犬の散歩

見たこと、聞いたこと、感じたこと、思ったこと

生後4ヶ月のトイプードルと出会った

2014-09-30 07:21:47 | 日記


 6時25分に犬ん散歩に出掛ける。今日は火曜日。

 山陰本線を跨ぐ新しい道を歩くコースを行く。空は曇っている。

 縁石で、石ではなくコンクリートだが、車道と区切られた歩道を歩いていると向こうから赤いビニール袋を手にした人がやって来た。今日は燃えるごみを出す日だ。道を譲って車道の端を歩く。渋面のように見えたその人がすれ違う時、急に笑顔になって体をこごめて犬に向かって大きな声でおはようございますと言った。私の判断、行動と犬の存在が笑顔と挨拶を生んだような気がした。犬は勿論、知らん顔である。自分に向かって声を掛けられたことは分かってはいるだろうが。意味は理解できなかったようだ。

 曲がり角で犬は糞をした。つい今しがた空き地のそばでしたばかりである。一遍でしてもらいたいな、ビニール袋が底を尽きそうだ。処理をして歩き始めると黒いトイプードルを連れた人と出会った。その人は片手に花の入ったビニール袋を持っていたので墓参の帰りだろうと思った。併せて花を替えたのだろう。
 双方の犬は近寄って行った。どちらも尻尾を振っている。大丈夫だろう。鼻を付け合った。
 相手の人は嬉しそうに言った。まあ、とても優しい犬ですね。まだ、産まれたばっかりで4ヶ月ですとのこと。
 犬の親子を引き離すのは生後何日以上たってからとその期間が長くなったはずである。3ヶ月位だったか。
 小さい頃から犬同士の接触を経験しておけば他の犬の向かって無用に吠えることはなくなる。
 我が犬は突然、右に飛び退いた。よく見られる行動だ。そして、その意味が今やっと分かった。よし、挨拶は済んだので一緒に遊ぼうよという誘いなのだ。しかし、相手は驚いただけで実際には遊ぶことなくそれっきりで別れたのだが。

 歩いていると道の勾配がよく分かる。交番の前の信号機まで緩やかな登りである。信号を渡ってアーチ状の新しい道を歩く。上り下りの勾配は一層はっきりしている。こんなことに気付くのは足腰が弱って来ているからだろうか。

 住宅地の中の道を歩いているとヂーゼルの行く音が聞こえ、車が続いてやって来た。踏切の遮断機が上がって待っていた車が動き出したのだ。踏切が見える所に来たら自転車に乗った中国人の研修生が数名、自転車でこちらの方にやって来た。今日は大人しいなと思った。黙々と自転車を漕いでいる。朝が早いものだと思った。自転車置き場の所にも数名の研修生がいたが何か大きな声で喋っていた。

 国道に出た。黄色づくめの交通指導員がいたので挨拶をする。今日は30日だが。1の付く日に立つはずだが。そうか、秋の交通安全週間か旬間なのだ。これまで会わなかったのはここを通らないコースだったり、7時よりずっと前に通ったからだ。

 7時10分に帰着。




 昨夕の散歩について

 5時15分前に犬の散歩に出掛ける。

 犬はばったり浜へ下りようとしなくなった。これまで公園もグラウンドも通過地点で目的地は浜乃至突堤の先のように思っていたのだが、そうではなくなったようだ。
 海辺のカフェの駐車場用の横の出入り口は昨夕同様無視して歩くし、階段からの出入り口も立ち止まって海岸を見たけれどもさっと先に進んだ。犬はそこは収穫が少ない、或はにおうものが殆どないと判断して行く気がしなくなったのかもしれない。
 犬も伊達に生きているのではない。ちゃんと学習して次の戦略を立てているのだ。

 犬も私もつくづく利己主義的だと思う。こちらのが犬にうつったのか、犬のがこちらにうつったのか知らないが、同時発生的に生じたのかもしれないし、お互い触発されながら昂進したのかもしれないし、兎に角、双方共、責任は問われないと思う。根は持っていたのだ、私も犬も。何らの事前の了解なしに納得できるところに問題の本質は現れている。
 利己主義が誤解されるのは困ったものだ。自分の利己主義を認め、人の利己主義をそれに応じて理解する。みんなが利己主義ならそれは原理というものだろう。それで立ちいかなくなったらその都度、修正すれば良いことだ。
 みんながそれぞれよりよい生き方をするのが生命の真骨頂であろう。それは自分の内側の声を聞くことだ。基準は自己の外にはない。
 他のものに頼るようでは生きている甲斐はない。他のもののまねをしても仕方のないことだ。
 例えば、ダイコンはコオロギを齧るようになり、トンボはイチゴを食するようになり、空は森のように緑色になり、太陽は独楽のようにぐるぐる回るようになり、星は暗闇のように光るようになり、死者は甦って生者のように口をきくようになったらどうだろう。

 他者との協調や協力や共感は各々が自分を生きるしかないと納得した時に自然に生じる関係だろう。

 5時20分に帰着。
 門の前の小花壇に水をやる。ナデシコ、マリーゴールド、リンドウ、ダイアンサス、ガーベラなどが植わっている。
 溝に捨てられたゴミや路上のたばこのフィルターを火ばさみではさんでゴミ袋に入れる。蚊が急に増えたような気がする。今日は気温がかなり上がって来た。
 中庭のカキの木は今年は豊作のようだが木の下の地面に丸い黒い幼虫の糞がたくさんあったので見上げるとアオイラガの幼虫が柿の葉を食べていた。駆除する。それで犬に餌をやるのが少し遅れた。犬は待ちきれずワンワン吠えていた。こちらもまだ食べていないのだから少しは我慢せいと思った。

流れ星を見た

2014-09-29 06:22:21 | 日記


 5時20分に犬の散歩に出掛ける。今日は月曜日。

 国道を渡って川沿いの道を東上し、2つ目の枝道を北上し丘陵の頂の手前で左折し市の施設の駐車場に横から入り正面の横から出て帰るコースを歩く。晴れているようだ。星が見えるから。東の高い空に見えるのは木星だ。ほぼ同じ高さで南に見えるのはシリウスか。暗いのでフラッシュライトをポケットに入れておいた。
 何故にこのように早く出発したかというと早く朝食をとったからだ。早く朝食をとったわけは目覚めが早かったからだ。4時に起床した。その前から目覚めていたが。目覚めたのは空腹の為であった。
 学生の頃だったろう、空腹で眠れないことがあった。食べる物もお金もなかったからだ。夜はチキンラーメンや豆腐を食べていた。時には果物屋で一籠いくらかのリンゴをよく買って食べていた。果物は昔から好きだった。

 中道を東に向かって歩く。木星を見上げていた。横に広がって見えるのは眼鏡が合っていないからだろう。するとそのそばをすっと細い光の線が斜めに走った。流れ星だ。それにしては細いし光っていたのは1秒足らずだった。流れ星といえば秋吉台で天体観測をしていた時、土星を見ていたのだが、その隣に流れ星を見た。それは垂直に落ちて行ったのだが形があり、しかも流れる間に形が変わって行った。
 本家からの帰り道、冬だったのだろう、夜空に満天の星が見え、流れ星をいくつか見た。本家から家までは5分位の道のりだ。ほんの子供だった時分のことだ。
 さっき見たのは砂粒のようなものが大気中に吸い込まれ摩擦で熱と光に変わったのだろう。質量が光になる時は膨大なエネルギーを発するはずだが地上からでも見える程の光はその膨大なエネルギーの為なのだろう。

 田は稲刈りが段々進んできているようだ。稲刈り機が田の中に置いてあった。コウモリが方向を頻繁に変えながら飛んでいた。コオロギなどはよく鳴いていた。

 6時5分に帰着。




 昨夕の散歩について

 4時25分に犬の散歩に出掛ける。

 一昨夕の散歩で気が付いたのだが、参道のこちら側の並木の黒松が剪定されていた。松の葉が車道、歩道、我が家の敷地に散らばっている。

 ブロック塀にカマキリが逆さになってじっとしていた。血流が僅かなので頭に血が上ることもあるまい。

 浜に下りて波打ち際に行った時、犬は私の顔を見た。これまで散歩中こんなことはなかった。ちらりと上目遣いで瞬間的に私を見ることはあっても、このようにじっと考え深げに見るということはなかった。家の中では嬉しそうな恥ずかしそうな顔をすることがある。
 犬の表情をじっと見ていると、その目、顔が私の意向を伺うというより、こんな所から早く出ようよと提案しているような、嘆願しているようなのだ。今の海は嫌いなのかもしれないと思った。第一に日が照っている。眩しいし熱い。そう感じると不思議なことにここは単にだだっ広く何もないところだと思えて来た。

 5時に帰着。

犬は夢を見るのだろうか

2014-09-28 07:03:10 | 日記


 6時5分に犬の散歩に出掛ける。今日は日曜日。

 海岸道路を通って礫岩広場に行く。晴れて風はない。

 庭で犬がキンモクセイのそばで小用を足している時、通りかかった人が私に挨拶をした。屹度、キンモクセイの香りで気をよくしているに違いないと思った。犬は速足なのでその人を追い抜いた。公園、グラウンドに入ってあちこち行っていて道路に出たら、その人は先を行っていた。海岸に向かっていて再び追い越しそうになった時、その人のそばで車が止まった。ドアを開けて声を掛けた。知り合いらしい。
 散歩かね。元気が良いね。
 はあ。
 百まで生きるんじゃない。
 ははは、そんなことは。
 最初の言葉が効いていると思った。そしてその誇張表現が笑いを誘ったのだ。

 海が見えて来た。沖に漁船が十隻くらい出ている。あれは吉見沖になるだろう。

 こちらにも散在していた。

 礫岩広場の下は釣り人がかなり出ていた。

 崖下の道を通って用水路に出る。2,30cmの魚が水面近くを泳いでいた。もっと小さいのは数多くいた。また、川底をカニが歩いていたが大きさや形からいってモクズガニのように見えた。

 犬はしゃがんで小用を足した。見ていると、犬は気配に気が付いたのかこちらを白目でちらりと見上げた。

 シジュウカラがツキツキと鳴いていた。姿は見えない。

 7時15分前に帰着。




 昨夕の散歩について

 5時5分に犬の散歩に出掛ける。

 公園の出入り口で警察官が高校生くらいの3,4人を相手に自転車のことで何か注意していて塞いでおり、すぐには終わりそうになかったので少し先の出入り口から公園に入った。
 すぐに若い柴犬を連れた人と出会い優しく撫で貰った。
 この柴犬は食欲が落ちているそうで餌が全然減っていない時もあるそうだ。まあ、それにしてもやつれたという感じはしない。一時的なものだろう。
 我が犬もそうなって私を心配させるようになるだろうか。長く生きたら屹度、そういう日が来るのは間違いない。
 人も長く生きれば存在する言葉の表現する感情、感覚、言動など殆どすべてを体験することになる。
 幸せ不幸、喜び悲しみ、緊張弛緩、出会い別れ、快不快、希望絶望などだ。
 犬は出会って別れようとした。あたかも脱出するかのようにするりと脱け出した。

 浜辺で子供たちが遊んでいた。ここで子供を見るのは久し振りである。公園やグラウンドにはたくさんいるが。
 子供たちは可能性に満ちているとよく言われる。それはそうだろう。しかし、可能性というのは抽象的な言葉に過ぎない。アメリカンドリームという言葉が思い浮かんだ。
 言葉がある以上、その実態もあるのだろうが、実現の可能性を考えたら画餅に帰すが相当な所だろう。また、その過程においては死屍累々という言葉がぴったりと当てはまる現実がある。ただ、これらは表に出にくい。自分がそうだと認めたくないし、誰もそんな話は聞きたくないからだ。
 希望や望みを持ったという事実が肝心である。それ実現させようとしたら数多の他者の失敗や挫折や諦めが必要だ。そもそもそんなレースに加わることはあるまい。このレースの大会には裏で糸を引いている人間がいるものだ。
 それでも人は夢を見る。犬も夢を見るのだろうか。我が犬も夢を見るのだろうか。見るとしたら満腹する夢ではなかろうかと思う。私はこの犬の夢を覚えている限り1回見たが、犬は私の夢を見ることはあるまい。

 5時35分に帰着。

早くもキンモクセイが香り始めた

2014-09-27 06:53:08 | 日記


 6時10分に犬の散歩に出掛ける。今日は土曜日。

 幼稚園、小学校を回って帰るコースを歩く。晴れて風はない。穏やかな秋の1日になりそうだ。散歩の始めは朝焼けだったが、その内、東から日が昇って来た。

 幼稚園の角にキンモクセイが咲いていた。その他2か所で見た。が、いずれも香らなかった。まだ、香りが弱いのだろう。大分、行ってから道の真ん中で良い香りがしてきた。辺りを見回す。予想していたキンモクセイの木は見当たらなかった。キウイがたわわに実っている、あの黄色のは実の付き方からカリンだろう。このカリンの香りかもしれない。

 小学校の前の畑に植えられているのはハクサイと思っていたが、育って来ているのを見るとキャベツであった。まだ、巻いてはいないが明らかにキャベツの葉である。春にはモンシロチョウが飛び交うことだろう。

 野球のユニフォームを着た中学生が学校に向かっていた。どの子のもまっさらの様に白かった。試合があるのだろう。

 6時40分に帰着。




 昨夕の散歩について

 5時10分前に犬の散歩に出掛ける。

 参道の黒松並木の根元にキャットフードと思しきものがあることに気が付いた。勿論、犬の教えられたのである。
 1か所ではなく、根元毎にあった。以前もあったが、今日は多過ぎる。ここは嫌なとこだと思った。
 たった一人の人がしているのだろうが、気分が悪くなる。勿論、犯罪ではないが社会的常識から遊離した感覚に世間の異常な事件に通じる共通の病弊を抱えているのではないかと考えるのは私の思い過ごしであろうか。
 そこら辺にいる猫の為に餌をばら撒いておいてやるという主観的な利他主義というのは飽くまで利己主義の捩じれた形に過ぎない。
 そのような形でしか自分を表現、主張できないとすると病根はかなり深いと言わねばならないのではないか。

 兎に角、嫌な気持ちで公園に入った。すぐに若い柴犬を連れた人と2匹の小犬を連れた人が一緒にいるのに気が付きそこへ行く。我が犬は人にも犬にも歓迎された。茶色の小犬は我が犬のお尻から離れない。若い柴犬を連れた人は我が犬をとりわけ尻尾を放さない。

 高架道路工事の所に来て、最近、高架道路の上にいる人より、あまり見えないのだが、下の方で作業している人をよく見掛けるようになった。上は完成して、下の誘導路などの方に係っているのかなと思った。表示によると工事は平成27年3月31日までとのこと。

 犬は浜に下りたがらなかった。というのも海辺のカフェの駐車場の横は見もしないで通り過ぎるし、その先の階段の出入り口でもかなり躊躇していた。私に促されて浜に下りた。
 犬は太陽が眩しく照っているのでここにいたくないようだった。海辺のカフェの駐車場の横から上がってもと来た道を帰る。グラウンド、公園の外の道を歩いた。ヒガンバナがたくさん咲いている。

 公園から中道へ曲がった所でラブちゃんと声が掛かった。パグを連れた人が呼んだのだ。知らん顔して行こうとしたでしょうと言う相手はいつも大きな帽子をすっぽりかぶって顔が見えない人なのだ。兎に角、犬は嬉しそうにすり寄り撫でてもらった。

 中道を通っている時、良い香りがしてきてその方向をパッと見ると大きなキンモクセイの木に花が満開だった。
 我が家の庭にもキンモクセイがあるが、今朝、門の前の小花壇に水をやる時、香ったので顔をあげると殆ど満開状態だった。
 2つのことを思った。一つはこんなに早かったっけということだ。例年、10月以降ではなかったか。まあ、法律のように決まっているわけではないので植物の方でこの時と決めれば良いことである。
 もう一つは、私という存在を引き込み、包み込み別世界に連れて行ってくれていた感じがしなかったことだ。確かに惹かれる香りではあるが、良い香りの一つに過ぎないのだ。昨年までは確かに私の感覚に働きかけ高揚するような鎮静するような精神状態に導いて行った。
 感覚が鈍くなったと言えばそれまでだ。こっちが変わったのか向こうが変わったのか、それは分からない。おそらく自分が変わったのだろう。また、何かが失われ、それが何なのか分からない。

 5時20分に帰着。

広い空は広がる雲で表わさせる

2014-09-26 07:16:15 | 日記


 6時10分に犬の散歩に出掛ける。今日は金曜日。

 大型の商業施設群の手前まで行って川に向かい川沿いの道を帰るコースを歩く。空は青く丸い白い雲が高く何処までも続いていた。こういう種々様々な模様の展開を許容する空は本当に広いと感じざるを得なかった。雲の先が鋭い出来たばかりのものと端がぼやけて来ているものがあった。

 歩道橋を渡って田園地帯に出る。稲の穂や葉が露で雨に降られたかのように濡れていた。ガードレールの下辺も水滴が付いていた。金属だからよく冷えて露になりやすいのだ。

 7時に帰着。




 昨夕の散歩について

 5時5分前に犬の散歩に出掛ける。

 正面に太陽に光を浴びて歩く。瞳孔の働きも弱っているのだろうずっと眩しい。頑迷に開いたままなのだろう。

 公園を通って公園と神社の間の道を西に向かって海岸に。
 公園で犬は糞をしたのだが、犬は用足しをどのように感じ、考えているのだろうかと思った。
 感覚的には出るとすっとするというのは人と同じだろう。向こうからお出ましになるのでどうしようもなくそれに従うだけである。不快というより怒りさえ引き起こしそうな臭いを発する向こうの方が御主人様なのだ。あの臭いには細菌が関わっているのだろうが、生き物は感覚を研ぎ澄ます方に向かってしまうのだ。
 兎に角、向こうに優先権があるのだ。こちらはなすがままに従う外ないのだ。
 そのことを犬はどのように考えているのだろう。おそらく考えていないと思う。消化に付いて何の知識もないし、たとえあったにせよ、その時の緊急性は知識以前の本能、習慣によって思考を排除してしまう。
 その時は犬は無防備なのでそのことに専心できるのは飼い主のお蔭と思っているかどうかは怪しい。
 恥ずかしさはないようだ。自然のことだから。それほど快感がないからかもしれない。ただ、情けなさはあるかも知れない。欲していないけれど避けられない。

 食べる時には意思が働くのに出す時には自分の意思とは関係がない自然現象である。この原因と結果についてそれぞれに伴う情感の乖離はどうしたことだろう。
 食べて出すというのは、或はこれは原因結果ではないのかもしれない。何か隠れた迂回路があるのかもしれない。

 ホイジンガの「中世の秋」では人の体の中にあるのは下下の下なので誰一人触れようとしないのにそれでも人は抱き合いたがるのは何故かと問うている。

 突堤の先近くまで行って引き返す。河口から勢いよく逆流しているのが川岸を見るとよく分かる。盛り上がった水が波状的にかなりの速さで上流に向かっている。

 浜辺にチドリを見掛けるようになった。

 公園に戻って若い柴犬を連れた人と出会った。おや、また白い粉が出て来ていると言って払ってくれた。観察する人、気付く人が良い。小犬を連れた人も寄って来た。犬同士が鼻を付け合ったりお尻を嗅いだりして交流した。我が犬はどうしても人に行ってしまう。人の衣服に鼻を押し付ける。

 5時35分に帰着。