2022年(令和4年)3月31日(木)
朝の散歩は雨が上がったので出掛けたのだが、すぐに雨が降り始めた。犬もこっちも迷惑。途中、近道をして帰る。
家に帰って犬の全身を2枚のバスタオルで拭う。少し気温が下がってきた。
犬は散歩中にハアハア言うのでヒヤヒヤする。散歩に行かない方が良いのだろうか。
犬の食欲が少し出てきたが、それは市販の流動食のおかげだ。一時的な不調なのか。動きが悪い。何にもしてやれない自分。
2022年(令和4年)3月31日(木)
朝の散歩は雨が上がったので出掛けたのだが、すぐに雨が降り始めた。犬もこっちも迷惑。途中、近道をして帰る。
家に帰って犬の全身を2枚のバスタオルで拭う。少し気温が下がってきた。
犬は散歩中にハアハア言うのでヒヤヒヤする。散歩に行かない方が良いのだろうか。
犬の食欲が少し出てきたが、それは市販の流動食のおかげだ。一時的な不調なのか。動きが悪い。何にもしてやれない自分。
2022年(令和4年)3月30日(水)
犬が数日ぶりに糞をした。朝のことだ。ホッとした。
これまで糞をしなかったのは無かったからだ。無いのはそんなに食べていないからだ。ドッグフードを殆ど食べなくなった。ドッグフードは栄養バランスに優れ、嵩もある。
犬が今食べるのは主にササミで出来たおやつである。これは量が少ない。このままで行くと犬は過度に痩身となってしまう。
急激に痩せになった。腰の少し上もくびれている。
小倉から来た親戚が犬がドッグフードを水で柔らかくペースト状にして丁寧に声かけをしながら与えると犬は食べるのだった。おかゆにしたり、とろみを付けて人に食べさせるのと同じである。犬にも介護職が必要となっている。
犬はこれまでお腹がすいているのに食べられなかったのだ。何と可哀想なことだ。固形物を咀嚼して嚥下することが出来なかったのだ。状況の急激な変化に私は対応できていなかったのだ。
2022年(令和4年)3月29日(火)
朝の散歩では方角でいうと東の方からウグイスが一啼きした。ホーホケキョ。こんな住宅地にもやって来ているのだ。野鳥は賢いので人家の近くならぼ知恵者のカラスが接近してこないと知っているのだ。それは夏の蝉も同じことだ。何れカブトムシもクワガタムシも追わずとも向こうから身を助く為、こちらに寄ってくるだろう。こういう子供たちのヒーローたちも殺虫剤の対象になるのだろう。
昔から日本にいるウグイスだが、昔も人の生活に密着していたのだろうか。自分の生涯ではそんな経験はないが。子供の頃、家の近くでウグイスの囀りを聞いたことはない。山の中に行かないと。
身近な鳥といえばスズメである。それからツバメ。勿論、カラスやトビは慣れ親しんだ鳥だ。飼ったりとか手なづけたりというのではなく、大空で何度も見たということに過ぎない。鳥というのは、飛行するのは虫しか知らないので、とてもよく長く意志的に飛ぶので手に入れることは出来ず、高貴な感じがしたものだ。虫は飛んでもすぐそこら辺でバタバタしているだけだ。しかも、それを追うと何度でも同じ行動を繰り返すのだ。だが、鳥は遠くに行って戻ってこない。しかもその飛行速度は飛行機のようだった。鳥か、飛行機か、いやスーパーマンと叫ばれたものだ。20世紀フォックスの映画で。
だから、スズメやヒバリの巣やを見つけ赤裸の雛がピイピイ言ってずっしりした糞をしたりするとその存在感に圧倒されたものだ。すごい、これになりたい。
スズメと言えば、我が庭に数羽のスズメが訪れたものだが、最近は一向に姿を見ない。代わりに電線などに止まって辺りを睥睨しているはムクドリの群れである。ちょっとした体格の違いで圧倒されて黙るしかないのだ。ムクドリだって同じように圧迫されているのだ。自分よりちょっと大きな鳥に。同じ原理に支配されているのだ。強いもん勝ち。弱いもん負け。それは人類まで続いている。人類が最高ではないのに、救いがあるとすれば、人類より上の存在として神の創造であり、最後は人類が作った信仰だろうか。私は無神論者なのだが、神を信じたくなる時もある。一種の責任転嫁である。
あああ、もう難しくて嫌になってきた。それに疲れた。
続きは春の使者のヒバリの囀り、それから取りこぼし続けている「第三の男」とサラメシ、更に犬の体型の急激な変化についてとそれへの対応及び私の心情と広がり続けているのだが、能力及ばずである。ワンちゃん、御免。
2022年(令和4年)3月28日(月)
朝、ツバメが屋根の上を飛ぶのを見た。尾羽がきちんと2つに割れていた。屋根の向こうに消えた。
この前見たのは何時のことだったろう。ちょっと早いなという気はしていたが、これで来訪は確実となった。ツバメほどすいすい楽しそうに飛ぶ鳥を私は知らない。音楽、ワルツに乗って舞っているようだ。実は虫を追っての飛行に過ぎないのかもしれないが。が、それにしても実用的な行動が自然、音楽的なのはツバメの幸運である。ツバメは音楽を聴いているのだろうか。
背中がかゆくなることがある。自分の感覚は日々失われているにも関わらず、痒みにはいかに微弱であっても非常に強く反応する。昔、バリカンで散髪してもらって坊主頭になっていた。友達がそれに気付くやいなや、お初と言って平手で当然の権利であるかのように頭を叩くのだった。一体、どんな理屈でそうなるのだと考えるよりも前に目には涙がにじんでいた。それを隠すのが最大の防御だった。
1枚刈りか2枚刈りか、兎に角、兎に角とか、つまりとか間隔を省略する言葉を使わねば、もっと論理的な文章が続けられるのだろうが、頭の中で論理がちぎれいているのでやむを得ないのだ。そのままを写しているのだからどうしようもない。
戻ると、刈られた断片の頭髪が背中と下着の間に入り、どういう加減か、その先端がチクチクと背中を刺してその刺激が異様な痒みを引き起こした。よくあることだったので夏ならすぐにシャツを脱ぎ髪の毛を取ってもらって一件落着であった。
それと似た感覚が今の私の背中に起こっている。勿論、髪の毛は背中にはない。経験の想起なのだろう。不快の経験の想起は消去してもらいたいものだ。そういう手続きのマニュアルは作られることはなく、唯々孫の手が我が味方となっている。
年寄りは不快を見つけるのが得意である。コミュニケーションの手立てを探っているのだ。
身辺雑記のようになってきた。犬は一体、何時登場するのだ。ツバメや背中は出てきても犬は全然出てこない。この後、出てくるのは金盞花とアントンカラスの「第三の男」とサラメシであって犬ではない。
と、啖呵を切ったものの犬は出てくるのだった。
夕方の散歩で犬の調子がシャキッとしないので短絡路を取ることにした。つまり、旧居の門から入って散歩道を中断するのだ。そして隣家との間のブロック塀沿いに犬を励ましながら歩いていると塀越しに隣人が話し掛けてきた。
調子が悪いんですか。ええ、疲れているようです。
何歳?16です。
人でいったら80位?ええ、そうですね。
庭の花壇に生えている数輪の金盞花を指さして良いですね、昔からの花が一番ですよ。
仏壇にでも供えようとしたんですが、丈がこれしかなくてと残念がった。
犬は人の会話にはいつも所在なげに動かず立っていた。終わるまで待つしかないのだ。
室内に戻って犬は敷き布団の上に立ってしばらくして腹ばいになった。
「第三の男」はおあずけ。明日以降に。
2022(令和4年)3月27日(日)
夕方の散歩中に犬がハアハア言うので参道に出て旧居の門から入って近道をした。
このところ、天気が安定せず、寒くなったりして苦労したが、ちょっと天気が続くとポカポカ陽気になるのだ。それが犬にとっては迷惑なのかもしれない。冬は皮膚が乾燥して、春になると血行が良くなって共にかゆみの原因となる。これは犬の話ではなく私自身の問題。日頃、肌の手入れもせず風呂にも入らないので常にかゆい。かゆければ掻くだけだ。かゆければ掻きむしるという医師もいるがそれは如何なものか。
文章の名人は削るを旨とせよと言っているし文章家の末端に列すると信じている私としては、削りたいのだが、ついつい付け足してしまう。そうしないと文章の塊が形成できないからだ。なかなか想起の想起が続かないのだ。のことが常に思い浮かぶ。どうして漱石は次から次へと想像が連結し勝手に放散するのだろう。それは出力に先立つ漢文や英文などの入力が膨大だったからだ。それと出力をずっと抑制していたからだろう。つまり、便秘の苦しみに耐えていたということだ。それがある時に通じが一気にほとばしりでた。それは殆ど生理現象だったろうから誰も止め得なかったのだ。くしゃみやヘンテコな人物の登場する「吾輩は猫である」は精神の吐瀉物か大便であろう。それですっきりして仕切り直しが出来たのだろう。「三四郎」以降の作品は大家の余技のように思える。それらの作品を高く評価するのが世間のようだが。本人もそうだったようだが、誰も若きを超えられないのだ。あれが峠だったのだ。
しかし、漱石は早く逝ってしまったなと思わざるを得ない。後はおそらく言い訳に終始しただろうと思うが。人間の生とはそういうものだと思わなくもない。いつも未完成なのだ。
後、背中の痒みとか、第三の男とか、金盞花のことは後日記したい。