2022年(令和4年)3月20日(日)
このブログに投稿するために呼び出そうとYokono40-4で検索するとAmazonのページが先頭にそれから関連商品紹介の写真が掲載される。それらのページはYokonoで40-4は付いていない。私は無知なのでどうしてこんなことになるのか分からない。私のページを1番にしたいのだがその方法が分からない。それで毎日、不便をかこつことになる。物量に負けて思うようにならないことにストレスが溜まる。世の中、思い通りにならないことばかりである。
夕刻3時過ぎに犬の前の飼い主が訪問してくれた。ブログの愛読者の一人だ。コメントも投稿してくれる。私が去年1月に入院してブログを中断する前は200人くらいのファンがいたのだが、最近は50人前後らしい。一人でもいたら良い。全然気にしない。私はいつも一人に向かって発信しているつもりだ。誰でもない一人に。私にはそれくらいの力しかないし、それで十分だ。仮想の多くの人に何を期待するというのだ。目を覚ますべきだ。って偉っそうなことを言って。だが、今更、偏屈じいさんが人気者になってどうするのだという気持ちもある。
犬はピンポーンで目が覚めていたようで頭を上げていた。前回同様、犬は飼い主に名前を呼ばれて少しびっくりしたようだ。犬は最初は、吠えたりしていたが、すぐに大人しくなった。頭や体を撫でられて落ち着いてきた。思い出が甦ってきたのだろう。これだ、これだと感じたに違いない。経験や記憶はいくら薄くなっても生きている。
我が家を訪れて犬に接してくれる動機の一つは犬を譲ったという事実にあるようだ。が、その過去の事実はどうしようもない。譲ってもらったこちらも犬に済まないという気持ちはずっと持っている。だから気持ちは分からなくはない。
それにこだわることは理解できる。でも、それは戻らない事への回顧に過ぎない。切り捨てなければならない。そうはできない人もあるかもしれない。出来なければ、抱え込んで一緒に生きていくしかない。
夕方の散歩は前の飼い主にリードを持ってもらった。私からするといつもより犬はスタスタ歩いているように見えた。私が登山をするように一歩一歩よいしょよいしょと犬を力強く引っ張っている感じではなかった。
前の飼い主は散歩中、近親者のことを話した。次々と病気が判明し、この時勢、いかなる治療、薬よりも効果のある面会で励ますことも出来ず、ラブちゃんも弱っているので自分一人が取り残されているように感じているそうだ。飼い主は家に戻って玄関の階段に座って犬を抱きしめてどうにか頑張って、1日でも長く生きてとラブを激励した。例の万能薬も頂いた。ただの万能薬ではない。思いのこもった薬だ。
私の親も入院が7ヶ月になる。いとこの親も何ヶ月も入院している。親戚の親は亡くなった。抱えているのは自分一人ではない。昼はまだしも、たとえ強気になれても夜になると不安になるのは誰も同じだ。
親戚には厳しいけど犬には優しいと皮肉られている私である、不出来なので仕方がない。
愛情いっぱいに接していらっしゃる姿に深い絆を感じます。ラブは本当に幸せ者です。
先日訪問させて頂いた時から、ラブはこんなに幸せに過ごしているんだから私は罪悪感を感じる必要はないんだなと思えるようになりました。
罪悪感よりも感謝の思いでいっぱいです。