後4選を果たした。
一方、小沢も一時は200人を超す議員を有する大野党・新進党の党首を務めたものの、ついに自民党から政権を奪取できずに解党。その後自由党の党首になるものの、その党内でも分裂させてしまうなど、21世紀に入ってからはすっかり剛腕の影を潜めたかに思われた。
ところが小沢は、2003年の「民由合併」で、当時民主党代表だった菅直人を総理にすべく、自らは「一兵卒」になることを宣言。このことは、石原もビックリしたはずだ。一方、2006年の「偽メール問題」で前原誠司が党代表を辞任した後に代表に就任。2007年の参議院選挙で大勝し、ついに参議院では民主党が第一会派となった。その後の地方首長選でも民主党は連戦連勝。このまま次期衆議院選が行われれば、「小沢総理」の誕生は間違いないと思われたが、2009年5月「西松事件」疑惑により辞任を余儀なくされてしまった。それでも民主党は、鳩山由紀夫が代表に就任した後も、「小沢路線」(国民の生活が第一)を継承し、2009年8月30日に行われた衆議院選で圧勝。結局は、またしても小沢が実質的に自民党を打倒して政権交代を果たしたのであった。
対して、小沢に敵意をむき出しにする石原もこの間、黙って見過ごすわけにはいかないとは思っていただろうし、実際のところ、小沢と好意になりかけていた亀井静香を抱き込んで、新党結成を画策するも、如何せん、石原は自民党在籍時代から人望がなく、なかなか実現できずにいたが、ついに25日、結党できる運びとなったようである。
そして、小沢もまた、民主党を「飛び出し」、今年7月に国民の生活が第一を結党した。同じ自民党にいたときから「合わない」二人が、ついに国政の場であいまみえようとしている。
しかしながら石原80歳、小沢70歳か・・・