7時5分前に犬の散歩に出掛ける。今日は水曜日。
丘陵の頂越えのコースを歩く。空に雲が所々浮かんでいた。雨は止んでいるが地面には水溜まりがあちこちに出来ていた。風はなく歩いているとすぐに暖かくなった。
途中から逆コースを歩くことにした。川沿いに歩いて一つ目の枝道を北上してそれから左折、右折し市の施設の駐車場に入った。裏門から出て駅裏に至り命豊かな川に出た。
川沿いの道を行っていると、若い2人組にジョッガ-が踏切を横切った。我々の後ろから来た別の2人組のジョッガ-が追い越し、先の2人組と声を掛け合って合流した。来週の駅伝に出場するにしてはコースが違うなと思った。踏切の所の離合帯の様になっている所の奥に細い枝に緑の葉がたくさん付いているのは屹度、クコだろう。暗いのと私の視力の低下で判然としないが。確か、昨年、ここにクコがあったのを覚えている。自然はおさおさ準備を怠らないしその準備を隠そうとしない。
もう人気のない駅のホームを左に見て歩き、命豊かな川に至る。その川面からカワセミが飛び立ち対岸の土手の上に止まった。久し振りに見た。飛んでいる時は背中と羽のきらきら光る青色が見えたが止まっているとお腹の茶色がかった黄色もよく目立つ。
朝日が昇ってきた。飛行機雲が南西に伸びていった。旅客機の後ろから出ているのだが、下から見ると機体後部から僅か離れた所から飛行機雲が出来ている。その辺りで十分冷えて雲になるのだろう。
犬は相変わらず良く引っ張り、ある場所を確保するためその向こうに行ってこちら向きになって何かを嗅いでいる。それでこちら側に引っ張ろうとすると首輪だけこちらに少し移動して犬は前両足で踏ん張って動かない。そんなに執着するのならとこちらも加減してしまう。
我が家の近くの家の庭に白梅が花を開き始めていた。そばではメジロが忙しそうに鳴いていた。
8時5分に帰着。
昨夕の散歩について
4時に犬の散歩に出掛ける。小倉の親戚がリードを持ってくれた。
天候が不順で朝は雨が降り、昼は晴れ上がり、夕方は曇った。多くの人にとって雨以外はそれほど違いを感じないだろう。兎に角、雨というのは天上から水という物質が落ちてくるのだから実害乃至実利が生じるのだ。晴れ曇りの間で一喜一憂する人もあるかも知れないが、それは特別な状況にある人たちであろう。
物というのはそれ自体で存在を主張するばかりかそれへの対応も要求するのである。面倒だが物というものはそういう属性を有している。我々は物に埋もれて生きているのだ。そして我々は衣類を身に纏い、食べ物を食べ、住居に憩うのだ。人の生活に基本は衣食住とは良く言ったものだ。しかし、衣と食と住は同列にはおけないだろう。
私にとって衣は少なくとも下着については1日1回の変更、食は1日3回の摂取、住は今の家に大して掃除もせず15年位住んでいる。
衣食住と最初にいった人は誰だか知らないが、その時は時代の要請があったのだろうと想像されるが、せめて原理を柱に食衣住か住衣食として欲しかったものだ。
TPOとは最近はとんと聞かない言葉だが一世を風靡していたことがある。これ以外、とんと聞かなくなった言葉は最近とても増えてきたように思う。
年寄りは自分が思っていることをいつでもどこでも誰にでも言って良い、言う権利があると思うようだ。それには理由がある。もう先がないからだ。そうでなければわざわざ言う意欲もエネルギーも生じないだろう。
歩くコースは決まっている。公園、グラウンド、海岸、突堤といつもの通りである。コースも変わらないし、人も犬も変わらない。それは変わらない間のことをいっているに過ぎないが。死ぬまで生きていました。生きていている間、死んでいませんでした。と言うようなものである。
突堤の対岸で、多分前回と同じ人だろう餌をやってカモメやカラスやトビを集めていた。鳥にとっては神の手が食べ物を投げ与えていると思えるだろう。
天然自然の摂理の混乱がかくもたやすいことかと感嘆せざるをえない。尤も人の手で餌をやるのも自然の現象の一つと言えなくもないと思う。自然はいつも惑わす面をもっているからだ。
4時35分に帰着。