犬の散歩

見たこと、聞いたこと、感じたこと、思ったこと

ムギワラトンボを見た

2014-06-10 13:50:53 | 日記


 6時半に犬の散歩に出掛ける。今日は火曜日。

 大型の商業施設群の手前まで行くコースを歩く。出発が遅れたのは天気が気になったからだ。少し前まで雨が降っていた。未明は雷雨だった。

 商業施設群までは住宅地を歩く。商業施設群からは川沿いの道を歩く。右岸の土手の草がかなりの面積、刈られていた。北側は水田である。子供の頃、家のすぐそばに田があった。この時季、地面が池のようになるのが不思議でしょうがなかった。田というのは自然を半分活用した生産工場なのだ。地を均し、畔を作り、水路を引く。取水口と排水口を設ける。何千年かけてこのような形になったのだ。

 散歩の後半から犬はしきりに道路の水溜りに入ってその水を飲む。畳半畳程の水溜りが干上がってしまうのではないかと思う程、よく飲む。道路に水溜りが出来るということは凹凸があるということだ。

 7時25分に帰着。




 昨夕の散歩について

 4時5分に犬の散歩に出掛ける。小倉から来た親戚がリードを持ってくれた。

 南の門から出て公園に向かう。自宅の塀の上にムギワラトンボが止まっていた。おや、もうかと思った。腹がいやに細い。貧弱である。ヤゴから羽化したばかりなのだろうか。まだ濡れているという感じではないが。この辺りで羽化するといえば川であろうか。それにしても遠い。
 近くで見ていたらパキッという昆虫特有の音音が聞こえた。羽を支える筋肉の辺りから出ているように思った。そして3,40cm程、飛び上がりすぐに元の位置に戻った。理由は分からないが休んでいるように感じた。トンボは子供の頃から好きだった。他の虫には今では向こうに行ってくれ、勘弁してくれというようになってしまったものが多いが、トンボは今も違和感なく、親しくなりたい殆ど唯一の虫である。

 公園、グラウンドを通って海岸に向かう。海辺のカフェの駐車場の横から浜に下りる。
 浜は綺麗になっている。人手が入っているのだ。若い頃は、そんなのは人がすることで自分は享受する側だと思っていた。人が出来ないことは自然に任せるしかないではないかと考えていた。
 庭の草引きをするようになって、自分の問題は自分で解決するしかないことが体験的に分かって来た。問題は何が自分の問題かということだ。まずは所有するものについては自分が責任を取らねばならないということは分かる。そして、それを大切に思うかどうかである。そして、それは自分に返って来る。大切にするものがあるということはある意味、幸せというものかもしれない。

 海岸からの帰り道、ある銀行の研修所の横を通っていたら道に面した茂みからウグイスの囀りが聞こえた。聞こえたというより聞かされたという感じであった。囀りというより叫びに近い。距離が近いとこんなに大きく聞こえるのだ。スピーカーで流しているようにも聞こえた。不思議なのはウグイスがこんなに人の近くに寄って来ていることだった。

 5時5分前に帰着。ムギワラトンボは待っていたかのように、まだ塀の上の同じ所に止まっていた。トンボの目の前で人差し指を回すとすぐに空高く飛び去って行った。もう、二度と戻ってくることはあるまい。例え、またムギワラトンボをここで見かけたにしても、それは99%別のムギワラトンボだろう。確かめる術はないが。



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